代弁者と咀嚼する者

2012-01-05

代弁者であろうとする者は咀嚼しないことが多い。受け売りをするという窃盗のような行為に対して彼らは罪の意識を感じない。

他人のことばをまるで自らが考えて思いついたかのように述べている。ただ代弁者たちは読者よりもはるかに勝れた気質をもっている。彼らは書かれていることばを読んで思い悩んだりしないし、そのことばの意味をすぐに見出す。(ただし陳腐な意味付けに終わることの方が多いのだが……。)

ことばを咀嚼しようとする者はそのことばが他人の心や眼をえぐりとることを知っている。何故ならば代弁者たちのような低いモラルをもちあわせていないからである。しかしそれは勝れた人間であるわけではない。彼らの心はえぐられて、失明しかけた人々であるからである。

代弁者たちがことばを咀嚼しようとすること。それは代弁者たることをやめようとすることである。他人の歌をカラオケでうたうのではなく、自分の歌をうたおうとすることである。陳腐なカラオケをうたうより、川辺や海辺で飼い犬に聞かせてみたい歌が口からでるからである。

ことばをリアリゼーションする演奏家たちは、その全身全霊で歌をうたいはじめて鳥になる。実験室で餌をもらうためにうたってみせた歌ではなく、ある日その実験室の檻からでて、大空の下で大きな声でうたってみたいからである。

世の中の人たちは知っているのだろうか。人間たちが残した残飯をあさるカラスたちは、ビルの上の誰もこないアンテナの上で、さまざまな声のトーンで鳴いて見ているということを。誰にも注目されなくても、真っ黒な勇ましい躯付きのカラスたちは、夜明けに空に自らの声を刻もうとしている。何とも格好のよいものだ。

肉の塊に翻弄されるひとびと

2012-01-05

五蘊成苦もしくは行苦というのは人間の基本的欲求そのものが苦の原因であるという仏教独自の苦しみに関する洞察を表している。我々人間は肉体に対する欲求がその本能的な衝動であり、それが無常で無我であるにも関わらず、その価値を過剰評価している。

たとえば衣服住といった我々の基本的な文化領域もそのペルソナ的な存在の延長線上にあり、そのことがすべての欲望や憎悪の基盤となる主語である。殆どの認識がこのペルソナ的な存在を対象としているのであり、社会学や医学の対象もこれらのペルソナ的な存在の価値を如何に詐称して、過剰に評価したらいいのかというその方法論を説いている。

自由に対する欲求はこの本能的衝動に対する反動である。何故ならばその本能的衝動は堪え難いほどの苦しみの連鎖を生み出しており、どのような人間であってもこの肉の塊を維持すること以外にさほどやることがないからなのである。

多くのロマンチシズムは肉の塊に対する醜い執着を覆い隠すのに充分な美辞麗句をならべたてるが、最終的に肉の塊を得られたとしても、その肉の塊を消費しても何も得ることができないという悲劇に達成するしかないのである。

人間たちがこの地上で互いに肉の塊を共喰いしないために、人類の歴史が続いてきた。まだそれも発展途上であるが、肉の塊から解放される日を目指すことこそが、最終的に孤独な砂漠にたどり着かないための安全策ではないだろうか。

思い違う人々

2012-01-05

こないだある人にあなたは人格者じゃないと言われた。そもそも人格者であることを目指したことはいままでほとんどない。

仏教に関わるのは個としてなのであって、チベット仏教を学ぶことで我々が知ることは、この狭い島国で痛みを慰め合って涙にむせんでいることの器の小ささであろう。

宗教に関わる人間はもちろんそれを通じてよりよい人間になるべく努める必要はある。しかし思い違いをしてはいけないのは、宗教はあくまでも「教え」なのであって肉体ではない。

その教えは、理想や最終的なゴールがどこかを示しているが、その理想やゴールを体現することを保証するものではない。その体現者はいることはいるが、凡人の生活を送っていてはそのようなことを実現することはできないし、聖人が市中にいて欲しいと思うのは単なる希望的な観測でしかないのではなからろうか。

それに関わればすぐによい人間になれるってことではない。むしろ自分自身がだめであると認識してこそよりよい人間になろうという決意がうまれる。他人を断罪しようとするものは、一歩たちどまり、まずは自省することからはじめてほしいものである。

触る音からはじまった

2011-12-22

触る音、飛来する音というのがある。それは風や光や電波である。

空気の振動によって発生する音波を10hzからどんどん周期を落としていくとそれは波形ではなく、単なる揺れになる。どんなに高価なスピーカーでも1hz以下の波形は再生できないし、30khz以上の高音を聴き取ることができる人はいない。聴覚をいくら研ぎ澄ましても電波を聴ける人はいないし、光線を聴ける人はいない。

物質の振動の周期が極めて遅い場合にはそれは揺れとか一つのイベントである。しかしそのひとつひとつのイベントの時間的感覚を縮めていくことで人はそれを連続する事象であると認識する。

連続する事象が特定の類似する反復パターンをもてば、そこに認識パターンの記憶を保持することから、意味を形成することができる。意味を形成する能力と用途を果たす能力と対象形成能力はダルマキールティの場合には同一視されることを考えると、複数性からイデアが生み出されるといえる。

チベット仏教で客体が「知の客体となり得るもの」と定義されているがこれはまさにこの人間の知的習性をよく観察したものであるといえる。

先ずは昔この辺りまで考えたことを思い出してこれをひとつの材料にしておく。

複雑な構造への憎悪を捨てる

2011-08-16

ものごとが複雑であるのがいやな人が多い。

何でも簡単に素早く済ませたいのが最近の流行である。複雑な哲学書を簡単な命題に置き換えたりするのが殆どの人は好きである。

もちろん棺桶に入る時に入れることができないものの方が多いので、
私たちが持っているもののその殆どが不必要なものである。

人間ひとりが生きることは簡単ではない。だからひとりの人間が持っている情報量は無限大くらいある。どんな大きなハードディスクにも収まりきれない大容量なのである。ウェブが今年で20年を迎えたそうだが、これで世の中が変わったなどと錯覚していては、気が狂っている。

世の中には我々の想像を遥かに超えている現象は沢山あるし、どうしても隣にじっと座れない人も沢山いる。文化のちがいやバックグラウンドの違いは致命的であるが、だからといってみんな同じだと気持ちが悪くて吐くだろう。

仏教徒は仏教のことだけ考えておけばよかったというのなら、誰も苦労したりしないだろう。そんなにものごとは単純ではないのである。

言語というものは多層構造をもっている。めんどくさいが、仕方ない。仏教的にいえば、これが行苦そのものなのである。

日本語に訳すために

2011-07-24

仏典のことばを日本語に訳すためには、日本語で仏の言葉を記述しなければならない。それらが果たして如何にあるべきなのか、ということはその言葉を発する者が人間としてこの世の中に如何に存在しようとしているのか、その姿勢やスタイルに依存している。

学者と呼ばれる多くの翻訳が不必要な記号でその正当性を主張せんかの如く装っているが、これはその人間のやる気のなさの表れである。何百年間もの間に多くの人間がそのことばを口に出してきたことを想像すらできない、いわばことばを使ったコミュニケーションをあきらめた廃人の落書きである。そのような状態に陥ってはいけない。我々が取扱っているものはそのような安っぽいものではない。

テキストを読むことや語学ができることなど大した問題ではない。しかしながら外国語の苦手な翻訳者がなんと多いことだろう。サンスクリット語やチベット語を取扱っている人間が、貫之やマラルメやランボーを読んだことすらないというのは致命傷なのである。

哲学書を翻訳している多くの人が、詩人になれという話ではないが、自分たちが才能に乏しい詩人になれない者であることを素直に認めた方がいいだろう。世の人々は魂のこもった愛の歌を聞きたいのであって、スポーツ新聞のゴシップ記事を読みたいわけではないのである。

ものごとが簡単に出来ないと、自閉症に陥ってしまう者が多くいる。しかし眼の前にあるその優雅で甘美な神や仏への愛を詠うことばたちに対する者は、その殻をぶち破らなければ生きていけないことを思い知るべきである。

絶望からはいあがり、ことばを日本語に訳してみよう。その日本語は間違いなくこの日本のことばなのである。それは我々落武者が振りかざす最後の剣のひとふりかもしれないが、野垂れ死するよりはましであることだけは確かであろう。

ダライ・ラマ法王と極東日本の仏教

2011-06-25

日本人にとって、仏教は遠い海の向うのインドの宗教である。その教えは模倣すべき見本であった漢人たちを魅了していたので、それが価値のあることは分かっていたが、一体どんな人がどのようなスタイルで実際にその宗教を担ってきたのかを実際に眼にしたことがなかった。島国に棲む臆病だがヒステリックな人々にとって、仏教がもたらした建築技術をはじめとする最先端の文化の魅力はその恐怖を覆い隠すだけの充分な代償であったからこそこの国には仏教というものが取り入れられることとなったのである。

十一世紀に朝鮮半島からやってきたユーラシア大陸の覇者であったモンゴル人たちの恐怖とスペインからやってきた宣教師たちは、この島国を混乱に陥れた。その結果、最終的には三百年もにわたる「鎖国」という選択へと陥れたのと同時に、中央アジアの仏教の潮流とは交流が断絶した。その後黒船とともにがやってきて、過去の価値観は完全に役にたたぬものとなったが、それでも西洋人にこの小さな島を奪われないように、西洋人のまねをして暮らすことを覚えた。もともとヒステリックであった日本人が生来もっていた「帝国主義」でアジアを支配する夢を描いたが、その夢はアメリカという巨大な国と二発の原子爆弾によって粉々に砕けちったのである。その後軍事力も何ももてない日本人たちは、「経済重視」というスローガンですべての問題を解決しようとしてきた。この国ではいつしか政治と宗教はタブーとなり、仏教界に生きる人たちにとっても業報輪廻は語るべきではない差別問題へとすり替えられてしまったのである。

ダライ・ラマ法王とチベットの仏教徒たちは、そんな日本に直接やってきた。日本人と顔もよく似た彼らは、国外に流浪の民となったにも関わらず、これまで日本では誰も触れることができなかった本格的なインドの大乗仏教の延長線にあるものをもっていた。当初チベットの仏教は「ラマ教」と蔑視され、対中関係のなかで微妙な問題を回避するために無視された。
 しかしながら、最近になってそんな簡単に無視するべきものでもないことに漸く気付き始めた。ダライ・ラマ法王が獅子座の上から人々に語りかける、人間であることの価値や宗教に対する真摯な態度、そして我々が過去には論理的に学ぶ術すらもたなかった四聖諦や空性に関する論理的な説明、芳醇でシステマティックな密教の修行法などがいま多くの日本人を魅了しはじめている。

長い間、本当のインド大乗仏教の伝統に触れたことがなかったこの日本でその教えがあらたな文化の創造へとつながるにはまだ時間がかかるだろう。ダライ・ラマ法王やチベット仏教徒たちがもたらすものは、インド仏教の延長線上にあるスタンダードな仏教の総合的な教義体系とそれを人生のさまざまな場面に活かすためのサンプルである。日本人にとっての仏教の歴史はいま確実に変わりつつあるものであり、長い仏教の受容史を考えれば、我々はいまその大きなターニングポイントを目撃しつつある。

歴史上はじめて来日したダライ・ラマ十四世法王が降らす仏法の雨は確実にこの狭い島国の大地を潤し、新たな発芽を迎えつつある。今後それが成長し、どのような花を咲かせるのかは分からないが、その花が美しくかけがえのないものとなることだけは確実ではないかと思われてならない。

仏教の研究をするために

2011-05-18

仏教の研究をするということは、読み下すのならばブッダの教えを研ぎすました感性で究明しようとすることである。それは決して「仏教」というジャンル分けをされたものを対象として、そのものを客観的に社会に提示するためにその芳醇な要素を篩にかけて、捨ててしまうことではない。

しかしながら、最初に「研究」をしようと思ったころや、それに対する研究に必要最低限なスキルを身につけるための努力をしているうちにそういうことを忘れてしまう人が多い。

仏教の研究者になろうと思ったころには、サンスクリット語、チベット語、漢文、パーリ語などなど学ばなければいけないものが多い。それらの語学を学ぶうえでは、語学能力の向上のためにそれらの言葉を使っている人たちのことをもっと知らなければならない。何故ならば、その言葉がどのような意味であるのか、ということは、あくまでもその言葉を発する人に対する思いやりというか、想像力から理解されるものであるからである。

たとえば現代の仏教学では仏教論理学というものが非常に注目されてきた。これは仏教にまつわる文化の担い手たちが宗教やブッダの教えというこの巨大な象をどのようにあつかっていいのか分からないという不安を代償としたものである場合が多かったと思う。モダニズムではなくて古典主義になった人々は、たとえば新しい写本の発見といった、古い実在的な価値観から解放されることなく、むしろ崩壊したモダニズムのなかで少ない実在的な価値に命をかけてきたといってよいだろう。しかし、この世を見てみよう、骨抜きになった魚のように、教えの輝きを失った仏教学は、人々の心を揺さぶることができないまま、社会はもっと悪くなっているのである。

我々はほんの少しの周りの人と同時代の人たちのために生きている。それらの人たちのなかで一体自分というものがどのような位置に立つべきなのであり、どのようにこの「私」という記号を人々のなかで面白い存在にするべきなのか、ということは誰しもが考えなければいけないことである。しかし、そのような事実を直視することの恐怖に脅えている。

ある人がお前は論文を沢山書いてないなといったことがある。つまらない論文を沢山書くくらいならば『中論』のようなものを書きたいとこれらの人は思ったことはないのだろうか。決して多くを語ることが重要ではないはずである。適材適所に言葉をちりばめて、その仕掛けを人々がどのように楽しんでくれるのかとういことを考えるのは、小さな楽しみであるはずである。それらのことを日常の雑事に追われて忘れてしまっていることが多い。

我々は毎日問いかけなければならない。ブッダはいまもここにいて何を我々に教えているのか。彼らの言葉をまず性格に理解することをはじめ、そしてその教えを感受することから仏教の研究ははじまる。

ものつくりとものがたり

2011-05-13

いろいろなものがある。

それらには作り手の生きる意志が宿されたものもあるが、そうでないものも沢山ある。作り手の意志がそこに宿っている場合には、もはやその作り手がいなくなっても大丈夫である。それらはものとして永遠に何かを語りかけている。

言語に頼ることなく、その語りかけるものをつくりたいと思ってきたが、日々の雑事に追われてものをつくるということ、あるものを生み出すということが容易ではないことを時々忘れている。ただものをつくり出すことと排泄することとは違う。ものを受け取るということとそれを消費することとは異なっている。

むかしある武士がいた。

彼と私はひょんなことで出会ったが、彼は生涯武士であった。彼はさまざまなものに名前をつけたし、さまざまなものを愛でることを知っていた。しかし彼はものをつくることはできなかった。そこで若く生意気な私は彼に落武者の雅を感じ、見限ることとなった。

いま思えば彼はものをつくりたいというその欲望を実現できる立場ではなかった。それが武士であることの限界なのではなかったろうか。家というものに住み、彼には責任があった。ものをつくるためにすべてを投げ出してしまうことだけは彼にはできなかったのだろう。

彼に私は自分の行く末をみるような気がして、そのうち彼とは別の、ほんとうにものをつくり出す人のもとへと去ってしまうこととなった。そしてその行為そのものが私が何らかの変化を遂げたいという意志そのものであったような気がする。

それから大分年月が経ってしまった。逃げるようにして去っていった私は彼の死に立ち会うことなく、そして彼との別れをすることなく、彼は去って行った。彼に再び会いたいと思ったことは何度かあるが、少なくとも自分自身が作り手のひとりになるまでは、彼には会えないのではないかという気がしていたことも確かである。

彼に再び会うことができる日はついに来ないまま、終わってしまった。それはまだ自分が充分に彼が愛でるような対象を生み出せなかったことの証拠であろう。

ものがたりをつくることは容易ではない。それを彼がいまも静かに私に教えてくれている。彼があの冬の寒い日に私にくれたあの大地が震えた一瞬を私は忘れない。彼を弔うためには、再びそれを生み出すために真剣に取組む必要がある。

དྲང་ངེས་ལེགས་བཤད་སྙིང་པོ།

2011-05-08

ひさびさにこのテキストに取り組もうと思う。これはツォンカパのテキストの中で最も重要なもの。だからこそ、全力でぶち当たりたい。

Project Management Memo

2011-02-28
  • 定期的にプロジェクトを見直す。
  • その際にネガティブリストを作成する。
  • ネガティブリストを網羅的に克服する。
  • ユーザエクスペリエンスのサンプリングをする。
  • キャッシュフローを見直す
  • タイムラインの再構築

見えない仕掛けを見えるようにしてみる

2011-02-09

Kailasa Bold

Kokonor

見えない仕掛けを見えるようにしてみるとこうなる。Apple Advanced TypographyのContextual Layoutというのはこういうことができる。前の文字を見ながら新たに入力した文字を別の文字に置換する。あたかも手が前の文字のある場所と重ならないように文字を描くかの如く。

文字が詠う

2011-01-20

文字が詠うというのはこういうことか。これが日本語なんだね。こういう文字を見ると日本語やはり変体仮名を捨てたのは最悪の文化の後退であったと思う。やはり手習いのはじめから仮名というものをこのように書くように学ぶべきだと思うこのごろである。

書物の海

2011-01-18

書物の海に囲まれて過ごしていくというライフスタイルを望んでいたけれども、ある時から特定の分野の書物を収集した。特にチベット語の原書を多く集めることに莫大な金額を費やしたが、いまふと思うにこれらの書物は一体だれが読むために入手されたものなのか、分からなくなってきた。ここにある書物の海は、明らかに持ち主である私が死ぬまでに読み切れない量があり、バランスを考えると、キャパシティーをオーバーしているわけだ。そもそも、多くの書物を整理するだけで何日もかかるようでは、これはまずいんじゃないかとふと思うものである。

仏教学の研究者というものは、文献学をベースに行うことが暗黙の了解となっているが、それはあくまでも書物に書かれたことばしか手がかりがないということに過ぎない。いちおう過去(つまり今より前)に文字にされたものをすべて網羅的に調査した上で、過去になかった何らかの新しい見方なり分析というものを客観的に提示するのが研究者の役割であると思ってきたが、そこには同時代にことばにならないで消えて行った人の痕跡というものを、見えないものであるかのごとく扱う乱暴さがある。このことにふと気付いた。

人間としてはことばや文字になっていないものを想像力によって補完し、そこに生きてきた様々な思い、そして意志、そういったものへ追想を巡らせることができるということは自明のことであるが、同時にすべての情報をきりなく追い求めることができないというジレンマもある。

神はその自らの姿に似せて人間をつくったというが、同時に人間は自らの姿に似た外部の構造物を時には神として建築してきたのである。そのすべてが必ずしも文字に残されなければならなかったわけではない。誰しもが生きている痕跡を残さなければいけないという原則は全くない。

行間や文字の間の意味を読み込もうとする意志も重要であったが、書物と書物のあいだにある無言のことばたちのことを忘れるべきではなかったし、そしてその書物が書かれた紙をつくった人間、文字を書いたペンなどのことも忘れるべきではない。

新しく美しいメディアに

2011-01-07

電子ブックの開発に取り憑かれている。未だにこのメディアで何らかの新しい世界への招待状を外部に送ることができないが、少しずつやりたいことが具体的に見えてきた。今年はまた新たなはじまりの年にしたい。

やりたいこと、読みたいもの、聞きたい音、それらは最初からある程度決まっているが、ようやくそれらにふさわしいリアリゼーションの方法がいくつか分かってきた。

私は権威主義者を憎みほんとうの人間のことばを聴きたかった。だからこういうメディアを学術書の発表の場にのみしてやろうという気は毛頭ない。もちろん学術書や研究論文というものはすべて紙ではないものになるべきであると思う。

このメディアはWebと同じことができるが、Webとの違い、それは見るもの、そして読むものがフォーカスされていることであろう。それは人の手仕事のようなサイズであり、これらの小さなデバイスのなかに入り込んで我々はことばを新たにこれまでとは別のありようで咀嚼できるのである。

これまでのようにインク臭い大きなスペースは不要である。図書館の書庫の中で巨大な情報量に自分の小ささやくだらなさを隠蔽する必要はない。もはや雑沓のなかで大きな声で叫ぶ必要はない。それはまるで手で一文字ずつ書かれた恋人に向けた恋文のようにプライベートなものなのである。

空虚なことばで塗り固められたサイトの嵐のなかで、ゆさぶられながら存在することは必要はなくなるだろう。自らのものに対する愛着が原因で収集された書物を整理するために書棚を買ったりしなくていいのは絶対的にいいことである。何故ならばたとえ明日死ぬことがあっても残された人が大量に資源ゴミとして美しいことばや思索に息をふきかけるものを名残惜しみながら捨てなくていいからである。

人間には持って歩けないものも必要であるが持って歩けるものはほんの少ししかない。そんな限られた人生にふさわしいメディアが電子ブックであると思う。

屍たちの大地の上に集う人々に

2010-09-22

以前こんなことを広島国際平和会議2006の議事録をまとめた時に書いた。

私たちは毎日この「広島」で、跡形もなく消去った屍たちの大地を踏みしめて歩いている。いまもなおリアルタイムに、山の彼方、海の彼方では、言葉すら発すことができないまま、人々が死につづけている。この現実を直視し、彼らの無言の声に耳を澄ますこと、そこから変化ははじまる。そしてこの本はそんな変化を待ち望みながらこの世を去っていたすべての無名な人々のために捧げたい。

今年もまた広島でダライ・ラマ法王たちが集結したノーベル平和賞受賞者のサミットが行われる。来るメンバーが既に会議の事務局から発表されている。http://www.nobelforpeace-summits.org/wp-content/uploads/2010/09/Draft-Program-15sett..pdf

今回広島に集まる蒼々たるメンバーもしくは団体が広島から発するメッセージは貴重なものであり、核廃絶を通じて平和貢献しようという意図にみちたものである。

ノーベル平和賞の受賞者が彼らが何をどう発言するのか。それは傾聴に値する。そして今回はどのようなメッセージがでてくるのか、興味深い。

以前彼らが発した宣言文は以下のリンクにある。

http://www.hiroshimasummit.jp/

人間が生命の尊さに直面する時、必然的に瑣事を捨てなければならない。生命の尊さを政治利用するべきではない。人が生きているということ、そして何か巨大なものの犠牲になって不本意にその命を落とすこと、そういうことを簡単に捉えるべきではないのである。大切なことは「広島」「ヒロシマ」という場所なのではない。観光キャンペーンではないのである。だからほんとうに大切なのは「ノーベル平和賞」 でもないとういうことを断っておきたい。

本当はそんなことはどうでもいい。実際にいま死にかけている人がいて、銃をもって殺し合わななければならない子供たちすらいるということだ。核廃絶ができても人々の心が変わらなければ平和な社会にはならないのである。

明日をも知れぬ我々の持ち時間は非常に短い。人生のなかでできることはほんの少しのことしかない。この屍たちの大地に集うすべての人がこの思いを再度思い起こして欲しい。いま人間としてここにある無名の人々の無言の声に耳を澄ますことができるだろうか。

封印された死の秘密

2010-08-18

世界中が死を封印していることについて、ここにメモを残しておこう。

そもそも現代社会において死は封印されている。
何故その秘密は知られないし、封印されたのか、それを考えてみよう。

それはすべての人にとって未体験で初体験のこと。
誰もいままで死んだことがないし、これから死ぬこともまだ未経験である。
臨死体験に関して本などが出ているが、これらをすべて信憑性が乏しいと思っているのが普通だ。
なぜならそれを語っている人がいまも生きてるからである。

つまり「死人に口なし」だと誰しもが思っているのだ。

一方では「死を語るべからず」という風潮がある。
これはいまにはじまったことではない。孔子の時代からあるのだ。

この考え方の背景には、「死は時の終わりである」「終わりは避けられない」「終わりよりいまが大事」という考えがある。「生きていること自体意味深い」「いのちがすべて」「現実は美しい」という楽観主義が蔓延している。

死=消滅=無に帰す=あの世の人、つまり我々には関係ないので、「死を語ることは縁起が悪い」「いま語らなくてもいいんじゃない」ってことだ。しかしこれにも私たちは容易にだまされない。

「それでもあなたは秘密を知りたいのならばどうぞ」

紙に学術情報を書いて何か意味があるのか

2010-07-27

紙に文字や文章を書くことは人間の手仕事と関係しているが、紙の情報というのは実はこの世にあるすべての情報を書き残すのには不向きである。ここには言葉に対する過信だけではなく、既存のメディアに対する無批判な思考が現れている。

科学的な研究活動をする上で紙の上にすべての情報を残そうという試みは、メディアの特性を理解していない「愚の骨頂」である。もちろん書物という紙の束は、ものとしての価値はあるけれども、情報それ自体を他者と共有しようという意志を拒んだものであるといえよう。

いまはもう21世紀。紙とかハンコというのは速攻でやめるべきである。

紙に書かれたことはアップデートできないし、キーワード検索できない。紙に書いたことを検索するために学術情報データベース入力用のキーワードを書けと学会などでは強要されているが、これもあまりもばかばかしくて話にならない。

globalisation/localization

2010-05-30

グローバリゼーションの手法

  • globalisationのためにはlocalizationが必要
  • 意味の普遍化を行う時に、総体の普遍化が行われる
  • 総体の普遍化は切り抜きによって実現する
  • 配置された個は意図的に配置され、その行為の作者と意図が存在する
  • 意味をもたないグリッドによって、偶発的に分配され、母集団が形成される
  • 意味をもとない分割原理が、意味があるかの如く装う
  • 劇場的タイムラインで旋律化し意志を表現する
  • 劇場的タイムラインで旋律化し意志を表現する

強調の手法(Design of Bold Typeface)

  • 通常値を設定して、増殖分を設定する。
  • 増殖分によって加算された部分を単純化
  • 受け手のキャパシティとの調整を行う
  • その時点で、純粋に強調されたものではないが、強調されているかのように対照的に配置
  • 強調部分が、通常部分との総体的なバランスを保てるようにする。
  • 二つの要素が一つの総体として錯覚可能な状態なのか検証する

商品化可能な記号と商品化不可能な人間

2010-05-30

このところのTwitterやBlogのブームは、溺れそうな個人が商品化可能な個人になりすまそうとする傾向が感じられて、これは非常にまずい事態である。

デジタルな世界に商品化された記号は、流通可能な状態のように見えるが、そこには商品化不可能な人間が背後にあり、リアルな世界での均衡を失いつつある。この流れが進むと記号化できていない状態で絶妙なバランスを保っている人間の能力が過小評価される危険性がある。 Read the rest of this entry »

ことばとして発せられる前のもの

2010-05-24

日本人でチベットのことを研究する意味は、社会的にいえば彼らの言葉を日本語で表現することにしかほとんど意味はない。私が研究してきたツォンカパの空思想はチベット仏教史上極めて重要なものであるが、それを完璧に日本語に翻訳することなどできないものも多くある。

そしてこの翻訳不可能性の問題を考え始めるのならば、厳密にいうとほんのひとつかふたつの単語すら翻訳することができないという壁にぶちあたる。そういうことを考えたことがない人は単純に言葉を置き換えればすむと思っているが、そんなに甘いものではない。我々が「私」というこの一語を発するだけで大きな一歩を踏み出していることを決して忘れてはならない。

「言葉に依らず意味に依りなさい」「人に依らず法に依りなさい」これらは四依であるが、実はその逆のことをやっているものが多くいる。仏教の研究者といわれている人のなかにも袴谷憲昭氏のようにこの教義自体を批判してやろうと企てているものだっている。しかし彼らは忘れている。「意味」「対象」「目的」これはサンスクリット語でもチベット語でも同じ単語なのである。彼らはそれらの言葉のもっている意味空間をあたかも忘れたかのような議論をしているが、所詮日本の仏教学という非常に小さなコミュニティでごちゃごちゃいっているだけだ。

哲学者や言語学者というのはことばとして発せられる前のものを追求してきた。音楽家や芸術家もまたそうである。彼らが目指してきたものは、ローカルな言語やローカルな社会のはなしではない。我々人間が非常に長い間、この世で取組んできた、ことばにもできない、もどかしさや苦しさを吐露する、ことばとして発せられる以前のものに取組んできたのである。

無上瑜伽タントラの生起次第において、空性を把握している知の所取相が本尊として生起するという話は、まさに芸術家が創造という行為を行う賭博のような一歩を歩みだす瞬間である。その瞬間から瞬時にして構築されるものは、決して通常の理解ではあり得ないような象徴と意味が絶妙なバランスによって生み出されるべきものなのである。そういった営為が秘密とされていたのは、それを説くべく人として言葉として発せられる以前のものを瞬時にして把握できるような人間以外にはその意味が理解されることがないからである。残念ながらタントリズムの世界は、いまの日本人のような観念的で想像力のない臆病な人々には理解をこえたものである。彼らは結局はなんとなくそれをやった気になっただけであり、本当に死や無常の淵から這い上がるような気概がなければ、そういった修行など無理としか思えない。

師、佐藤慶次郎氏は「I am」とか「私が」ということをどういう風に言ったとしてもそのことばでそのことばよりももっと大事なことがあるということをしきりに教えてくださった。師をはじめとする真の芸術家たちは、そのことばとして発せられる以前のものを言語化することに長けていた人々である。私がチベット仏教への研究へと向かったのは、私なりにある異なった言語化のプロセスや構造を解明したかったからである。別にチベットが好きなわけでもなんでもなかった。彼らが築き上げた論理的に体系化された宗教的カタルシスをともなう世界がいったいどのように組み立てられているのか、ということを知りたかったからである。そしてその組み立て方を何故知りたかったのかというと、『中論』のテキストをどのように音楽にできるのか、というこの何とも面白そうことをやってみたからである。

『中論』を音楽にしてやろうと思ったのは、これは決して翻訳できない美しく織り込まれたテキストだと思ったからである。そして一章一偈だけこうやったら音に置換できるのではないか、という試みをした時点でいきづまり、その後でいろいろあったが、まだまだその後残り何百偈もまだ課題が残っている。そしてこの取り組みはまだ終わっていない。「四十にして不惑」とはよくいったものである。師、佐藤慶次郎氏はちょうど一年前名曲「カリグラフィー」の長いフェルマータの如く息を引き取られたが、私にはいまだに「野村君、君は一体どうするんだね」というあの声が聴こえてくる。四十まで残り半年くらいだ。とりあえず瑣事に惑わされないようにちょっと苦手な整理整頓からはじめたい。

入力されたことば

2010-05-22

大量に氾濫することば。重みのないことば。
これがネットの世界であったはずだ。
それは数時間で捨てられてしまう新聞記事よりも軽い。

そんなあたり前の前提を忘れた人がいる。
何も期待しないでほしい。残念ながらここに何もヒントはない。
ただ単に空虚なことばが羅列されているだけである。
何か浅薄な知識や情報を伝染病のように流行させたいというものではない。

最近、人々は想像力を失った。ほんとは簡単なことである。
毎日沢山言葉を発している人は、ひとつの言葉にかける力の比重が軽くなる。
ときどきしか語らない人は、自然とその言葉を選ぶようになる。

真実を追求したいと希うのならば、大量のことばを入力することをまずやめてみよう。
たくさんぐだぐだいっても、人間の記憶力ってのはそんなにすぐれたものではないし、
そんなにぐだぐだといっている人のことばに耳を傾けるものなどいない。

人生を変えるようなことばはほんの小さな塊である。
人が幸福を感じるのは、ほんのわずかなカタリスティックな時にある。
恋人のほんの小さな仕草を耽溺するのが人間のもつエロスである。

何かを伝えようとする、という大それたことを考えるのをやめて、
ひとつの行為の網羅的な記録であるのが、WEBLOGである。
そこには要らない情報もあるし、要る情報もある。
書き手も勝手なことを書くわけなので、読み手も勝手に読めばいい。

過度に人に期待するのをやめるべきだ。残念だが自分で思っているほど、
人はそれほど他人に興味をもっていないし、そんな余裕もない人ばかり。

自分でやらなくても代替できるものが実は沢山ある。
会社や学校や社会は代替できなくてはならない観念的なものである。
しかしこの眼の前の空間に存在して生きることは代替できない瞬間の反復にある。
ここに書かれていることばは単なるマテリアルにすぎない。

言葉を物質化するよりも、記号として検索可能な状態で保持する方が、
記号としての言葉の本来の性質に沿っていると思う。
ただ誤解すべきではない。ことばを書いて死を乗り越えることなんてできない。
ただことばが検索可能な状態でログ化されている場合、
再び井戸を掘ろうとする人間にとって、
これほど面白く楽しいものはない。

事例は検索可能な状態でなければならない。
検索可能な記録のために今日もまた空虚なメモをここに書き残している。
もしこの空虚な言葉の文字列に意見があるのならば、
まずはこの閉ざされた画面のなかにコメントが書ける。

書き手という人間にコメントを書いてどうするのか。
言いたいことがある人はまずはその文字列があるところにコメントを書くべきだ。

「古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ」

2010-05-10

昨日は師、佐藤慶次郎さんのすこしはやめの一周忌の会があった。青山の空は晴れ、すみきった心地よい日であった。仏教担当ということなので、師が生前愛してやまなかった般若心経と正法現蔵の愛語の箇所を唱える役を仰せつかった。

終わってから佐藤さんの本の整理などをするために、久々に荻窪のお部屋にお邪魔する。 Read the rest of this entry »

2ヶ月も前にもどってしまった

2010-05-02

別に大したことを書いた記憶もないが、2ヶ月も前にブログがもどってしまった。

書くべきことがあったのでブログを復活

2010-02-09

書くべきことがあったのでブログを復活しました。
それにしても日本の報道ってヒステリックで国際感覚がなくて困る。
中国を馬鹿にしている人も多いけど、やつらはやはりストラテジックだ。

中央統一戦線工作部のサイトなど読んでいると日本は負けてるなって思ってしまう。

とりあえずもうすぐロサル。今年こそチベットにとってよい年になりますように。

チベット・中国の対話の行方

2010-02-09

2010年1月30日、31日、北京にて統一戦線部工作部・ダライ・ラマ特使の会談が行われた。この10日間くらいこの問題の整理に追われていたが、報道発表合戦もすこし落ち着いてきたので、まとめておきたい。

まず本会談の名称であるが、これは以前から同じであるが、両サイドとも異なっている。会談のことをチベット側では「中国・チベット間の対話」と呼ぶのに対して、中国側は「中央政府の関係部門とダライ・ラマの私設代表とが接触した会談」と呼んでいる。中国側は「ダライ・ラマ帰還工作」の一環としてはじまったものである。それに対して、チベット側は過去の二国間の懸案事項についての協議と理解している。これについては過去の会談と同じである。なお本会談については前回会談の終了後、中国側も独自のウェブサイトを製作して、情報をタイムリーに配信した。 Read the rest of this entry »

チベット側と中国側の第9回目の対話が再開する

2010-01-26

ブログをやめていたが、明日よりチベット側と中国統一戦線部との対話が再開するようなので、このブログも必要なことだけ書くことにした。

http://www.dalailama.com/news/post/484-press-statement

国際問題としてチベット問題をとらえるという考え方があるが、それは実は妥当ではない。 Read the rest of this entry »

Stockhausen: Kontakte

2010-01-18

Duchamp & Cage

2010-01-18

仏教はネガテイブ思考

2009-12-24

先日初対面の人に「何故そんなにネガティブ思考なのか」と言われてかなり落ち込んだ。しかし、そもそもネガティブ思考なのを変えるべきかどうか考えれば考えるほど、それが不可能に近いということしか思いつかない。

そもそも仏教を考えてみよう「常楽我浄」これは仏教とは逆のものであり、「苦・不浄・無我・無常」これは仏教の教えである。ダライ・ラマが仏教における基本教理の一番最初は「これは苦しみである」という苦諦であり、苦諦のうち苦苦・壊苦・行苦のうちの行苦を考えてはじめて仏教徒であるとおっしゃっている。これは通常苦痛であると思っていることや快楽であると思っていることはすべて苦しみに他ならないというだけではなく、通常苦痛や快楽であるとも感じていないものであっても、それは苦しみを本質としていると知りなさいということである。

すべてをまずは疑ってかかれ。これが研究者や客観的な事実や論理を重視する人間の姿勢である。

私が最初に書いた論文は「否定」とは何かということである。つまり“the negative”という事象を扱ったものである。そして私の研究テーマは「ツォンカパの空思想」である。つまりこれもまた絶対否定の世界である。さらに言えば、般若経には否定辞「a」だけしかない一字般若経というのがある。

仏教をメランコリックな教えであると評したニーチェはニヒリズムであると言われるが、実は極めて人間的であり、ニヒリズムと無の思想とは実は全く異なっている。そしてそもそもポジティブ思考には限界がある。すくなくともロマンチシズムの行く末が狂気か神秘主義しかないは、既にヨーロッパでは立証されていたのではなかっただろうか。

生のダイナミズムを説くのもいいが、事実を隠蔽する楽観主義はどうかと思う。
残念ながら人は独りで死ななければならないし、すべてを置きさって次に行かなければいけない。そもそもじとじとした濡れたあはれなネガティブ文化こそ美しき日本文化である。うつくしさ、そしてかなしさ、慈悲は相通ずるメランコリックな世界である。

思ひわびさても命はあるものを
憂きに堪へぬは涙なりけり(道因法師/千載集)

「慈悲」を「思いやり」としてしか理解できない人にはこういうことは通じないのかも知れない。しかし慈悲とは悲しくて悲しくてやりきれない気持ちなのである。だからこそ「常に泣いている菩薩」(常啼菩薩)というのがいるくらいなのだ。

もうすこしやわらかくしても、多分ポジティブな人にはこういう歌に心を揺さぶられることはないんだろう。

http://www.youtube.com/watch?v=BXWk-j5Htos