如来蔵思想は仏教にあらずという命題について

もうかなり昔のものとなってはいるが、如来蔵思想は仏教にあらずと松本史朗が提唱した。彼はインド・チベットの仏教を研究しているうちに、自ら如来蔵思想は仏教にあらず、縁起説こそが仏教であるというテーマを唱えた。彼の唱えたテーマは奇抜であり、研究者たちの間では、大くの議論を呼ぶことになった。しかしそこから長い間チベットの仏教やインドの仏教について研究をしていくにつれ、松本史朗の如来蔵思想は仏教にあらずという命題は、あまりにも荒唐無稽なものであるということが分かってきた。

仏教学者が独自の新しい発見をしようと思い、奇抜なことを言うのは、もちろん言論の自由がある我々の国では許されている行為である。しかしながら奇抜なことを言うことを通じて、新しさを創造しようというのは、かなり間違った考え方である。伝統のなかで多くの人々がどのように考えてきたのか、それらは無意味なものではなく、一体どのような意味をもったものなのか、それらを冷静に、そして丁寧にひとつひとつ考え、そして取り扱っていくことは、極めて重要であると思われる。

いま思うに「如来蔵思想は仏教にあらず」という議論はあまりにも稚拙であると思われる。ちょうど野党がくだらないことを言って国会が紛糾するように実にくだらない議論である。何か受け入れがたいものがある場合に、それをまず否定してかかることは比較的簡単なことである。しかしそこには何らの生産性もない。ナーガールジュナやツォンカパについて語る場合にも、自分がそれと同程度の人間であると過信してはならない。「如来蔵思想は仏教にあらず」という命題は、程度の低い大衆文化が生み出した、日本固有の仏教に対する浅ましい考え方のひとつである。

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