根源を問う人々

さまざまなタイプの人がいる。

通常我々はものごとの根源を問うことをしない。音楽とは何か、芸術とは何か、宗教とは何か、生きるとは何か、人とは何か。そして私とは何か、ということを。

私とは何かという問いかけはさまざまな問いかけのなかでも最も根源的なものである。

この問いかけをする者は恐怖に脅えることとなる。何故ならば我々が思っているほど私というこのあやふやなものは、確実な基盤をもたないからである。

自己に対する洞察力のないものは、ある程度の洞察をしたことでそれでよしとしてしまう。何故ならばそんな楽しくもないことをやってもつまらないし、もっと楽な生き方があるからである。

たとえば誰かを利用したり、誰かをちょろまかしたりすることで、もっと享楽的な在り方もできてしまうのである。時々問題にぶちあたっても、それを見なかったことにすることが、普通の大多数の人のやり方だから、そこで安心感でも得た気になるのである。

しかしそのような安心感を疑う人々もいる。不安であり、そして不信感をいだいているからであろう。そういう我々は、いやいや、それは一体どういうことなのか、そしてどうあるべきなのか、という問いかけをし、その答えを探す、むしろ答えを仮に設定することで観察を繰り返すという在り方をする。

根源を問う者は実は貪欲なのであろう。というのも社会的なタブーやルールを無視してまでそれを裸にしたいからである。哲学者や芸術家、そして根源に触れる者は貪欲であるべきである。事実の微細な所作を看取するためには貪欲でなければならないのである。

おそらく根源を問う人々は、そういう性分なのである。彼らは退屈な人生を嫌う。驚くべき事実を求める性分なのである。

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