夢と伝灯の住まい

私の実家の本家にあった巨大な仏壇の夢を見た。いまどうなっているのか知らないが、夢のなかでは解体工事が終わり、手作りで描かれた立派な仏画も海水に浸食されている。常に新しく張り替えられていた畳も魚たちの通り路となってしまっている。ちょうど私が石巻で見たあの光景と同じである。

その姿を見て思ったことは、建物、つくりものとは立派すぎればすぎるほど、それを守るために誰かが「守らなければいけない」という命題に苦しむ、ということである。我が家ではそれが何十年にもわたって起こったことである。

いくらものごとを立派に作ることができても、自ら作ったものを自分が管理できない時代にまで残してはいけない。何故ならば、その作り手の意思を離れ、それは物質として我々を苦しめることであるからである。我が家の先祖たちはあの立派な仏壇と既得権を守るために、家族で内紛をし、いがみ合い、そして口もきかない人々と化した。

我々ものをつくる人間は面白いものをつくるべきであって、不幸の原因をつくってはいけない。友人のスティーブもガウディの聖堂のようなものをつくろうとすることは世界一の大バカものであるとビール片手に語ってくれた。それが人間として普通の感覚でもある。

もしも陳腐なもの、我々が使うだけで充分なものであったら、我々が朽ちていなくなるとき、それはちょうど消耗して風化することができる。我々の住む空間、我々の用いるもの、それは我々とともに、もしくは時を経ずしてなくなるのがちょうどよいのかもしれない。

人にも去るべき時があるように、人が周りに撒き散らかしてディスプレイされるものにも去るべき時、片付けられるべき時というものがあるのではないかと思う。私の師、佐藤慶次郎のオブジェはそれが純粋な生命力の示現であるのと同様、自然と壊れていっている。まさに刹那滅である。我々が生まれた瞬間から死につつあるのと同様に、それらのものも生まれた瞬間から、社会にデビューして、そして多くの人に不思議さと驚きと興を与えるが、じきに壊れていく。

ダライ・ラマ法王は「仏教というのは一世代でやるべきものではなく、何代もかかってやるべきものである」と説いた。そのことから私は「何世代、何百年も維持できる建造物をつくるべきだ」と誤解していた。建造物を作る過程で頭を反芻してやまなかったのは「結局はコンテンツがなければ文字通り伽藍堂になってしまう」このことであった。コンテンツはそれを作る人、それを表現する人、それを楽しむ聴衆がいてはじめて成立するのである。

「仏教を守ること、それはそれを語ること、それを実践することである」これは法王も好んで引用するヴァスバンドゥの俱舎論のことばであるが、仏教がある場所とは、それを語る場所、それを実践して思索にふけるための仮住まいでよいのであろう。

我々人類は最低限で最もミニマムなもので、最大限の幸福や美を感じる能力をもっている。邪魔になるようなものは最初から作らない方がいいし、買うべきではない。リサイクルできるものこそが、持続可能なものなのである。リフォームも建て直しもできないような家は実はいらないのである。

我が家にかつてあった巨大すぎる仏壇の夢は再生可能な仏教のことばと思想の持続可能性とは何か、その本質を示唆してくれている。小欲知足とはものを享受する側にも必要な価値観であるが、実はつくり手にこそ必要な価値観なのではないだろうか。我々ものをつくりだすべき使命をもつ人間は、欲望や憎悪や嫉妬や自尊心を増大させるものをつくってはいけない。何故ならば、それは人々を惑わせ、そして苦しめるからである。

「タクター(ほどよいもの)です」仏典に精通した老師たちがそう思うものをつくりたいと思う。

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