絶対への指標が在る風景

佐藤慶次郎の作品は、無我を現観する三昧智とそれを受用する身体とを時間軸上に継起的に発現させた視聴覚現象である。これらすべては時を内包する振動のディスプレイであり、観察対象と観察主体が一体となったパフォーマンスでもある。この“現成公案”は、空に流れゆく雲、さえずる小鳥たち、風に舞う樹々の葉、これらと同じようにいつもやさしく、静かに、そして軽やかに語りかけてくれる。

私たちがこれらと関わる時に注意すべき事実はこれらが自然現象ではないということである。これらの作品は有機的に現象の発現〈系〉として選択されたものであり、この風景はここに生を捧げた者の生の振動の軌跡である。それはすべての人間現象と同じように、常に愛する他者に取り囲まれここに存在し得たものである。

1991年の秋より師・佐藤慶次郎が絶対への指標を具現化する現場を目撃する機会を頂戴した。ここに改めて亡き師と和子夫人に畏敬と深謝の念を表明し、師の残された世界について、私的な取り扱いを記しておきたい。

絶対音楽へ

1927年に麻布で生まれた佐藤慶次郎は、幼少の頃からこの世界に対する漠然とした違和感を抱いていた。真の自由とは何か、自らの居場所はどこか、それをもとめ本能の発露としてハーモニカで無限即興に興じた。戦争を経験し、自らのことばで詩を書くことをはじめ、時代の要請もあり医学部に進学した。しかしながら病に取り組む医師ではなく、音に取り組む作曲家を志し、師・早坂文雄(1914-1955)の門を叩き《ピアノと管弦楽のためのレントとアレグロ》(Lento and Allegro for Piano and Orchestra, 1954)を発表した。

1953年からは瀧口修造を軸とする若き芸術家たちの集団「実験工房」(Experimental Workshop)に合流する。胃穿孔の後遺症である腸管の癒着に悩まされながらも、同じ時に呼吸し、同じ問題に直面する友たちを得た。当時の代表作《ピアノのための5つの短詩》(Five Short Poems for Piano, 1955)および師に捧げた《ピアノのための悼詩》というこの二つの作品は、静謐な単旋律で控えめに歌った自らの短い詩であった。そしてそれは新しい音楽とは一体何か、この根本的問いへの第一歩でもあった。

1955年、早坂文雄が世を去った後、残された師の構想、「新しい音楽〈ニルバーナ〉の試み」 ――衝撃性の排除、音の空間性の強調、単純な線の組み合わせによる抽象的な表現による、形而上的な音世界の具現化 ――これに取り組んだ。“絶対音楽”とは一体何か、それは一体どうあるべきか、根源的な問いを繰り返した。四年間の試行錯誤と検証を経て、初期の傑作《ピアノのためのカリグラフィー》(Calligraphy for Piano, 1957-1960)が世に問われることとなった。

禅の境位を投射した墨跡の如く、無意味で不要な音のすべてを削除して書かれたこの“新しい書”は、“純粋な生命力の表現”のひとつの書法とすることができた。引き続き《9つの絃楽器のためのカリグラフィー》(Calligraphy for Nine Strings, 1962)を発表し、漸くことばを書くべき時に来た。しかし眼の前にあったのは、もっと根源的な問題であった。

《カリグラフィー》で指向した“純粋な生命力”は〈表現〉(expression)という方法では正確には具体化できないものだった。〈表現〉行為それ自体が〈最も正確な伝達法〉ではなかった。ジョン・ケージ(John Cage, 1912-1992)によって「モノミナヒカル」”Everything is Expressive” と示唆された通り、すべての雑音を排除し、自己を先鋭化する手続きを踏まなくても、すべてのものは既に〈表現〉である。この事実に直面し、新しい筆を手にした作曲家は残念ながら書くべきものをすべて失ってしまったのである。

またこの“新しい書”は、あくまでも自らの運筆に過ぎなかった。筆跡を写した譜面を手本に、第三者たる〈演奏家〉(perfomer)が作曲家と同じように自己をそこに排列し、呼吸し、〈演奏〉(perfomance)するという行為は現実的には不可能であった。“作曲は演奏ではない”というこの根本命題にも大きく悩まされた。

根源的問題を内部に抱え《カリグラフィー》のシリーズは、《10の絃楽器のためのカリグラフィー第1番》(Calligraphy for Ten Strings, I, 1964)、《10の絃楽器のためのカリグラフィー第2番》(Calligraphy for Ten Strings, II, 1965)と展開したが、《スティール・リボンのためのカリグラフィー》(Calligraphy for Steel Ribbon, 1965)を最後に封印される。その後、「音を撒き散らす」という意味でのみ使用された〈サウンドディスプレイ〉という取り組みを演奏という媒介を経る必要のない場で営んだが、これは〈作品の所在〉を探す旅となった。


作品の所在の発見

1967年頃より自宅をスタジオ化し、〈サウンドディスプレイ〉の実験に孤独に取り組んだ。もはや現象をすべてコントロールすることができた。とはいえ自らの〈作品の所在〉をすぐに見出すに至ったわけではない。時空間的構造体としての音、絶対受動性の場としての音場、純粋トランスの問題、観念のディスプレイ、苦しい実験が繰り返された。

ある日《エレクトロニックラーガ》(Electronic Raga, 1967)という現象と出逢う。それは何度再現しても決して飽きない現象であった。だからこそ楽器とも玩具とも限定することなく、それをそのまま〈作品〉として試みに世に送り出してみた。これは自らが求めつづけた“純粋な生命力”の〈在るべき場〉を見出すに至った大いなる第一歩となった。

《エレクトロニックラーガ》は人の手がなければ回路として成立しない。手が触れると同時に音が発現する。本能的な手の動きは〈作曲〉(composition)し、そして〈演奏〉(perfomance)という〈表現〉(expression)を発現する。この現象に対する観察対象と観察主体は同一人物であり、その人物には継続的な〈印象〉(impression)が与えられる。

さらにこうした現象の〈系〉(system)を無限定に他者に提示するという行為は、「これは一体何か」(what)、「これは一体どのような存在なのか」(how)といった〈存在〉それ自体に対する根源的な〈問い〉でもあり〈答え〉でもあった。まさに“純粋な生命力”はここにあったのであり、これは長年もとめた〈作品の所在〉の発見となった。

《エレクトロニックラーガ》の発見をもたらした〈サウンドディスプレイ〉という名のさまざまな実験は、1970年に大阪万博の三井グループ館における「宇宙と創造の旅」の音響デザインを最後に、結局のところ封印された。いま私たちの眼の前には、その後の〈作品の所在〉を示していた《エレクトロニックラーガ》だけが残されている。

実験工房の錬金術

〈作品の所在〉の発見によって見出したものは、そこに在るべきものの輪郭であった。作品の生成法、〈発現〉〈観察〉〈帰納〉〈演繹〉という〈錬金術〉の方法論がそれである。

身の回りに発現している現象、たとえば壊れたスピーカーのマグネットのもつ磁性、それらとの関わりのなかで現象は〈発現〉する。既成概念によっては決して予測不可能な〈現象〉の発現を作者が目撃する時、まずそこにじっと坐り「さて、これは一体何なのか」という最も純粋な〈問い〉を開始する。

その〈問い〉と同時にその現象に対する〈観察〉がはじまる。この現象は一体何か、それは人にとって如何なる意味をもっているのか、その現象に対峙することは如何なる意味をもっているのか。ただ眼の前に立ち現れた〈現象〉の発現の場に無規定的、無限定的に自己を排列し、白紙の状態で繰返し〈観察〉という行為を反復する。そしてこれは“興じる”と呼ばれる行為でもある。再現・観察の反復が行われる時の予測不可能な“新鮮さ”も重要な要素となる。何故ならば、これらは実験のための実験ではなく、あくまでも実験結果を最終的に〈作品〉として第三者の他者に対して持ち出すための営為だからである。

現象に対する〈観察〉結果をもとに、発現装置に対して〈修整〉という〈帰納〉が加えられる。発現装置の〈系〉(system)の引数(parameter)もしくは変数(variable)を変更することで〈異型〉(variation)が生成されるが、これを繰り返すことで、ある時点で〈定着〉(stabilization)点が見出される。この時点で観察者は当該現象に対して総体的な把握が可能となっており、それが現象に対する〈問い〉と〈答え〉とを同時に獲得することでもある。定着点に達した時点でその現象は〈作品〉として外部に持ち出される場合もあるし、別の現象の発現装置へと〈演繹〉されることもある。〈演繹〉を行う時にはそれまで〈前提〉(filter)が準備されているので、現象に対する〈支配〉(control)が可能となっている。

これらの一連のプロセスを自ら“非限定的・無規定的な場に自己を排列した錬金術”と呼んでいるが、このプロセスを経て最初に世に持ち出された最初の作品群、それが1974年、南画廊で行われた個展に発表されたものである。この実験工房の錬金術によって錬成されたものには、我々の身の回りの現象と同じように《オシボリ》《オッパイ》《オテダマ》《ハート》《垂直都市》《タイム》《花開》《日時計》《尺トリムシ》といった高貴な「作品」としての名が与えられ、控えめに次のことばが添えられている。

輿ノオモムクマヽニ作ラレタコレラノオブジェ達。ソノ造形上ノ出来ノ良シ悪シ,新ラシイカ古イカ,ソシテソレラガ芸術作品ニ属スルヤ否ヤ,玩具,室内アクセサリーノ類ニ属スルヤ等々ノコトハ,私ノ興味ノカカワルトコロデハナイ。タヾコレラノオブジェニオケル素子ノ単純ナ運動ガ,私ニトッテ面白ク,夫々ノ運動ヲ得ヨートシテ形作ラレタ姿ノマヽデ,ソレラノ各々ガ愛スベキモノニ感ジラレルノデ,他ノ人達ニモ見テモライタイトイウダケノコトデアル。

この展覧会は、若い時に「絶対音楽」(Absolute Music / Joy of Sound)をもとめ、漸く「音楽」(音の興)という狭い牢獄から脱出した記念的瞬間となった。瀧口修造、武満徹、一柳慧、秋山邦晴、山口勝弘、同時代の友たちからその瞬間は歓迎され心からの賛辞が寄せられた。

新しい〈作品〉には〈純粋な生命力〉の歓び、すなわち”JOY OF VIBRATION”(振動の楽興)が確実に存在していた。それ自体が存在でもあり、かつ〈表現〉でもあった。47歳を迎えた作家の真の旅はここからはじまった。

ススキがある視覚の風景 ―― casual simplicity

南画廊での個展の時には、磁気の振動による作品が中心であったが、同時に展示された《Vibration; line free upper end》《Vibration; line suspended》 と名付けられた垂直な軸の振動による作品もあった。その後の作品はこの形式で展開することとなったが、それを自ら予告するかの如く次のように記している。

タヾ一本ノ垂直ニ吊下ゲラレタ軸,ソレニ沿ッテ回転シナガラ昇降スル小サナ球ヲ見ツメルトキ,私ニハ現象ノ不思議サノ感情ガ喚ビ起サレル。ソシテソノ形ト運動ノ切リツメラレタ単純サノ故ニ,ソレガアラユル現象ノ要約トシテソコニ在ルモノノ如クニ感ジラレル。(METAPHYSICAL PLACE ―――存在ソレ自体ノ尊厳性。)

〈作品〉そのものがある〈現象の定着〉を迎えた時点で世に持ち出されるように、〈作品〉の存在形式もまた〈現象の定着〉へと向かってゆく。ここに「ツメラレタ単純サノ故に、ソレガアラユル現象ノ要約トシテソコニ在ル」と記されている通り、より純粋なもの、より要約したものへと〈作品〉が定着するように、単純なる軸の振動による作品へと“興じる”という営為は定着し、そして深化していくこととなった。

軸の振動による作品は、最初は軸の稼動部を上部で固定し、軸を吊り下げていたが、軸の稼動部は、地上にあった方が〈居心地〉がいい。それは〈純粋な生命〉の存在形式として〈逆さ吊り〉よりも〈立って在る〉という〈在り方〉が重要だからである。また移動素子も、当初はスチロールの円盤であったが、そのうちに〈敢えて着色をほどこしていない白い球〉へと《ススキ》のシリーズは深化していった。

1980年、《沈黙のカルテット》(Silent Quartet, 1980)がこの地上に出現した。天から吊り下げられた軸、地に立っている軸、二つの曲がった軸、これらがただ「沈黙」して静かに現象している白い球による四重奏である。この「眼に聴く音楽」は佐藤慶次郎が生み出した最高の楽曲であろう。沈黙、それはジョン・ケージに示唆され葛藤したテーマであったが、遂にこの錬金術を手にした作曲家は〈純粋な生命力〉の〈四重奏〉を具現化することに成功した。この荘厳な楽曲は、常に無限の覚醒を継起的に発動する。ただ観るためだけの対象、人との関わりのなかで存在それ自体の尊厳を未分化なまま明示する、絶対音楽、それが漸く地上に現れた瞬間であった。

90年代にかけ《ススキ》のシリーズは徐々に深化し、最終的には三つの白い球よりなるものとなった。その深化の過程は、自然への同体化の過程であり、それはまるで本物のススキのように、さまざまな場に出現し、時には風に吹かれ波をうち、時には生い茂り、おもちゃの博物館で子どもたちと戯れることさえできるような視覚の風景となった。

この時期の禅定的深化は、当時深く関心を寄せたエミリー・ディキンソン(Emily Dickinson, 1830-1886)の次のことばがその内実をよく表現している。 ―――「絶対にしなくてはならない、あたりまえのことを何気なく単純に充足する」”Fulfilling absolute decree in casual simplicity.” ――― このことばのように現象の要約として深化していったのである。

小鳥たちが歌う聴覚の風景

《ススキ》は、自然の視覚風景そのものとなった。しかし振り返ってみると〈音楽〉はいつの間にか〈音〉を失っていた。大燈国師・宗峰妙超(1282-1337)の「耳に見て 眼にきくならば 疑わじ 自ずからなる 軒の玉水」ということばの「眼に聴く音楽」、それは《沈黙のカルテット》《ススキ》という形で現実のものとなっていたが、「耳に視る音楽」についてはまだ出来上がっていなかったのである。こうして90年年代の初頭には「さて、音楽とは一体何なのか」、この根源的問いに取り組むこととなった。

それは最早《カリグラフィー》や《サウンドディスプレイ》の継続ではない。《ススキ》と共にあった〈作品の所在〉とそこで見出した「非限定的・無規定的な場に自己を排列した錬金術」の音への私的な〈演繹〉の営みであった。

現象の発現装置としてサンプリング音源とコンピュータが準備された。〈音〉に関する様々な項に乱数を代入したり、〈音群〉の分岐、加算、乗算、テンポを利用した呼吸といった各種の処理が行われた。発現した現象は何度も観察され録音という形で記録された。

これらはすべて幼少の時にハーモニカを無限即興していたのと同じような「でたらめな歌」であった。しかし同時に「新しい小鳥の鳴き声の創造」でもあった。さまざまな深化を繰り返した作曲家の晩年は、音楽とは何か、作曲とは何か、この最も根源的な最もはじめにあった問いへの探求であった。

この時期の取り組みで、15分程度の楽曲が約200曲弱程度、現在録音として残っている。大きく分類すれば、《カリグラフィー》で使用した音列から派生した《如何是》(Ikanze)第1番~第9番のシリーズ、乱数操作によって発生した音を五音階のフィルタで分岐させてでたらめに歌わせた《五音階の惑星》(Pentatonic Plantes)シリーズ、さらにそれを錬成したものである《ALCHEMY》シリーズ、これらの私的な聴覚の風景が残されている。これらについて、制作ノートには次のように記されている。

人が期待する陶酔とか感動を期待しないで、のんびりゆったり自受用三昧にただ聴く、それが僕の音楽である。
ぼくにとって最上の音楽は静寂であるともいえる。その静寂を静寂ならしめる音楽。その静寂をよりいっそう深いものならしめる音楽。
充実した静寂としての音の継起である音楽。

視覚の風景が最終的に《ススキ》のシリーズへ定着したのと同様、これら聴覚の風景は、最終的に《五音階の惑星》(Pentatonic Plantes)シリーズのなかの《初夏独嘯》( A Random Singer in the early summer)シリーズへと定着している。これらは《カリグラフィー》の時には決して実現できなかった、でたらめな小鳥たちのさえずりであり、過去の作品よりもはるかに軽やかであり、楽しく、そして無限の静寂をもたらしてくれるものであった。これらの音楽への取り組みはその後自然消滅したが、最後の大作《岐阜ススキ群’99》に時間軸のコントロールという形で余韻を残している。

禅者の石を抱いた錬金術師

佐藤慶次郎という錬金術師にとっての〈哲学者の石〉(philosopher’s stone)は一体何であったのだろうか。それは「禅」であり、道元禅師の『正法眼蔵』に書かれていることがそのすべてである。常に『正法眼蔵』を看経し、ただひたすら坐禅を繰り返した。岡田利次郎居士に参禅し、在家禅者として生涯、脚下照顧した。

佐藤慶次郎の思想を考えるうえで、“看話禅”よりもむしろ“黙照禅”のあり方を好んだ傾向は最も重要な要素であろう。ことばの矛盾対立から自由な精神を切り開く公案禅や鈴木大拙にも大いに影響を受けたが、やはり『正法眼蔵』ひとすじであったといってよい。その“修証一如”の在り方は、作品の所在、制作方法、存在形式のすべてのプロセスに反映されている。

『正法眼蔵』は佐藤慶次郎に芸術のあるべき姿だけでなく、すべてのことを教え、人間存在の尊厳を与え、そしてその生の営みを深く維持していた。道元禅師の息吹きを感じるために自筆の影印や良寛和尚の書を愛し、七十五巻本の『正法眼蔵』だけではなく、十二巻本『正法眼蔵』の影印版までも入手するほど徹底的なものであった。

佐藤慶次郎がもとめた禅の思想とは何かをここで論じる必要はない。何故ならばその門は古来何百年も前から常に開かれて在るからである。詩を書くことにはじまり、音の墨跡を残し、眼で視る音楽をつくり、新しい鳥の鳴き声に取り組んだ作曲家・佐藤慶次郎が発した芸術言語、その本質は道元禅師の「愛語」の精神にある。

 愛語といふは、衆生をみるにまづ慈愛の心をおこし、顧愛の言語をほどこすなり。おほよそ暴惡の言語なきなり。世俗には安否をとふ禮儀あり、佛道には珍重のことばあり、不審の孝行あり。慈念衆生、猶如赤子のおもひをたくはへて言語するは愛語なり。徳あるはほむべし、徳なきはあはれむべし。愛語をこのむよりは、やうやく愛語を増長するなり。しかあれば、ひごろしられずみえざる愛語も現前するなり。現在の身命の存ぜらんあひだ、このんで愛語すべし、世世生生にも不退轉ならん。怨敵を降伏し、君子を和睦ならしむること、愛語を根本とするなり。
むかひて愛語をきくは、おもてをよろこばしめ、こゝろをたのしくす。むかはずして愛語をきくは、肝に銘じ、魂に銘ず。しるべし、愛語は愛心よりおこる、愛心は慈心を種子とせり。愛語よく廻天のちからあることを學すべきなり、たゞ能を賞するのみにあらず。『正法現蔵』第二十八「菩提薩埵四攝法」

無量の光明とともに

2009年5月24日の朝、佐藤慶次郎はあの長い減衰音のように静寂のうちに最期の息をひきとった。絶筆として、澤庵宗彭和尚の遺墨「夢」の一字「夢。百年三万六千五百日、弥勒観音幾是非、是亦夢非亦夢、弥勒夢観音亦夢。仏云、応是如観作。」が引用されていた。後に残された〈作品〉はいまも再現可能な状態であり、その制作背景のすべてが詳細に記録されている。

これらの作品は、人間とは何か、芸術とは何か、存在とは何か、それらはどのようなものなのか、この根本的な問題についての佐藤慶次郎の問いであり答えである。これらの作品と向き合おうとするのなら、道元禅師の「愛語」を手がかりとして白紙で感じることからはじめてほしい。このやさしいことばは、常に大切なことを語りつづけてくれる。そしてそれらを聴くことは、とてつもなく面白く、こころを楽しくしてくれるだろう。

私たちは何かをもとめて無理をして遠くへ行く必要はまったくない。幸せになりたいと思わなくても、愛するものたちはここにいるのであり、自暴自棄になり自らを罰したいと思わなくても、死や別れは常にそこに在る。私たちのこの場にあるすべては、常に美しく、常に新しく、坐って感じる人たちのためにやさしく気長に待ってくれている。

これらすべての不思議な現象は、いまも静かに小石の如く転がっており、でたらめな歌を口にする小鳥たちのように飛び交っており、風にたなびくススキのように生い茂っている。この絶対への指標が在る風景、それは常に無量の光明と無辺の慈悲に充ちている。

最期に、この展覧会に関わったすべての寂静の風景を愛する関係各位に深謝申し上げたい。こうした風景が失われてはならないと思う人がこの世にいることこそが、この世に生きる私たちの希望である。

初出:展覧会カタログ「モノミナヒカル展 -佐藤慶次郎の振動するオブジェ-」多摩美術大学美術館。2012年。

2015-05-30

ことばとして発せられる前のもの

日本人でチベットのことを研究する意味は、社会的にいえば彼らの言葉を日本語で表現することにしかほとんど意味はない。私が研究してきたツォンカパの空思想はチベット仏教史上極めて重要なものであるが、それを完璧に日本語に翻訳することなどできないものも多くある。

そしてこの翻訳不可能性の問題を考え始めるのならば、厳密にいうとほんのひとつかふたつの単語すら翻訳することができないという壁にぶちあたる。そういうことを考えたことがない人は単純に言葉を置き換えればすむと思っているが、そんなに甘いものではない。我々が「私」というこの一語を発するだけで大きな一歩を踏み出していることを決して忘れてはならない。

「言葉に依らず意味に依りなさい」「人に依らず法に依りなさい」これらは四依であるが、実はその逆のことをやっているものが多くいる。仏教の研究者といわれている人のなかにも袴谷憲昭氏のようにこの教義自体を批判してやろうと企てているものだっている。しかし彼らは忘れている。「意味」「対象」「目的」これはサンスクリット語でもチベット語でも同じ単語なのである。彼らはそれらの言葉のもっている意味空間をあたかも忘れたかのような議論をしているが、所詮日本の仏教学という非常に小さなコミュニティでごちゃごちゃいっているだけだ。

哲学者や言語学者というのはことばとして発せられる前のものを追求してきた。音楽家や芸術家もまたそうである。彼らが目指してきたものは、ローカルな言語やローカルな社会のはなしではない。我々人間が非常に長い間、この世で取組んできた、ことばにもできない、もどかしさや苦しさを吐露する、ことばとして発せられる以前のものに取組んできたのである。

無上瑜伽タントラの生起次第において、空性を把握している知の所取相が本尊として生起するという話は、まさに芸術家が創造という行為を行う賭博のような一歩を歩みだす瞬間である。その瞬間から瞬時にして構築されるものは、決して通常の理解ではあり得ないような象徴と意味が絶妙なバランスによって生み出されるべきものなのである。そういった営為が秘密とされていたのは、それを説くべく人として言葉として発せられる以前のものを瞬時にして把握できるような人間以外にはその意味が理解されることがないからである。残念ながらタントリズムの世界は、いまの日本人のような観念的で想像力のない臆病な人々には理解をこえたものである。彼らは結局はなんとなくそれをやった気になっただけであり、本当に死や無常の淵から這い上がるような気概がなければ、そういった修行など無理としか思えない。

師、佐藤慶次郎氏は「I am」とか「私が」ということをどういう風に言ったとしてもそのことばでそのことばよりももっと大事なことがあるということをしきりに教えてくださった。師をはじめとする真の芸術家たちは、そのことばとして発せられる以前のものを言語化することに長けていた人々である。私がチベット仏教への研究へと向かったのは、私なりにある異なった言語化のプロセスや構造を解明したかったからである。別にチベットが好きなわけでもなんでもなかった。彼らが築き上げた論理的に体系化された宗教的カタルシスをともなう世界がいったいどのように組み立てられているのか、ということを知りたかったからである。そしてその組み立て方を何故知りたかったのかというと、『中論』のテキストをどのように音楽にできるのか、というこの何とも面白そうことをやってみたからである。

『中論』を音楽にしてやろうと思ったのは、これは決して翻訳できない美しく織り込まれたテキストだと思ったからである。そして一章一偈だけこうやったら音に置換できるのではないか、という試みをした時点でいきづまり、その後でいろいろあったが、まだまだその後残り何百偈もまだ課題が残っている。そしてこの取り組みはまだ終わっていない。「四十にして不惑」とはよくいったものである。師、佐藤慶次郎氏はちょうど一年前名曲「カリグラフィー」の長いフェルマータの如く息を引き取られたが、私にはいまだに「野村君、君は一体どうするんだね」というあの声が聴こえてくる。四十まで残り半年くらいだ。とりあえず瑣事に惑わされないようにちょっと苦手な整理整頓からはじめたい。

2010-05-24

古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ

昨日は師、佐藤慶次郎さんのすこしはやめの一周忌の会があった。青山の空は晴れ、すみきった心地よい日であった。仏教担当ということなので、師が生前愛してやまなかった般若心経と正法現蔵の愛語の箇所を唱える役を仰せつかった。

終わってから佐藤さんの本の整理などをするために、久々に荻窪のお部屋にお邪魔する。

師のオブジェの作業場はいまだ張りつめた空気にみちており、そこでは次のものが生み出されたり、次の実験が行われ、佐藤さんが「何事か」といえる何かが再現可能な状態にしてある。そこにある「球」(キュウ)の運動は再開可能な状態になっている。数ミクロンの調整が必要で、この「もの」に取組むのは、命をかけてやらなければならない。そのことを思い起こせば起こすほど、自ら戒めなければならないことをさまざまに思い出すものである。

大量の禅文献にはじまり、ダライ・ラマの本、キリスト教関係の本など、ひとつひとつの本に佐藤さんの軌跡が大量にはさまれた付箋とともに残されている。普通の人ならば買わないないような専門書のなかの専門書のようなものまで、精読されている。読者のお手本のような御方であったし、書き手のいい加減なものはすぐ見破る御方であった。

師の付箋には、必ず日付と疑問に思ったことや、問題点などが次にもういちど振り返ろうとした時に分かるようにメモされている。仏教学者や翻訳家が使っている、いわゆる「一般的にわかりやすい言葉」に置き換えたものに、「?」がよく付けられている。こういうものを見ると、翻訳に携わる人間が安易にやってしまってはいけないことを改めて痛感する。

いまは何でも簡単に手軽にできる時代になっているのではない。何でも簡単に手軽にやってしまう人がいて、それでいいと思っている人が多いわけだ。佐藤さんたちはそういう人を見ると「まあ知らないからそれが目新しくみえるんだが、それはもうやりつくされてきたことで全然面白くも何ともない」と一蹴していた。人がやりつくしてきた跡を追っているようでは、古人の求めたところに辿りつくことはできない。

バッハやモーツァルトなどいい旋律は沢山昔からある。いい音楽をききたければそれを聞けばいいという話ではない。いまここで何を行っているのか、何が行われて、それをどう取り扱うのか、この問題こそ重要なのである。それと同じようにいいことばや教えは沢山ある。仏教の本だって山のようにあるし、出版社は人にわかりやすいものを商売で沢山出版するだろう。しかしそれらは資源ゴミになる道を辿る一方である。

哲学者の研究者や芸術の研究者や仕事をしている人は山のようにいる。ただ本当に哲学をしてる人間や芸術をしている人間は極めて稀である。日本には仏教論理学の研究をしているのは山のようにいるけれども、いまだにダルマキールティの『量評釈』ですら、佐藤さんのようなものを真剣に愛で、興じることが可能な人がアクセス可能な状態にはなっていない。

人生は短くやれることは本当にちょっとしかない。佐藤さんはぼくがツォンカパの空思想についてはじめつつあったときに「野村君、我の問題とか空ってのは仏教の根本だ。そんなことをどうやって取り扱うのか、ってのはそりゃ大変なことなんだよ。まあ分かっているとは思うが、せいぜい頑張ってくれたまえ。」とおっしゃった。

師の一周忌に際して自戒すべきことは、いろいろやりすぎる時間と暇ってのはあまりないってことだ。まあせいぜいやっていくしかない。

2010-05-10

実験工房、そして科学的実験と思考

佐藤さんたちはいわゆる「実験工房」の一員であり、日本の実験芸術の開拓者のひとりであった。日本の戦後の歴史のなかで、前衛芸術やら実験芸術というものが非常に盛んである時期の芸術家のひとりである。

しかしながら、「実験」ということばの意味については様々な解釈があって、それをどのように使うのかによって、その人の人となりのようなものがでるのであると思う。

おそらく瀧口修造はシュルレアリスム的な実験の延長線上に「実験」のもつある種エロティックで原初的なものをその言葉に託したのであろう。瀧口修造の描いていた世界は、武満徹や加納光於などによって別のメディアでリアリゼーションされたと考えてもいいだろう。

彼らの描いている世界は、もちろん日本で生まれたシュルレアリスムや新しい芸術のひとつの分野であることは確かであるが、実験工房のメンバーは必ずしもその影響化にあるわけでもないし、<武満徹とその周辺現象>だけが注目されてきたことには彼らの作品をよく知る人にとってはあまりにもおかしな現象であると思う。

佐藤さんにはいろいろな面白い世界を見せてもらったが、北代省三さんのお宅に連れて行ってもらったのが、とても鮮明に覚いだされる。佐藤さんと北代さんの会話や視点は、他の世の汚れにまみれた人間のそれとは全く異なるものであった。二人はこうやったらどうなるか、ということを楽しむことが非常に上手であり、また非常に科学的であった。

佐藤さんは北代さんの使っている特に道具類に興味をもっていたし、北代さんもまた自分の工房(アトリエ?)に仕入れた新しい工具類がいかに面白いことができるのか、ということを語りあっていた。若い私はこの仙人たちの会話があまりにもすごいので圧倒されるばかりであった。

北代さんはそもそものはじまりが抽象画であるといっていたし、それに真剣に取り組んで、人生をそれにかけ、そしてそこからとてつもなく優雅な動きをするモビールを沢山作り出した。これはいまの若い芸術家たちがまずは芸術系の大学やらスケッチの勉強やらをしなくては抽象画もかけないと思っているのとは大違いであった。

要するに彼ら仙人と他の数多の芸術家との違いは、面白そうなことにどれだけ人生をかけれるか、ということが分かれ道なのであり、そしてどのようなものを面白いと思うのか、面白いと思うものが何故自分は面白いと感じるのかをどのように分析するのか、そのあたりが芸術家の作品のクオリティを決定するのであろう。

少なくとも二人は、非常に科学的に丁寧にそして細かく分析することに人一倍長けているし、陳腐な仕掛けでは絶対に納得できないくらい、人生や芸術を楽しめる人であったと思う。お二人が見ていた世界というのは普通の人がたどり着くところから一線を画しており、そして充分な努力と真剣さによって他の人ができない境地に達しているのだろう。

偶然性や実験というものもただやればいいというものではない。それは科学の世界においてもまず問題点を発見し、現状どこまでできるのか、そしてそれに対してどのような実験をすればどのような結果が得られるのか、それらをある程度予測して緻密に計算された装置を組み立てて、はじめて有意義な実験と、その考察結果が得られるわけである。そしてこのプロセスをきちんと真剣に考えながら組み立てられる人が「才能がある人」と普通の人に言われるのである。しかし当人たちにとってはそれらの行為は当然の帰結と、そして予想外の面白い結果を伴う行為に過ぎない。

「天からインスピレーションが降ってくる」とか「いままで誰もやっていないこと」というのは実は殆ど無意味である。そんな現象は子供騙しすぎない。何でもやればいいというものではないことは誰しもが分かっているが、真実に正直に向き合えない人は、ある程度のところで妥協してしまうのである。

私は佐藤慶次郎という偉大な人にであうまではこのことが分からなかったが、佐藤さんや北代さんというこの巨人のやりとりをいまも思い出すと魂が震えるような思いである。彼らは瀧口修造の描いた世界をはるかに超越した、実験によって得られる極めて広大で普遍的な世界観へとたどり着いたのであると思われる。

実験をするというのは、まずその前にどう実験をするのか、という問いかけがあってはじめてその行為が意味がある。そしてそのような行為をするためには、それには生きていること、私とは何か、そんな問いかけがあってはじめて行為の意味がある。そういった問題をさけて通る芸術塚が多いのはいまも昔も変わらないが、こうした基本的な命題からまず取り組むことができる芸術家は稀有である。

近年は芸術そのものがマスメディアやマスプロダクションの波に押されて消えつつある時代に、彼らがこの世に居たということはその存在自体が貴重であったといえる。しかし残念ながら、そういった価値を理解して、それを同時代的に享受できる人間は少ない。これもまた歴史の必然かも知れないが、人間とは何とも愚かな存在ではないかとも思われてならない。

2009-06-12

こうやったらどうなるのかー沈黙のカルテット

佐藤慶次郎さんのところに行くようになって、私の人生は大きく変わった。作曲というものには和声法や音楽理論やオーケストレーションといったものは、何も要らないということを教えてもらったからだ。佐藤慶次郎さんは私に作曲を教えるとか、技術を教えるというつもりは全くなかったし、そんなものは音楽の本質ではないということを強調されていた。

田舎から出てきて作曲家を目指していた私は、シェーンベルクの『作曲の基礎技法』とか柴田南雄の『音楽の骸骨のはなし』や伊福部昭の『管絃楽法』やXenakisのFormalized MusicやJohn CageのSilenceなどを読みあさっていたが、それが間違いであることに気づかされ、自分の愚かさに気づかされた。

佐藤慶次郎さんがよくおっしゃっていたことで、私が学んだことは「こうやったらどうなるか」というそれだけだった。まずは自分で「こうやったらどうなるか」ということを考えてやってみて、おもしろいかどうか、それが音楽のすべてであった。音楽は人のまねではなかったし、そんなものは芸術とは言えないものであった。

更には、芸術なんていうものは、実はどうでもいいものであった。どこまで遊べるのか、そしてその遊びが「あるところを突き抜けて、どこまで普遍的におもしろくなるか」。そして「そのおもしろさがどれだけリアリティをもっているか」それが音楽であり芸術であることを教えてもらった。

佐藤さんは実験工房の代表的な作曲家であったし、瀧口修造さんを巡る芸術家のひとりであり、早坂文雄さんの最後の御弟子さんでもあったが、実はそんな偉い人からも影響を受けたとか、何かを継承したとかそんな陳腐なことは全く嫌いなお方であった。

ぼくの作品は、こうやったらどうなるかっていうのをやってみて、まず自分で面白いかどうか、そしてもっと面白くならないかどうか、また徹底的にやってみる。そしてあるところで、何らかの世界ができるんだ。それだけだよ。

そういつもおっしゃっていた。

梵鐘をゴーンとならして、その余韻が消えるまで消えるまで音を聴いていたり、葉っぱが風でたなびくのをじっと見ていたり、水が流れるのをじっと見つめている、それだよ、君。それが何事かなんだ。

音楽を作っていたらある日いつのまにか音がなくなってたんだよ、君、わかるかい?それでできたのを『沈黙のカルテット』って名前にしたんだよ。

この「沈黙のカルテット」と題された作品は、佐藤さんの音楽であり、ことばであった。

そんな佐藤さんが衝撃を受けたのは、John Cageであった。佐藤さんは、「沈黙」ということに本当に衝撃を受けたと語ってくれた。

佐藤慶次郎さんにとっては作り手はまず最初の受け手であった。そして同時に厳しい聴衆であり、観衆であった。佐藤さんがご自分の作品に厳しかったのは、芸術としての完成度とか純粋さを求めたとか、完璧主義者であるとかいろんなコメントを見てきたが、実はそれはあまりあたっていなかった。

佐藤さんにとっては陳腐な芸術作品は「何事か」と言えるようなものではない、ということであり、「何事か」であるものは、見ても見ても飽きない、聴いて聴いても飽きない、何事かであった。

2009-05-30