絶対への指標が在る風景

佐藤慶次郎の作品は、無我を現観する三昧智とそれを受用する身体とを時間軸上に継起的に発現させた視聴覚現象である。これらすべては時を内包する振動のディスプレイであり、観察対象と観察主体が一体となったパフォーマンスでもある。この“現成公案”は、空に流れゆく雲、さえずる小鳥たち、風に舞う樹々の葉、これらと同じようにいつもやさしく、静かに、そして軽やかに語りかけてくれる。

私たちがこれらと関わる時に注意すべき事実はこれらが自然現象ではないということである。これらの作品は有機的に現象の発現〈系〉として選択されたものであり、この風景はここに生を捧げた者の生の振動の軌跡である。それはすべての人間現象と同じように、常に愛する他者に取り囲まれここに存在し得たものである。

1991年の秋より師・佐藤慶次郎が絶対への指標を具現化する現場を目撃する機会を頂戴した。ここに改めて亡き師と和子夫人に畏敬と深謝の念を表明し、師の残された世界について、私的な取り扱いを記しておきたい。

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ことばとして発せられる前のもの

日本人でチベットのことを研究する意味は、社会的にいえば彼らの言葉を日本語で表現することにしかほとんど意味はない。私が研究してきたツォンカパの空思想はチベット仏教史上極めて重要なものであるが、それを完璧に日本語に翻訳することなどできないものも多くある。

そしてこの翻訳不可能性の問題を考え始めるのならば、厳密にいうとほんのひとつかふたつの単語すら翻訳することができないという壁にぶちあたる。そういうことを考えたことがない人は単純に言葉を置き換えればすむと思っているが、そんなに甘いものではない。我々が「私」というこの一語を発するだけで大きな一歩を踏み出していることを決して忘れてはならない。

「言葉に依らず意味に依りなさい」「人に依らず法に依りなさい」これらは四依であるが、実はその逆のことをやっているものが多くいる。仏教の研究者といわれている人のなかにも袴谷憲昭氏のようにこの教義自体を批判してやろうと企てているものだっている。しかし彼らは忘れている。「意味」「対象」「目的」これはサンスクリット語でもチベット語でも同じ単語なのである。彼らはそれらの言葉のもっている意味空間をあたかも忘れたかのような議論をしているが、所詮日本の仏教学という非常に小さなコミュニティでごちゃごちゃいっているだけだ。

哲学者や言語学者というのはことばとして発せられる前のものを追求してきた。音楽家や芸術家もまたそうである。彼らが目指してきたものは、ローカルな言語やローカルな社会のはなしではない。我々人間が非常に長い間、この世で取組んできた、ことばにもできない、もどかしさや苦しさを吐露する、ことばとして発せられる以前のものに取組んできたのである。

無上瑜伽タントラの生起次第において、空性を把握している知の所取相が本尊として生起するという話は、まさに芸術家が創造という行為を行う賭博のような一歩を歩みだす瞬間である。その瞬間から瞬時にして構築されるものは、決して通常の理解ではあり得ないような象徴と意味が絶妙なバランスによって生み出されるべきものなのである。そういった営為が秘密とされていたのは、それを説くべく人として言葉として発せられる以前のものを瞬時にして把握できるような人間以外にはその意味が理解されることがないからである。残念ながらタントリズムの世界は、いまの日本人のような観念的で想像力のない臆病な人々には理解をこえたものである。彼らは結局はなんとなくそれをやった気になっただけであり、本当に死や無常の淵から這い上がるような気概がなければ、そういった修行など無理としか思えない。

師、佐藤慶次郎氏は「I am」とか「私が」ということをどういう風に言ったとしてもそのことばでそのことばよりももっと大事なことがあるということをしきりに教えてくださった。師をはじめとする真の芸術家たちは、そのことばとして発せられる以前のものを言語化することに長けていた人々である。私がチベット仏教への研究へと向かったのは、私なりにある異なった言語化のプロセスや構造を解明したかったからである。別にチベットが好きなわけでもなんでもなかった。彼らが築き上げた論理的に体系化された宗教的カタルシスをともなう世界がいったいどのように組み立てられているのか、ということを知りたかったからである。そしてその組み立て方を何故知りたかったのかというと、『中論』のテキストをどのように音楽にできるのか、というこの何とも面白そうことをやってみたからである。

『中論』を音楽にしてやろうと思ったのは、これは決して翻訳できない美しく織り込まれたテキストだと思ったからである。そして一章一偈だけこうやったら音に置換できるのではないか、という試みをした時点でいきづまり、その後でいろいろあったが、まだまだその後残り何百偈もまだ課題が残っている。そしてこの取り組みはまだ終わっていない。「四十にして不惑」とはよくいったものである。師、佐藤慶次郎氏はちょうど一年前名曲「カリグラフィー」の長いフェルマータの如く息を引き取られたが、私にはいまだに「野村君、君は一体どうするんだね」というあの声が聴こえてくる。四十まで残り半年くらいだ。とりあえず瑣事に惑わされないようにちょっと苦手な整理整頓からはじめたい。

「古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ」

昨日は師、佐藤慶次郎さんのすこしはやめの一周忌の会があった。青山の空は晴れ、すみきった心地よい日であった。仏教担当ということなので、師が生前愛してやまなかった般若心経と正法現蔵の愛語の箇所を唱える役を仰せつかった。

終わってから佐藤さんの本の整理などをするために、久々に荻窪のお部屋にお邪魔する。

師のオブジェの作業場はいまだ張りつめた空気にみちており、そこでは次のものが生み出されたり、次の実験が行われ、佐藤さんが「何事か」といえる何かが再現可能な状態にしてある。そこにある「球」(キュウ)の運動は再開可能な状態になっている。数ミクロンの調整が必要で、この「もの」に取組むのは、命をかけてやらなければならない。そのことを思い起こせば起こすほど、自ら戒めなければならないことをさまざまに思い出すものである。

大量の禅文献にはじまり、ダライ・ラマの本、キリスト教関係の本など、ひとつひとつの本に佐藤さんの軌跡が大量にはさまれた付箋とともに残されている。普通の人ならば買わないないような専門書のなかの専門書のようなものまで、精読されている。読者のお手本のような御方であったし、書き手のいい加減なものはすぐ見破る御方であった。

師の付箋には、必ず日付と疑問に思ったことや、問題点などが次にもういちど振り返ろうとした時に分かるようにメモされている。仏教学者や翻訳家が使っている、いわゆる「一般的にわかりやすい言葉」に置き換えたものに、「?」がよく付けられている。こういうものを見ると、翻訳に携わる人間が安易にやってしまってはいけないことを改めて痛感する。

いまは何でも簡単に手軽にできる時代になっているのではない。何でも簡単に手軽にやってしまう人がいて、それでいいと思っている人が多いわけだ。佐藤さんたちはそういう人を見ると「まあ知らないからそれが目新しくみえるんだが、それはもうやりつくされてきたことで全然面白くも何ともない」と一蹴していた。人がやりつくしてきた跡を追っているようでは、古人の求めたところに辿りつくことはできない。

バッハやモーツァルトなどいい旋律は沢山昔からある。いい音楽をききたければそれを聞けばいいという話ではない。いまここで何を行っているのか、何が行われて、それをどう取り扱うのか、この問題こそ重要なのである。それと同じようにいいことばや教えは沢山ある。仏教の本だって山のようにあるし、出版社は人にわかりやすいものを商売で沢山出版するだろう。しかしそれらは資源ゴミになる道を辿る一方である。

哲学者の研究者や芸術の研究者や仕事をしている人は山のようにいる。ただ本当に哲学をしてる人間や芸術をしている人間は極めて稀である。日本には仏教論理学の研究をしているのは山のようにいるけれども、いまだにダルマキールティの『量評釈』ですら、佐藤さんのようなものを真剣に愛で、興じることが可能な人がアクセス可能な状態にはなっていない。

人生は短くやれることは本当にちょっとしかない。佐藤さんはぼくがツォンカパの空思想についてはじめつつあったときに「野村君、我の問題とか空ってのは仏教の根本だ。そんなことをどうやって取り扱うのか、ってのはそりゃ大変なことなんだよ。まあ分かっているとは思うが、せいぜい頑張ってくれたまえ。」とおっしゃった。

師の一周忌に際して自戒すべきことは、いろいろやりすぎる時間と暇ってのはあまりないってことだ。まあせいぜいやっていくしかない。

実験工房、そして科学的実験と思考

佐藤さんたちはいわゆる「実験工房」の一員であり、日本の実験芸術の開拓者のひとりであった。日本の戦後の歴史のなかで、前衛芸術やら実験芸術というものが非常に盛んである時期の芸術家のひとりである。

しかしながら、「実験」ということばの意味については様々な解釈があって、それをどのように使うのかによって、その人の人となりのようなものがでるのであると思う。

おそらく瀧口修造はシュルレアリスム的な実験の延長線上に「実験」のもつある種エロティックで原初的なものをその言葉に託したのであろう。瀧口修造の描いていた世界は、武満徹や加納光於などによって別のメディアでリアリゼーションされたと考えてもいいだろう。

彼らの描いている世界は、もちろん日本で生まれたシュルレアリスムや新しい芸術のひとつの分野であることは確かであるが、実験工房のメンバーは必ずしもその影響化にあるわけでもないし、<武満徹とその周辺現象>だけが注目されてきたことには彼らの作品をよく知る人にとってはあまりにもおかしな現象であると思う。

佐藤さんにはいろいろな面白い世界を見せてもらったが、北代省三さんのお宅に連れて行ってもらったのが、とても鮮明に覚いだされる。佐藤さんと北代さんの会話や視点は、他の世の汚れにまみれた人間のそれとは全く異なるものであった。二人はこうやったらどうなるか、ということを楽しむことが非常に上手であり、また非常に科学的であった。

佐藤さんは北代さんの使っている特に道具類に興味をもっていたし、北代さんもまた自分の工房(アトリエ?)に仕入れた新しい工具類がいかに面白いことができるのか、ということを語りあっていた。若い私はこの仙人たちの会話があまりにもすごいので圧倒されるばかりであった。

北代さんはそもそものはじまりが抽象画であるといっていたし、それに真剣に取り組んで、人生をそれにかけ、そしてそこからとてつもなく優雅な動きをするモビールを沢山作り出した。これはいまの若い芸術家たちがまずは芸術系の大学やらスケッチの勉強やらをしなくては抽象画もかけないと思っているのとは大違いであった。

要するに彼ら仙人と他の数多の芸術家との違いは、面白そうなことにどれだけ人生をかけれるか、ということが分かれ道なのであり、そしてどのようなものを面白いと思うのか、面白いと思うものが何故自分は面白いと感じるのかをどのように分析するのか、そのあたりが芸術家の作品のクオリティを決定するのであろう。

少なくとも二人は、非常に科学的に丁寧にそして細かく分析することに人一倍長けているし、陳腐な仕掛けでは絶対に納得できないくらい、人生や芸術を楽しめる人であったと思う。お二人が見ていた世界というのは普通の人がたどり着くところから一線を画しており、そして充分な努力と真剣さによって他の人ができない境地に達しているのだろう。

偶然性や実験というものもただやればいいというものではない。それは科学の世界においてもまず問題点を発見し、現状どこまでできるのか、そしてそれに対してどのような実験をすればどのような結果が得られるのか、それらをある程度予測して緻密に計算された装置を組み立てて、はじめて有意義な実験と、その考察結果が得られるわけである。そしてこのプロセスをきちんと真剣に考えながら組み立てられる人が「才能がある人」と普通の人に言われるのである。しかし当人たちにとってはそれらの行為は当然の帰結と、そして予想外の面白い結果を伴う行為に過ぎない。

「天からインスピレーションが降ってくる」とか「いままで誰もやっていないこと」というのは実は殆ど無意味である。そんな現象は子供騙しすぎない。何でもやればいいというものではないことは誰しもが分かっているが、真実に正直に向き合えない人は、ある程度のところで妥協してしまうのである。

私は佐藤慶次郎という偉大な人にであうまではこのことが分からなかったが、佐藤さんや北代さんというこの巨人のやりとりをいまも思い出すと魂が震えるような思いである。彼らは瀧口修造の描いた世界をはるかに超越した、実験によって得られる極めて広大で普遍的な世界観へとたどり着いたのであると思われる。

実験をするというのは、まずその前にどう実験をするのか、という問いかけがあってはじめてその行為が意味がある。そしてそのような行為をするためには、それには生きていること、私とは何か、そんな問いかけがあってはじめて行為の意味がある。そういった問題をさけて通る芸術塚が多いのはいまも昔も変わらないが、こうした基本的な命題からまず取り組むことができる芸術家は稀有である。

近年は芸術そのものがマスメディアやマスプロダクションの波に押されて消えつつある時代に、彼らがこの世に居たということはその存在自体が貴重であったといえる。しかし残念ながら、そういった価値を理解して、それを同時代的に享受できる人間は少ない。これもまた歴史の必然かも知れないが、人間とは何とも愚かな存在ではないかとも思われてならない。

こうやったらどうなるのかー沈黙のカルテット

佐藤慶次郎さんのところに行くようになって、私の人生は大きく変わった。というのも、作曲というものには和声法や音楽理論やオーケストレーションといったものは、何も要らないということを教えてもらったからだ。佐藤慶次郎さんはぼくに作曲を教えるとか、技術を教えるというつもりは全くなかったし、そんなものは音楽の本質ではないということを強調されていた。

田舎から出てきて作曲家を目指していた私は、シェーンベルクの『作曲の基礎技法』とか柴田南雄の『音楽の骸骨のはなし』や伊福部昭の『管絃楽法』やXenakisのFormalized MusicやJohn CageのSilenceなどを読みあさっていたが、それが間違いであることに気づかされ、自分の愚かさに気づかされた。

佐藤慶次郎さんがよくおっしゃっていたことで、私が学んだことは「こうやったらどうなるか」というそれだけだった。まずは自分で「こうやったらどうなるか」ということを考えてやってみて、おもしろいかどうか、それが音楽のすべてであった。音楽は人のまねではなかったし、そんなものは芸術とは言えないものであった。

更には、芸術なんていうものは、実はどうでもいいものであった。どこまで遊べるのか、そしてその遊びが「あるところを突き抜けて、どこまで普遍的におもしろくなるか」。そして「そのおもしろさがどれだけリアリティをもっているか」それが音楽であり芸術であることを教えてもらった。

佐藤さんは実験工房の代表的な作曲家であったし、瀧口修造さんを巡る芸術家のひとりであり、早坂文雄さんの最後の御弟子さんでもあったが、実はそんな偉い人からも影響を受けたとか、何かを継承したとかそんな陳腐なことは全く嫌いなお方であった。

ぼくの作品は、こうやったらどうなるかっていうのをやってみて、まず自分で面白いかどうか、そしてもっと面白くならないかどうか、また徹底的にやってみる。そしてあるところで、何らかの世界ができるんだ。それだけだよ。

そういつもおっしゃっていた。

梵鐘をゴーンとならして、その余韻が消えるまで消えるまで音を聴いていたり、葉っぱが風でたなびくのをじっと見ていたり、水が流れるのをじっと見つめている、それだよ、君。それが何事かなんだ。

音楽を作っていたらある日いつのまにか音がなくなってたんだよ、君、わかるかい?それでできたのを『沈黙のカルテット』って名前にしたんだよ。

この「沈黙のカルテット」と題された作品は、佐藤さんの音楽であり、ことばであった。

そんな佐藤さんが衝撃を受けたのは、John Cageであった。佐藤さんは、「沈黙」ということに本当に衝撃を受けたと語ってくれた。

佐藤慶次郎さんにとっては作り手はまず最初の受け手であった。そして同時に厳しい聴衆であり、観衆であった。佐藤さんがご自分の作品に厳しかったのは、芸術としての完成度とか純粋さを求めたとか、完璧主義者であるとかいろんなコメントを見てきたが、実はそれはあまりあたっていなかった。

佐藤さんにとっては陳腐な芸術作品は「何事か」と言えるようなものではない、ということであり、「何事か」であるものは、見ても見ても飽きない、聴いて聴いても飽きない、何事かであった。

葉は風に舞い、鳥はさえずる

恩師佐藤慶次郎さんが5月24日の朝、亡くなられた。静謐な最期であった。

禅定のまま亡くなるとはこのことである。師の最期のメモには、闘病の記録もあったが、「禅」の人文字と、それに続いて沢庵和尚の遺墨「夢」が書かれていた。そういう人であった。葉は風に舞い、鳥はさえずる。静かに佐藤慶次郎さんは逝ってしまった。

今日告別式が行われ、弟子で作曲家である中嶋恒雄さんが弔辞を読んだ。

佐藤慶次郎、この名前は私にとっては「孤高の禅家」であり「真の芸術家」であり、「師」である。この荒んだ空虚な日本において、このような純粋に生き続けた芸術家を私はほかには知らない。佐藤慶次郎師は常に自然体であり、そしてリアリティを重んじた。私はこの方に触れることができたというだけで、本当に幸せであったと思う。

佐藤さんの芸術は、万人に理解されるにはその求めるクオリティが高すぎた。しかしながら絶対に妥協しないし、見せかけや御為倒しはきらいな人であった。芸術のクオリティには厳しいが、周りの人にはとてもやさしいお慈悲にみちた方であった。

佐藤さんがなくなられて、何をしようか悩んでいたが、まずはこのブログに書くことにした。というのもいまごろは本当の芸術家の生き様というのがあまり分からなくなっているからである。私が知っている佐藤さんについて少しでもこのあまり人のみないブログに書くことで、日本に本当に芸術家が居たことをみんなに知ってもらえればと思う。

シュルレアリスムや禅にかぶれていた、若く広島の田舎からでてきた「生意気で、憎らしい、不細工な、作曲家を志している青年」であった私は、「無名であることの痛み」を感じる「聴衆」であった現代音楽のプロデューサーである原田力男さんに出会った。原田さんについては以前このブログでも簡単に書いた(リンク)ので、ここでは書かないが、ぼくはなぜか原田さんにとてもかわいがってもらえた。

ある時、作曲を師事したいので、誰かを紹介して欲しいとお願いした。すると「ぼくが尊敬している作曲家ってのはあまりいないし、弟子なんて取るような人はいないよ」と断られた。しかし、当時若手の芸術家や研究者や音楽評論家のあつまりである「零の会」というのに入れてくれて、そこで佐藤慶次郎さんのお宅に遊びに行く機会をつくってくれた。原田さんが心から敬愛して、絶対的に尊敬している日本の作曲家、それが佐藤慶次郎さんだった。

最初に佐藤さんのお宅にお邪魔したときに、佐藤さんはいろんなことを話してくださったが、その内容はあまり覚えていない。周りの人が佐藤さんの師である早坂文雄さんの話や実験工房やケージの話など、ありきたりのことをしきりに質問していたのはいまも覚えている。しかし佐藤さんが若者に伝えたかったことはそういうことではなかったような、違和感を感じたことは覚えている。私はその当時一番若手であったので、あまり発言することもなくその日は過ごしたのである。

佐藤さんのお宅から帰ると原田さんから君は仏教とか詳しそうなので佐藤さんのところで話たことをまとめなさい、と言われた。そこ私は一休宗純の何かを引用するか言及するかして、何かつたない文章を書いた覚えがある。

何日かたって、原田さんから電話があった。「佐藤さんが君の書いた文章をみて、あの子を連れてきなさいとおっしゃってるので、今度行こうね」という電話であった。

そしてその後、原田さんと二人で佐藤さんのうちにお邪魔した。緊張していてどんな話をしたのか全く記憶にないが、一休宗純と禅の芸術思想や「自然法爾」などの話をされたと思う。とにかく私が簡単に書くほど簡単なことではないということを私に伝えたかったのだと思う。最後に佐藤さんが「また来なさい」とおっしゃってくださったのを覚えている。奥様の和子さんも「どうぞまたおいでね」とおっしゃってくださった。

何がどうなっているか分からないが、原田さんが帰りの車のなかで、「野村君、よかったね。あれは、あの佐藤慶次郎さんが弟子にしてくれるってことだよ。君は本当に幸せものなので、一生懸命に頑張りなさいね」「すべてのひとつひとつの音符が本当に意味のある音符を書ける作曲家なんて他にはいないんだから、君もそうなるために頑張りなさいね」と言われた。

こうして私は佐藤慶次郎さんの「弟子」になったようだった。それからいろいろあったが、いつだったかある時「お弟子さんですか」と誰かが聞いたときに、「オレは弟子にした覚えはないんだけどなあ、まあこれは野村君だ」とおっしゃってくださった。これは悲しいような嬉しいことばであった。佐藤慶次郎さんは私を「人」として扱ってくれたということであった。「最近は人間の顔をした機械みたいなヤツが多い」といつも世を憂いていた方のやさしい言葉であった。

これが私と佐藤さんとの出会いである。そしてそれから「音楽ということ」「芸術ということ」「私」「自覚」「生きる」「愛する」「実験する」「愛でる」ということ、そしてすべての大切なことを教えていただいた。

それについてはこれから少しずつ書いてゆきたい。

原田さんの想い出

原田力男さんは、志の人であった。

私に教えてくれたのは、「無名であることの美しさ」と
「有名であるからいいわけではない」ということであった。
それは簡単にいうと、実力主義と自己愛の否定であった。

原田さんは、プライベートな、人間的なものを大切にした。
それは、すこしエロチックであるが、颯爽としたものであった。

私が最初に原田さんに会ったとき、それは上野公園の冬であった。
原田さんは瀧口修造が生きているのではないかと思うような雰囲気を醸しだしていた。
原田さんのきているトレンチコートからは、前衛の臭いがぷんぷんしていた。

残念ながら、その時には、前衛の時代はもう終わっていた。

ぼくは前衛の時代に憧れていたが、ぼくの時代は混沌そのものからはじまった。
しかし、いまはどうだろう。

情報化社会は高度に発展した。
ぼくのこうした日記的なものを原田さんは望んでいたはずだ。

時代はガリバンからブログへと変化した。
我々の言葉は、むかしよりももっと虚しいものへと変化している。
その一方で、美しいものへ追求する人々の心も薄らいでいる。

「リアリティ」という言葉は、虚しい世界で意味をもつものではない。
リアルな世界でこそ、人間のもつ力としてのリアリティを追求したい。

ぼくのなかでは、原田さんの精神はいまも生きているはずだ。
そして、人生を虚しくしないで、すこしでもこの流れに抵抗できればいいのではないかと思う。

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原田力男(1939-1995) ポートレート写真(撮影/青柳聡)