長生きをすべきか、自殺をすべきか

先日、ダライ・ラマ法王の講演会に行ってきた。

日本別院の僧侶たちの引率をしなくてはならないので早朝家を出て、高速道路をすっ飛ばして行く。ひとりで運転して行くときは大音量で好きな音楽をかけて、車中煙だらけになるくらいの自堕落な生活なのであるが、そうはいかないのでまじめに運転する。夜中のしまなみ街道は全くもって面白くも何ともない。しまなみ街道をおりて道後温泉まで行くのはカーブもきつくてしんどい。すこし急いで行き過ぎたか、5時半に到着してしまい、誰もいないし店も無い。

法王の講演会は9時からなので、時間があるからとりあえず近所のメルパルクで朝食をとる。メルパルクはとても親切で朝食をとれば温泉に入ってもいいし車も泊めてもいいと行ってくれる。郵政民営化も捨てたもんじゃない。

講演会開場は8時からなので8時ころに行き、講演会場に入るとまだ殆どお客さんもいないのに、大聖院の吉田座主がビラ配りをしている。大聖院の吉田座主はその世界では大物なのにこういう細かい下っ端の人がやるような仕事も率先してされるところがいつも頭が下がる。そこでビラ配りのお手伝いを同行したスタッフにお願いをする。ゴマン学堂のゲシェー3人を含めた日本別院のお坊さまたちは、何故か一番後ろの席に案内された。それでも入場料を払っていないので仕方ない。

日本別院の僧侶たちは人間ができているので、別に後ろの席でも文句はいわない。何故ならば大切なのは教えの内容であることを知っているからである。以前ケンスル・リンポチェが居られたときに法王の講演会に参加した時にも、前の席がとれなかったと文句を言う人がいたのでケンスル・リンポチェが私は後ろでもいいのでかわりましょうとおっしゃったこともあるくらいである。

私はすこし厄介な用事があったので、法王に取り次ぐために奔走する。まったくもって、いやな役回りだ。そもそもなんでこんなことをしないと分からないが、また代表事務所にいやがられることをしなくてはならない。法王とは何回も会わせていただいたこともあるが、その殆どは仕事である。それも殆どは誰かのいろいろな頼みとか打ち合わせとかを話を通さないといけない。法王と合っている数分とか数秒で重要なミッションを伝えるためには、自分のことなど一度も話たことはない。まあそれは仕方ないのだが、ここでは書けないが法王に直接話したい重要なことがある人たちの取り次ぎをした。法王は「ところでゴマンのお坊さんたちは来てますか」と聞かれる。「参っておりますので、後でこちらに一緒に参ります」と答えた。

講演会はいきなり法王が『中論』の最終偈を唱えられてお話をしはじめようとすると司会者が挨拶などをしなければいけないので「法王さま、ちょっとまってください」とさえぎる。もちろんこの司会者はチベット語が分からないので仕方がないが、すこし残念だった。法王はまず法話の前に釈尊に対する礼賛の偈を自ら唱えられるが、そんなことも司会者は分かっていないし、スタッフも分かっていない。法王はもちろんそんなことを気にされないので、「ああ、そうでしたね」と軽く流される。

いつもと同じように法王が仏教の概論をお話されて、質疑応答を長くとる。相変わらず日本人は要領の悪い質問ばかりで、また同じ質問ばかりだが、さすが観音菩薩、何でも的確に答えられる。輪廻転生というものはどう思うか、大乗非仏説に対する大乗仏教としての見解はどうか、日本は自殺者が多いけどどう思われるか、変成男子の問題などなど。いつも同じ質問だった。法王の講演会にくる前に法王の本でも読んできたらいいのにとは思うがまあ仕方がないかもしれない。

私が印象に残ったのは、「そもそも忍耐が足りないんじゃないかな。この世に60億の人がすんでおり、問題を抱えていない人なんて誰もいない。つらいことがあったくらいでいちいち死んでしまうほど視野が狭いのならば、私はもう何度も自殺しなくちゃいけなかったよ。」とおっしゃったことである。小さい時にダライ・ラマに認定され、常にその「ダライ・ラマ法王」という宗教的な指導者であり政治的な指導者でもあるという重責を担ってきて、いまも法王のために命を投げ出す多くの若者がいることを考えるとえも言われぬ思いがした。法王のご苦労を考えると想像を絶するものとしかいいようがない。

講演会が終わると日本別院のお坊様たちをつれて、法王のホテルまでおっかけ状態。法王はやさしくも厳しいお言葉を僧侶のみんなに告げて「ゲシェラーがはじめたことですから、みなさん頑張ってよい方向に行くようにしなさいね」「仏教の教説に仕えるということは意味のあることですよ」と彼らを励ます。私はみんなの写真をとったりしないといけないので、ばたばたしていると法王は「そんなに汗かいてどうするんだ」とおっしゃる。そこですかさず何を思ったのか、アボが法王に「この人は全然健康に気をつけないんで困ってるんです」と告げ口をすると「長生きをすることを考えなきゃだめだよ」とおっしゃってくれた。

それから僧侶のみんなはとてもうれしそうに、帰りの車のなかでも法王が引用した経典の文句を繰り返したり復習をしていたりしていた。もちろんダライ・ラマ法王のファンはたくさんいるけれども、やはりチベット人たちにとっては一生に一度でもお会いできればいい、観音菩薩であり、ラマである。この感情は日本人の我々にはなかなか分からないが、それを分かることからチベットへの理解ははじまる。

最近家族が入院したりいろいろあって、あれからしばらく経っていろいろと思うことがあった。いままで長生きをすることはあまり考えたことがなかった。

人はさまざまな場面で行き詰まる。しかしながらああもうだめだと思った時には、彼らの不屈の精神をみならってみて欲しい。そして「長生きをすることを考える」ということは大切なことだと感じるようになってきた。長生きをするのは何のためか、それはすこしでも他者のために役にたつことをするためである。チベット仏教で長寿灌頂というのがあるが、いま恵まれたこの人身を受けた環境において、より長生きをすることによってより多くの衆生を利益することができるようになるために受けるものである。

日本に自殺の文化が長いが、長生きをして他者を利するという精神をチベット仏教を通じて、人々に伝えられれば私のやっていることも多少は意味があるのではないかと思うようになってきた。

人の命は聖火よりも重い

今日は明日のTBSピンポンの取材で一日お寺でお客様だった。どうやらマスコミの眼はいまはチベットよりも聖火に移りつつあるようである。それに対して先週来日した、ケンスル・リンポチェの弟子の一人、ゲシェー・ゲレク師は今日こんなことを語っていた。

みんな聖火が消されることを心配しているが、チベットでは人の命が消されています。聖火が消える心配をするより、人の命が消されていることを心配すべきじゃないでしょうか。

まさに、その通り。さすがゲシェー・ラランパ。チベットの叡知はすごい。

種火があるそうだから聖火はまた付ければいい。
人の命は失われてしまえば決して戻らない。

聖火と人の命とどっちが大切か。
そりゃ人の命に決まっています。

チベット語の字幕翻訳・同時通訳

いま毎日ダライ・ラマ法王の昨年の講義のチベット語の字幕を付けているが、この業界では殆どこれまでの通例とかノウハウというものは存在しない。通常字幕は1秒4文字と決まっているが、なかなかそこに納まらない。さらには仏教用語をふんだんに使った法王の説法は、実はとても難しく、思いのほか脱線したり、話題が抜けたりすることもある。

人名や書名が出てきたら大変だ。というのもカタカナで書くと必然的に音数が増える。だからたとえば「ナーガールジュナ」は「龍樹」とするが、さすがに「パダムパ・サンゲー」は漢字に置き換えれない。

先日の法王来日中でも某テレビ局に頼まれて、法王の同時通訳をしたが、これは昨年毎日1時間ずつ練習したからできた仕事であり、こんな練習をしたチベット関係の研究者や翻訳家はだれもいないだろう。一生懸命身に付けた技術も今後活用される予定は残念ながらない。しかしこういう技術は磨かなければいいものにはならない。

仏教の法話の字幕翻訳というジャンルをどこまで開拓できるか、これはあくまでも実験的なものに過ぎなくなるだろう。

しかし、とりあえずいままで出ている字幕よりははるかにいいものができそうだ。というのも字幕を入れる編集作業自体を自分でやっているからである。

音数、秒数、アングルなどすべてを考えながら字幕を入れる作業ができる。スタジオで作業しなくても安いパソコンでできる時代なのである。もちろん、FinalCut Proという素晴らしいソフトがなければできない仕事ではあるが‥‥。

法王が来る前に、きっと法王の話しは難しすぎて日本人にはなかなか分からないだろうと心配したが、改めていま一語一句聞き直しながら考えるに、ダライ・ラマ法王の説法会は誰に対して説かれたものなのか、誠に分かりにくい。チベット人の僧侶たちでも「この話は難しいね」というくらいの内容だし、普通のチベット人が改めて聴いても、よく理解できない難しい言葉や表現に満ちている。

しかしよく考えると日本語も難しいもんだ。ダライ・ラマ法王に質問する人たちはもっとはっきりと何が聞きたいのか簡潔に言って欲しかった。礼儀正しいことはいいことだが、前口上は抜きにして聞きたいこと、言いたいことだけをきちんと伝える、これが外国人とのコミュニケーションの基本である。

法王は日本人が質問している時に、我々に同時通訳をするように要望していた。ちょっとでも詰まるとすぐに「何だって?」とあの迫力のある声で聞かれる。そのたびにかなりびびってしまった。

しかし、実を言うと日本人の言いたいことなんて、文章全体を聞いて、前後関係を含めてまとめてないときちんと伝わらないものなのだ。そして遠慮深い日本人はそんなしゃべり方をするものなんですよって法王に言いたかったが、結局言えず仕舞いとなった。

新年あけましておめでとう

新年あけましておめでとう、といいたいところですが、実は喪中。こういうときはおめでとうも言わないのが本当なのだろうか。それに私の周りはチベット暦で動いているので、まだ本当はお正月ではない。

とりあえず、元旦は龍蔵院の行事があるし初護摩なのでやはりおめでとうなのだろう。

ところで昨日はじめて知ったのだが、チベット暦で動いているところではいわゆるお正月はしないらしい。でも商売をやったりする人や行政関係の人は、「クリスマス休暇」をするそうである。キリスト教徒でもないのに「クリスマス休暇」ってのはどうなんだろう。

新年になって元旦に誓うことといったら、今年はこういうことをしようと決意するのが常であるのに、今年は特にこういうことをしようという別段とりたてて面白いことは何も考えていない。

もしかして、ブログをオープンして一年になるのかな。何度もハックされて困っていたので、アップデート版をいま探しにいったところ、「サポート終了」の文字が‥‥。

やはり普通にMTとかにしておけばよかったと思えどあとの祭り。
とりあえず今年の最初の個人的な仕事はブログ用のシステムの入れ替えぐらいからはじまるのだろう。

リハビリテーション

リハビリテーションということばが好きだ。いろいろと疲れた時、またやりなおす。いまはその時期にきている。この数ヶ月仏教の関係の仕事をしながら、仏教とは程遠い生活をしていた。

忙しいある時に、仏典をほどくと、そこに禅定の境地を得るためには、「やるべきことが少ないこと」というのが条件にのっていた。なるほどと思った。とはいえその時にはやるべきことを少なくすることはできなかった。

これからはしばらくやるべきことをひとつずつやっていけば、自動的にやるべきことは減るはずだ。それにはあと数ヶ月くらいかかるだろう。多分春ころには、私のリハビリテーションがはじまる。

文化と宗教

この下らない日本では「宗教」と名が付くものはあまりにも見下されている。特に文化レベルの低い私の住んでいる広島では宗教と文化は異なると思っている頭のおかしい人が沢山いる。

言葉を正確に使うのならば、宗教は人間のもつ文化のひとつである。普遍と特殊という関係に喩えるのならば、宗教は文化の特殊概念であり、文化は宗教の普遍概念である。

したがって、宗教であり、なおかつ文化であるものは有り得る。たとえば仏教がそれである。しかしいまの日本ではどうだ。文化と宗教はあたかも対立概念のように扱われている。

ダライ・ラマ法王はチベットの宗教者であるのか、チベット文化の象徴であるのか、政治家なのかという下らない問いがあたかもあたりまえかの如く、説かれるのである。

ダライ・ラマ法王はチベットの元国王である。それは宗教者であり、文化の象徴であり、政治のリーダーでもある。それがチベットという国家の特徴なのである。そんなあたりまえのことが日本人には理解できなくなっている。そんなことも分からずにただ「ノーベル平和賞」とか「有名」というだけで寄ってくる人たちに、ダライ・ラマ法王のお話が理解できるだろうか。

TV番組:オーラの泉

日本では、宗教についての無知がはげしい。

特にいまやっている「オーラの泉」(TV朝日系)という番組はあまりにもばかばかしい。

聞くに耐えない言葉が空虚に公共電波で流れている。

この番組に関わりこの番組が全国放送されているということは、
あまりにもばかばかしくて、嘆かわしいばかりである。

そしてこの番組をやっているのが朝日系というこのアンバランス。
宗教についてのあまりの無理解がこのような現象を生んでいる。

末法の世もここまできてしまった。

文化のギャップを感じました

昨日、ゲンギャウがチベット料理をつくってくれました。チベット料理は大体これまで口に合うものばかりでしたが、今回はちょっと言葉につまりました。

料理方法は、簡単。お米にバターとディー(ヤクの雌)の粉チーズ、干し肉(ヤクの肉)を少々いれて、あとはお粥のように炊くだけです。

仕上がりは、リゾット風、お粥のようなものになります。味は、最初の一口は二口は美味しいのですが、胃にもたれそうなお粥ですので、さすがに沢山食べるのはちょっとつらいです。

以前ご飯にヨーグルトと砂糖をかけて食べるチベットのご馳走を頂きましたが、これもつらかったですが、今回のはそれにもましてつらかったです。しかしゲンギャウはおいしいおいしいと食べていました。

そこでゲンギャウと話をしたところ、そもそも日本ではお米に酢をかけて、なおかつ冷やして(!)、それに生の魚の肉をつけて食べるという「寿司」という料理があります。これもよく考えると外国人にはつらいのかもしれないなということです。

ゲンギャウは基本的に伝統的なチベットスタイルを頑なに守っていますので、「魚・豚・卵」は食べませんし、いりこダシは口にあわないようです。

以前フランスでウサギ料理を食べたときにも思いましたが、文化のギャップというのはやはり大きいなと思いました。インドでカレーを食べるときには指でお米と混ぜて食べると美味しいですが、日本のカレーではそれはできません。

日本人は世界中の食事や文化を取り入れている気になってはいますが、まだまだ文化のギャップははげしいですね。

ゲンギャウは最初みそ汁をみたとき、家畜のエサかと思って食欲がなくなったとのことですが、そんなことに気付かない我々は、みそ汁は美味しいので飲んでみたら、世界でも日本食はブームになっていすよ、と自分勝手なことをいっていました。

日本食がブームになっているのは、アメリカや一部のヨーロッパだけ。日本の味が世界に通用する思っているのは、単なるエゴなわけですね。

文化のギャップというのは埋めることは難しいと思うこのごろです。

Dalailama2006.jp ロゴ

ダライ・ラマ法王の写真は日本ではいろいろなところで眼にする。チラシや雑誌など。それらはいずれは捨てられる運命にある。それは実はあまりいいことではない。

チベットのひとびとにとってダライ・ラマ法王の写真は、踏絵にもされているようなもので、それをもっているだけでも投獄され殺されてしまう可能性がある。ダライ・ラマ法王の写真にはそれほど重い意味があるのだ。

たとえばチベット人のラマならば、ダライ・ラマ法王の写真は頭の上において、礼拝の意味を込めるしぐさをするだろう。そんな光景を見ていると、いずれは捨てられる運命にあるようなダライ・ラマ法王の写真を印刷物などで使うのはよくないなと本当に思うようになった。

そこでいま作っている、ダライ・ラマ法王の広告で、「できるだけ捨てられないような場面のみにダライ・ラマ法王の写真は使用してよい」というルールを設けることにした。チラシの裏面には、小さくダライ・法王の写真がはいっているが、それはまあ宣伝効果を考えると仕方がない。ただ正面にばんと大きくダライ・ラマ法王の写真を使うのだけは避けた。これだけでもいままでのダライ・ラマ法王に関する行事のチラシと一線を画すことができただろう。

写真の代わりにダライ・ラマ法王をロゴで表すよう友達にデザインをしてもらったのが、このロゴだ。宝石(摩尼)と蓮華で観音菩薩を表現している。つまりダライ・ラマ法王だ。このロゴをみてダライ・ラマ法王だと思う人はいないだろうし、写真やイラストを使って大量に印刷するよりはましかな、と思った。

しかしできてみてから考えてみると、ちょっと待てよ。ダライ・ラマ法王や観音菩薩を記号で表したとして、それがチラシなどで使われたとしよう。そしてそれが大量に印刷されて、またゴミになるのであるとすれば、やっぱりダライ・ラマ法王や観音菩薩が捨てられることになるんじゃないか。‥‥そう考えると結局同じことになってしまうような気もしてきた。そんなことを眠る前にちょっと心配になってきた。

まあ記号化したのだから、記号を理解する人がいるかどうかということで罪業になるのかどうかが決定されるのだろうか。それならいいけど‥‥。まあこのあたりがブレイクポイントではあるだろう。

まあいちおう明日、リンポチェに相談してみよう。

ダライ・ラマ法王 Teaching in 広島 2006

dalailama2006.jpのサイトがやっとできました。とりあえず何となくスタートしましたので、お暇な方は観てみてください。

ちなみに受付の日程が若干変更になりました。
(チベットの暦でもっとお日柄のいい日にしました。)

施主登録開始:7月10日より
一般参拝登録開始:8月15日より。