ツォンカパの否定の定義とその思想的展開

「否定」(dgag pa, pratiṣedha)と「肯定」(sgrub pa, vidhi)の問題が単なる表現上の差異から、思想内容の差異へと昇華される時、否定や肯定は認識されるべき対象(shes bya)それ自身が如何なる存在者なのかという問題へと昇華される。梶山雄一博士が絶対否定(med dgag, prasajyapratiṣedha)と相対否定(ma yin dgag, paryudāsa)という二種の否定の問題や、否定排除(rnam bcad,vyavacchedha)と肯定排除(yong gcod, paricchedha)という二種の否定作業について注目して(1)以来、インドの文法学・論理学などにおいてこれは一つの思想言語の分析作業に無視できない問題となっている。

チベット仏教の巨匠ツォンカパ・ロサンタクパ(Tsong kha pa Blo bzang grags pa 1357-1419)が「否定対象を排除しただけの絶対否定が空性であり、それだけが勝義諦である」 (2) と主張する時、この否定・肯定の問題は彼の空思想の理論的前提となっている。しかしながら、チベット仏教における否定と肯定についての言説は、我々が日常使っている言説とは全く質を異にしているのである。我々には「‥‥を否定する」「‥‥を肯定する」という命題はあっても、ツォンカパのような「‥‥は否定である」「‥‥は肯定である」といった命題はそれほど明確に意識することはできない。ましてやチベット仏教で具体例として挙げられる「壺は肯定である」「無量寿仏は相対否定である」という命題は、少なくとも日本人にとって文法的に誤りなのである。

ツォンカパの否定・肯定に関する議論は、空思想と密接に関係していることは確かである。しかし「否定とは何か」という否定の定義の問題と「空性は否定である」という問題とはレヴェルの異なる問題であり、空性が否定を規定しているわけでない。本稿ではツォンカパの否定の定義とその認識過程に焦点をあて、18世紀のゲルク派の傑僧ジャムヤンシェーパ・ガワンツォンドゥー(Kun mkhyen ‘Jam dbyang bzhad pa I Ngag dbang brtson ‘grus, 1648-1772)の『量評釈考究』rNam ‘grel mtha’ dpyodを援用しながら、彼の見解を再構成してみたいと思う。

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仏教の研究をするために

仏教の研究をするということは、読み下すのならばブッダの教えを研ぎすました感性で究明しようとすることである。それは決して「仏教」というジャンル分けをされたものを対象として、そのものを客観的に社会に提示するためにその芳醇な要素を篩にかけて、捨ててしまうことではない。

しかしながら、最初に「研究」をしようと思ったころや、それに対する研究に必要最低限なスキルを身につけるための努力をしているうちにそういうことを忘れてしまう人が多い。

仏教の研究者になろうと思ったころには、サンスクリット語、チベット語、漢文、パーリ語などなど学ばなければいけないものが多い。それらの語学を学ぶうえでは、語学能力の向上のためにそれらの言葉を使っている人たちのことをもっと知らなければならない。何故ならば、その言葉がどのような意味であるのか、ということは、あくまでもその言葉を発する人に対する思いやりというか、想像力から理解されるものであるからである。

たとえば現代の仏教学では仏教論理学というものが非常に注目されてきた。これは仏教にまつわる文化の担い手たちが宗教やブッダの教えというこの巨大な象をどのようにあつかっていいのか分からないという不安を代償としたものである場合が多かったと思う。モダニズムではなくて古典主義になった人々は、たとえば新しい写本の発見といった、古い実在的な価値観から解放されることなく、むしろ崩壊したモダニズムのなかで少ない実在的な価値に命をかけてきたといってよいだろう。しかし、この世を見てみよう、骨抜きになった魚のように、教えの輝きを失った仏教学は、人々の心を揺さぶることができないまま、社会はもっと悪くなっているのである。

我々はほんの少しの周りの人と同時代の人たちのために生きている。それらの人たちのなかで一体自分というものがどのような位置に立つべきなのであり、どのようにこの「私」という記号を人々のなかで面白い存在にするべきなのか、ということは誰しもが考えなければいけないことである。しかし、そのような事実を直視することの恐怖に脅えている。

ある人がお前は論文を沢山書いてないなといったことがある。つまらない論文を沢山書くくらいならば『中論』のようなものを書きたいとこれらの人は思ったことはないのだろうか。決して多くを語ることが重要ではないはずである。適材適所に言葉をちりばめて、その仕掛けを人々がどのように楽しんでくれるのかとういことを考えるのは、小さな楽しみであるはずである。それらのことを日常の雑事に追われて忘れてしまっていることが多い。

我々は毎日問いかけなければならない。ブッダはいまもここにいて何を我々に教えているのか。彼らの言葉をまず性格に理解することをはじめ、そしてその教えを感受することから仏教の研究ははじまる。

紙に学術情報を書いて何か意味があるのか

紙に文字や文章を書くことは人間の手仕事と関係しているが、紙の情報というのは実はこの世にあるすべての情報を書き残すのには不向きである。ここには言葉に対する過信だけではなく、既存のメディアに対する無批判な思考が現れている。

科学的な研究活動をする上で紙の上にすべての情報を残そうという試みは、メディアの特性を理解していない「愚の骨頂」である。もちろん書物という紙の束は、ものとしての価値はあるけれども、情報それ自体を他者と共有しようという意志を拒んだものであるといえよう。

いまはもう21世紀。紙とかハンコというのは速攻でやめるべきである。

紙に書かれたことはアップデートできないし、キーワード検索できない。紙に書いたことを検索するために学術情報データベース入力用のキーワードを書けと学会などでは強要されているが、これもあまりもばかばかしくて話にならない。

ことばとして発せられる前のもの

日本人でチベットのことを研究する意味は、社会的にいえば彼らの言葉を日本語で表現することにしかほとんど意味はない。私が研究してきたツォンカパの空思想はチベット仏教史上極めて重要なものであるが、それを完璧に日本語に翻訳することなどできないものも多くある。

そしてこの翻訳不可能性の問題を考え始めるのならば、厳密にいうとほんのひとつかふたつの単語すら翻訳することができないという壁にぶちあたる。そういうことを考えたことがない人は単純に言葉を置き換えればすむと思っているが、そんなに甘いものではない。我々が「私」というこの一語を発するだけで大きな一歩を踏み出していることを決して忘れてはならない。

「言葉に依らず意味に依りなさい」「人に依らず法に依りなさい」これらは四依であるが、実はその逆のことをやっているものが多くいる。仏教の研究者といわれている人のなかにも袴谷憲昭氏のようにこの教義自体を批判してやろうと企てているものだっている。しかし彼らは忘れている。「意味」「対象」「目的」これはサンスクリット語でもチベット語でも同じ単語なのである。彼らはそれらの言葉のもっている意味空間をあたかも忘れたかのような議論をしているが、所詮日本の仏教学という非常に小さなコミュニティでごちゃごちゃいっているだけだ。

哲学者や言語学者というのはことばとして発せられる前のものを追求してきた。音楽家や芸術家もまたそうである。彼らが目指してきたものは、ローカルな言語やローカルな社会のはなしではない。我々人間が非常に長い間、この世で取組んできた、ことばにもできない、もどかしさや苦しさを吐露する、ことばとして発せられる以前のものに取組んできたのである。

無上瑜伽タントラの生起次第において、空性を把握している知の所取相が本尊として生起するという話は、まさに芸術家が創造という行為を行う賭博のような一歩を歩みだす瞬間である。その瞬間から瞬時にして構築されるものは、決して通常の理解ではあり得ないような象徴と意味が絶妙なバランスによって生み出されるべきものなのである。そういった営為が秘密とされていたのは、それを説くべく人として言葉として発せられる以前のものを瞬時にして把握できるような人間以外にはその意味が理解されることがないからである。残念ながらタントリズムの世界は、いまの日本人のような観念的で想像力のない臆病な人々には理解をこえたものである。彼らは結局はなんとなくそれをやった気になっただけであり、本当に死や無常の淵から這い上がるような気概がなければ、そういった修行など無理としか思えない。

師、佐藤慶次郎氏は「I am」とか「私が」ということをどういう風に言ったとしてもそのことばでそのことばよりももっと大事なことがあるということをしきりに教えてくださった。師をはじめとする真の芸術家たちは、そのことばとして発せられる以前のものを言語化することに長けていた人々である。私がチベット仏教への研究へと向かったのは、私なりにある異なった言語化のプロセスや構造を解明したかったからである。別にチベットが好きなわけでもなんでもなかった。彼らが築き上げた論理的に体系化された宗教的カタルシスをともなう世界がいったいどのように組み立てられているのか、ということを知りたかったからである。そしてその組み立て方を何故知りたかったのかというと、『中論』のテキストをどのように音楽にできるのか、というこの何とも面白そうことをやってみたからである。

『中論』を音楽にしてやろうと思ったのは、これは決して翻訳できない美しく織り込まれたテキストだと思ったからである。そして一章一偈だけこうやったら音に置換できるのではないか、という試みをした時点でいきづまり、その後でいろいろあったが、まだまだその後残り何百偈もまだ課題が残っている。そしてこの取り組みはまだ終わっていない。「四十にして不惑」とはよくいったものである。師、佐藤慶次郎氏はちょうど一年前名曲「カリグラフィー」の長いフェルマータの如く息を引き取られたが、私にはいまだに「野村君、君は一体どうするんだね」というあの声が聴こえてくる。四十まで残り半年くらいだ。とりあえず瑣事に惑わされないようにちょっと苦手な整理整頓からはじめたい。

チベット学研究は何のためにあるのか

長年考えたこともなかったわではないが、いまさらながらこんな問いかけをしてみたい。それは必要とされているのか否か。趣味か否か。プロかアマか。いろいろと小手先のことをやってそれらしく見せかけることはできるが、よくよく考えてみるとそもそもこの問いかけこそがタブーであった。

先日某大学のある方が「チベットの研究なんてもうからないことはやめた方がいいよ」と言われて極めて憤慨した。しかし、これは残念ながらあたっている。我々研究者というのはこの問いかけこそしたことがあるが、いつも自分で自分をごまかしてきたのである。

そもそも我々は「チベット研究者」としては求められていないのである。誠に残念だが仕方がない。要するにそれは一生人々から必要とされることもないし、趣味でしかないし、お金も充分もらえることはない。いまだ儲かったことは一度も無いし、損失は並大抵ではない。「ハンコック」を観て、これだねと思ってしまった。だがハンコックとの違いは我々はスーパーヒーローではなく、そのヒーローの言葉を日本語にしているブルーカラーでもない、はたからみると不労者っぽい単なる作業員でしかないことである。

チベットのお寺を派手にやっているように見えるかも知れないが、実は毎月赤字で、自分で自分をいろいろな会社に派遣して、でかせぎをして嫁には生活費をしぶりつつなんとかやってきた。おかげで高校を卒業して貧乏学生をやっていた時とほぼ同じ生活レベルでしかない。

先輩の偉い先生方も、結構ぶらぶらやっているのがこの業界である。

じゃあなんでやるんでしょうかね、と言われたら、やはりこう答えるしかない。それは「面白いから」「本物だから」「すごいから」単にそれだけだ。

最近禁酒してこんつめて仕事をしているなかで、久々にビールを一本飲むとかなり酔って来た。支離滅裂な品のない記事になってきたので、まあこの位で今日はやめて寝るとしよう。

翻訳の品質管理

科学というものは客観的なものでなければならない。
つまり常に同じ結果がでることが重要である。

しかし翻訳の品質管理というのは結構難しい。
これは誰がやっても同じ結果がでるというものではない。
翻訳というのは職人的技術と経験が必要なものであり、
またセンスというのも必要なものである。

また特にマイナーな分野になればなるほどその品質管理は難しくなる。
チベット語の翻訳がその一例である。
そもそもこういうものをきちんと教えるところがないのが絶望的だ。

日本という国は、日本語を使っている。
あたりまえのようだが、実はここがかなりネックである。
チベット語を英語に翻訳する絶対的人数と比べたらチベット語を日本語に翻訳できる人間は多分10分の1にも満たないであろう。

工業製品であれば、不良品のリコールという自浄作用があるが、
チベットの世界では、不良品のリコールというのはない。

間違った情報も垂れ流しであるし、極めて主観的な情報も垂れ流しである。
つまりこのブログのようなものである。

研究者の研究業績を見る指標が、論文の数であると長く言われている。
つまり駄文でも多く書くのがいいということである。

モーツァルトやベートーヴェンよりも小室哲哉がいいというのか。

ダライ・ラマの「転生」?

日本にはチベット語やチベット仏教を解する人間がごく僅かしか居ないし、その充分な能力をもった人間を育てる環境もないのである。だからチベット問題がこれだけ脚光を浴びているなか、あまりにも不正確な情報が氾濫してしまっている。

とりあえず一般の人がチベットに注目してくれればいいというのは確かに我々長年ボランティア活動などをやっているものの本音でもあるが、英語で「I want Tibetan to be happy」(チベット人が幸せであることを望みます)というのと「I want to go back to Tibet」(チベットに帰りたい)というのは全然違うし、これを訳しわけられなければ中学校も卒業できないけれども、そういう類いの初歩的なチベット語からの誤訳が蔓延している。

チベット語の語学力については、有名大学の先生やヨーロッパでご活躍(?)になっている先生たちも、大した語学力でないばかりではなく、「誤訳」としかいいようがないものが氾濫しているので、一般の人はそのような状況を理解した上で情報を選別すべきであろう。信じられないことに日本では決してチベット人が書かないようなチベット語の綴りが教科書にのっているし、そういう綴りで書かれた文章が教科書のチベット語として使われていることも多々あるのである。

そのなかで最も腹立たしい誤訳は「ダライ・ラマの転生」とか「ダライ・ラマの輪廻転生」いう表現である。これは大いなる間違いである。これに当たるようなチベット語は決してありえないし、そんな表現をチベット人の社会ですれば、「ダライ・ラマ法王を批判するなんて、おまえは中国の回し者か!」という話しになるだろう。

その理由はチベットのコンテクストにおいてダライ・ラマは厳密にいうと「転生しない」し「輪廻」ではないからである。そもそも化身というのは我々のように業と煩悩によって輪廻に生まれてくるのではなくて、衆生済度という必要性があるからこそ「再生」「再来」するという発想なのである。

特にダライ・ラマ法王のように観音菩薩の生まれ変わりとなれば、本体である観音は、菩薩の姿をとってこの世に現れるが、既に仏位に達していると考えるのが通常のチベットの解釈である。だから煩悩を既に断じ終わっており、輪廻に「流転」することはあり得ないので「転生する」という和訳も間違いであると言わざるを得ない。

たとえば極楽浄土に生まれ変わるのは、「祈願の力によって生まれる」のであって、業と煩悩の力によって生まれるのではない。日本では極楽浄土に生まれ変わることがすぐに成仏することだと勘違いしている人が大勢いるし、ましてや輪廻や前世・来世の存在すら認めない人が多いので、はっきりいって仏教の教義に対する理解がめちゃくちゃになっているのである。

最近よく見かける表現に「生かされて生きる」とかいかにも日本的な語呂合わせのような標語がお寺にかかっていることもある。こんな表現はサンスクリットにもチベット語にも有り得ないし、ましてや中国語にもないよくわからない仏教!?なのである。

ましてや『ツォンカパの中観思想』と題して出版されている、本の副題には「ことばによることばの否定」と題されている。これは禅宗の思想ではそうかも知れないがツォンカパが「ことばによることばの否定」なんてことは一言もいっていない。

仏教界もめちゃくくちゃ、学会もめちゃくちゃだ。ましてや一般の出版物はめちゃくちゃなのである。最近は『ダライ・ラマのビジネス入門』なんていう恥ずかしげもない便乗商売が世にはばかっている。

さらに悲しいことには、チベットについて好意的な発言してくれている宮崎哲弥氏も「私は中観派に属する」なんていう途方もないことをいっている。チベット人が聞いたら絶句する発言である。何故ならば「中観派に属する」ということは「中観の見解を有していること」つまり空性を理解しているということになるからである。そして空性を理解するということは、有辺(すべてのものが顕現する通りに存在していると思う間違い)の無辺(輪廻転生を否定する間違い)とを同時に断じた中を理解するということなのである。そしてチベットの寺院では、すくなくとも罪障を浄化しないかぎり、知に空性が顕現することは有り得ないと言い伝えられている。そしてチベットの僧侶の戒律の不妄語戒の破戒に数えられる大罪のひとつとして例にあげられるものに「空を理解していないのに空を理解していると述べること」がある。こんなことはチベットの僧侶にとっては当たり前のことなので、チベットの僧侶であれば「私は霊能者です」とか「私は空を理解しました」なんて口が裂けても冗談でもいわない。

愚痴ばかり書いたので、最後にひとつ建設的な提案をしておこう。仏教についての基礎知識をテストする共通学力試験を作るべきである。そしてそれにパスできないものは、仏教について語るべきではない。またチベット語についての基礎語学力テストを整備すべきである。

チベットの文化が危機的な状況に追い込まれているのは、中国人のせいだけではない。それをきちんと理解し、それを人に正確に伝えようとする努力をしない外国人もチベットの文化を脅かしているのである。

まあ愚痴ばかり書いてもしかたないので、来年くらいからはデプン・ゴマン学堂日本別院仏教基礎試験というのを整備して、すこしずつやっていくしかないだろう。

真実、事実、そして同一基体性

今年はひさびさに学会発表でもしてみようと思って、いま準備している。発表題目は「ツォンカパの空思想における絶対性」である。

1年間ダライ・ラマ法王の映像を編集しながら、チベット仏教についてその本質的な側面というものがどこにあるのか、考えてみた。そこでぼくなりにひとつの結論ではないが、視点というものを導入してみたくなったのである。それが、真実、事実、そして同一基体性ということと絶対性の問題である。これについてのチベット仏教の洞察は世界的に見ても他の追随を許さない、極めて高度なものである。

ツォンカパの空思想というものをよくよく考えてみると、立川武蔵のいうような聖なる世界と俗なる世界という二つの異なるディメンジョンではできていないということである。

これはチベット仏教が真実というものを、事実、そして存在というものと密接に関係して捉えていることによっている。ツォンカパにとって真実、事実というものは、「欺かれないもの」という定義がなされている。つまり正しい認識によってそれは獲得される対象(རྙེད་དོན་)であり་、それが獲得される場合には知に顕現しているものがその通りに存在していなければならないのである。これが顕現内容と実在内容との一致関係(སྣང་ཚུལ་དང་གནས་ཚུལ་མཐུན་པ་)་と謂われるものである。

チベット仏教の特徴として非常に現実主義的なところがあげられる。これは中国仏教のようなシュルレアリスティックな、よく言えば詩的な現実認識の視点をもっていないということである。だからこそ、空思想によって描かれる世界というものは極めて現実的なリアリスティックなイメージなのである。

チベット人にとって、そして特にゲルク派風の世界観では、現実世界と理想世界は同一基体に存在している。これはロマン派的な合一の思想では決してなく、同じ位相空間のなかの「事実」として現実世界と理想世界を位置付けることができるのである。人々はダライ・ラマ法王に観音菩薩と一体化した姿を見ることができるし、マルパのようなグルの像を描くことさえできるのである。現実に顕れるものは、自在に解釈されつつも歪曲する必要はない。本体と化生物との関係は強固に維持することができるのである。

このように考えてゆくのならば、中国的、日本的というものは、差異は消滅させられるか、もしくは隔絶化に向かわざるを得ないのに対して、チベット的、モンゴル的な土壌では、差異は同一基体上で絶妙なバランスを保ちながら保護される。絶対性もまた、超越的な思考を経る必要がなく、同一基体上で絶対者と相対者とが実現することができる。これが我々が知らないチベットの風土が編み出した世界的な叡知であることは誰もまだ気付いていないだろう。

更改しつづけることでその存在意義を有する中国的歴史観と事実関係を現実のものとして保存しながら、解釈内容によって歴史を書き換えることができるチベットとでは、どちらがインド仏教の本流を継承しているのかといえば、チベットに軍配があがるであろう。

チベット問題の解決のための対話の場に、中国側は常に歴史認識の問題を条件にあげてきている。しかし中国側がこの方針を変えない限り、両者の歩み寄りはあり得ないであろう。事実への探求、真実の追究、そして真実を確定するための方法論、これらについて中国文化がいくら頑張っても、チベット側の論理には歯が立たないであろう。

学者よ、発言を求む

我々チベット学者ははっきりいって怒っています。学問や歴史に口出しする政府はろくなもんじゃありません。もういいかげんにしろばかやろう。ソ連という親玉を失ったボンクラ息子、中国はやりたい放題、いいたい放題だ。誰かとめてください。

そもそもチベット側と中国側の対話のなかで大きなネックになっている「歴史的にチベットは中国の一部である」といったプロパガンダに客観的な学問を志す人間のだれが賛同できようか。同じことを言われたらどうするんだ、「歴史的に日本は中国の一部である」と一体誰が認めることができようか。それと同じことなんです。

国際チベット学会の関係者もいよいよ動き出しました。残念ながら日本はまだです。
http://www.tibetopenletter.org/

日本でチベット研究や仏教研究をしているみなさんに訴えたい。

我々こそが言論の自由を主張すべきです。学問というのは言論の自由がなければ何の発展もありません。チベット問題について口を閉ざすのではなく、みんなできちんと発言しましょう。人々の声、客観的な声、それを封じ込める社会に反対しましょう。ペンは剣よりも強しです。

みなさん何年間これまで学問をやってきたのですか。みなさん何年間チベットの資料で研究費などをもらってそれを学者人生の糧にしてきたのですか。チベット文字も読めない人ですら、立ち上っているじゃないですか。こんな時に発言しなくていつ発言するんでしょうか。