「アップデート」に関するもの

 

チベットの焼身自殺の原因は我々にもある。

2012-02-08

チベットの人々、特に若者や僧侶、尼僧たちが焼身自殺をしている。もはや抵抗することすらできない人々や未来を描くことができない若者が自らの肉体を火にくべて訴えている。

しかしこの一連の持続した焼身自殺の原因は、中国政府にだけあると間違って認識してほしくない。こうした事件の原因は、日本人の我々にもあるし、それが何故なのか考えればわかることである。

私は焼身自殺のことを考えるたびに自らの無力さを感じる。この状況を改善するための何らかの努力をしたいと考え、できる限りのことはやっているつもりである。彼らが焼身自殺し続けている原因は間違いなく私とその延長線上であるこの日本の社会に一部あることだけは間違いないのである。

チベット本土の人たちの悲痛は国際社会に届いていると思っている楽観的な人もいるかもしれないが、それが具体的に彼らが感じられる形では届いていないのは事実である。そして我々日本人がチベット人の声に耳を傾けていると思い違いするのは勝手だが、具体的に彼らがチベット人が自分たちの声が我々の耳に届いていると感じられなければ無意味である。

彼らの決死の訴えが近年も無視されつづけていたことを端的に表す事実として、チベット側と中国政府側との対話が断絶していることがあげられる。国際社会がその状況に改善を望めば、国際社会のなかで生きて行こうとしている中国政府も必ずチベットをはじめとする国内の人権状況を改善しなければなくなる。それは決して不可能ではない。しかし実際にはどうだろうか、チベットの状況は改善されるどころか、悪化する一方で、中国政府はより多くの兵士を動員したり、戦車や機関銃でチベット人たちの肉体を骨の奥底から脅している。

先日も日隅一雄という弁護士が焼身自殺を「自虐ネタ」だとして釈明していて、数日後にもまた釈明するらしいが、そんなことはどうでもいい。彼は余命半年らしく自分の命が消えて行くことをブログなどで宣伝しているが、他人の命が消えてゆくことを冗談のネタに使えるというつまらない人間なのである。同じコミュニティの人間が死んでもどうでもいい、さっきまで元気だった隣の人が死んでも自らの名誉や仕事のために笑って過ごせたりするのは、まだ人間とはいえないだけだ。

チベットの問題は、チベットの人たちだけの問題ではない。それは我々人間全体にあるひとつの問題である。チベットの人々は中国に侵略されて現在苦難を味わっている原因は、過去に自分が為した業の結果であると考えているが、その業の結果が起こりつづけていることは我々人間社会に住んでいる人間ひとりひとりにその責任がある。すくなくとも我々が住んでいると考えているこの小さな日本の社会では、自由をもとめて焼身自殺することが連続して起きることなどないのである。

チベットの若者の命が次から次へと燃えて消えてしまっている現象が起こった原因に我々も無関係ではない。特にこのブログを読んでいる人は、密接な関係をもっているはずだろうし、その責任を感じて欲しい。

彼らは「中国共産党政府よ、悪態をつくのをやめよ」と訴えて死んで行っているわけではない。彼らは「チベットに自由を。ダライ・ラマ法王の帰国を。」と死んでいっているのである。彼らには家族もいるし親もいる。そして友だちもいるし、我々と同じ人間社会に住んでいる人のひとりである。

彼らはニュースの映像でもないし、ネットの画像でもないし、チベット問題とか中国政府に虐げられた人とかいった陳腐なものでは決してない「人間」である。そして我々に問われていることは、「チベットシンパ」とか「チベットサポーター」とか「アジアのリーダーの日本人のひとり」とか右翼とか左翼とかそんなことではない。別に親中派だろうが親チベット派だろうが関係ないのである。

我々に問われているのは、この問題を同じ「人間」という仲間としてどう責任をとっていこうとするのか、ということである。

いま我々は自らの心にどれだけの変化を起こせるのかが問われている。

私たちは、ひとつの家族の兄弟であり、姉妹であり、そして人類というひとつの全体です。それゆえに私たちは、他者が味わっている苦しみ、子供たち、弱者たち、高齢者たち、彼らの痛みに対して無関心であることをやめ、世界全体を問題としなければなりません。

問題が起こる原因、それは私たち自分自身にあります。そしてその解決もまた私たち自身からはじまります。私たちは誰でも小さな子供の時から学んでゆかなくてはならないのです。世界を変えるのに必要な力、それはそこにあります。

広島のメッセージを宣言します。
他者の家を壊すこと、それはあなた自身の家を壊すことです。
他者の家を直すこと、それはあなた自身の家を直すことです。
優先してください。あなたの仲間、街、国だけでなく、世界全体を。
誠実であってください。あなたの仲間、街、国だけでなく、世界全体に。
見守ってあげてください。あなたの仲間、街、国だけでなく、世界全体を。
教育を受けさせてください。あなたの仲間、街、国だけでなく、世界全体に。
思いやりを与えてください。あなたの仲間、街、国だけでなく、世界全体に。
赦しを与えてください。あなたの仲間、街、国だけでなく、世界全体に。
協力してください。あなたの仲間、街、国だけでなく、世界全体で。
変化はあなたの心からはじまります。
すべての人に愛を。

「広島国際平和会議2006共同宣言」

チベットにある問題のために何ができるか悩む必要は全くない。彼らが望んでいることが何であり、そのために我々が日本人に何を望んでいるのか、ということは直接チベットの人たちに聞くことができる。そしてそれを聞いたらそれが実現できるまで努力あるのみなのである。もたもたしているだけ時間の無駄なのである。

代弁者と咀嚼する者

2012-01-05

代弁者であろうとする者は咀嚼しないことが多い。受け売りをするという窃盗のような行為に対して彼らは罪の意識を感じない。

他人のことばをまるで自らが考えて思いついたかのように述べている。ただ代弁者たちは読者よりもはるかに勝れた気質をもっている。彼らは書かれていることばを読んで思い悩んだりしないし、そのことばの意味をすぐに見出す。(ただし陳腐な意味付けに終わることの方が多いのだが……。)

ことばを咀嚼しようとする者はそのことばが他人の心や眼をえぐりとることを知っている。何故ならば代弁者たちのような低いモラルをもちあわせていないからである。しかしそれは勝れた人間であるわけではない。彼らの心はえぐられて、失明しかけた人々であるからである。

代弁者たちがことばを咀嚼しようとすること。それは代弁者たることをやめようとすることである。他人の歌をカラオケでうたうのではなく、自分の歌をうたおうとすることである。陳腐なカラオケをうたうより、川辺や海辺で飼い犬に聞かせてみたい歌が口からでるからである。

ことばをリアリゼーションする演奏家たちは、その全身全霊で歌をうたいはじめて鳥になる。実験室で餌をもらうためにうたってみせた歌ではなく、ある日その実験室の檻からでて、大空の下で大きな声でうたってみたいからである。

世の中の人たちは知っているのだろうか。人間たちが残した残飯をあさるカラスたちは、ビルの上の誰もこないアンテナの上で、さまざまな声のトーンで鳴いて見ているということを。誰にも注目されなくても、真っ黒な勇ましい躯付きのカラスたちは、夜明けに空に自らの声を刻もうとしている。何とも格好のよいものだ。

肉の塊に翻弄されるひとびと

2012-01-05

五蘊成苦もしくは行苦というのは人間の基本的欲求そのものが苦の原因であるという仏教独自の苦しみに関する洞察を表している。我々人間は肉体に対する欲求がその本能的な衝動であり、それが無常で無我であるにも関わらず、その価値を過剰評価している。

たとえば衣服住といった我々の基本的な文化領域もそのペルソナ的な存在の延長線上にあり、そのことがすべての欲望や憎悪の基盤となる主語である。殆どの認識がこのペルソナ的な存在を対象としているのであり、社会学や医学の対象もこれらのペルソナ的な存在の価値を如何に詐称して、過剰に評価したらいいのかというその方法論を説いている。

自由に対する欲求はこの本能的衝動に対する反動である。何故ならばその本能的衝動は堪え難いほどの苦しみの連鎖を生み出しており、どのような人間であってもこの肉の塊を維持すること以外にさほどやることがないからなのである。

多くのロマンチシズムは肉の塊に対する醜い執着を覆い隠すのに充分な美辞麗句をならべたてるが、最終的に肉の塊を得られたとしても、その肉の塊を消費しても何も得ることができないという悲劇に達成するしかないのである。

人間たちがこの地上で互いに肉の塊を共喰いしないために、人類の歴史が続いてきた。まだそれも発展途上であるが、肉の塊から解放される日を目指すことこそが、最終的に孤独な砂漠にたどり着かないための安全策ではないだろうか。

思い違う人々

2012-01-05

こないだある人にあなたは人格者じゃないと言われた。そもそも人格者であることを目指したことはいままでほとんどない。

仏教に関わるのは個としてなのであって、チベット仏教を学ぶことで我々が知ることは、この狭い島国で痛みを慰め合って涙にむせんでいることの器の小ささであろう。

宗教に関わる人間はもちろんそれを通じてよりよい人間になるべく努める必要はある。しかし思い違いをしてはいけないのは、宗教はあくまでも「教え」なのであって肉体ではない。

その教えは、理想や最終的なゴールがどこかを示しているが、その理想やゴールを体現することを保証するものではない。その体現者はいることはいるが、凡人の生活を送っていてはそのようなことを実現することはできないし、聖人が市中にいて欲しいと思うのは単なる希望的な観測でしかないのではなからろうか。

それに関わればすぐによい人間になれるってことではない。むしろ自分自身がだめであると認識してこそよりよい人間になろうという決意がうまれる。他人を断罪しようとするものは、一歩たちどまり、まずは自省することからはじめてほしいものである。

触る音からはじまった

2011-12-22

触る音、飛来する音というのがある。それは風や光や電波である。

空気の振動によって発生する音波を10hzからどんどん周期を落としていくとそれは波形ではなく、単なる揺れになる。どんなに高価なスピーカーでも1hz以下の波形は再生できないし、30khz以上の高音を聴き取ることができる人はいない。聴覚をいくら研ぎ澄ましても電波を聴ける人はいないし、光線を聴ける人はいない。

物質の振動の周期が極めて遅い場合にはそれは揺れとか一つのイベントである。しかしそのひとつひとつのイベントの時間的感覚を縮めていくことで人はそれを連続する事象であると認識する。

連続する事象が特定の類似する反復パターンをもてば、そこに認識パターンの記憶を保持することから、意味を形成することができる。意味を形成する能力と用途を果たす能力と対象形成能力はダルマキールティの場合には同一視されることを考えると、複数性からイデアが生み出されるといえる。

チベット仏教で客体が「知の客体となり得るもの」と定義されているがこれはまさにこの人間の知的習性をよく観察したものであるといえる。

先ずは昔この辺りまで考えたことを思い出してこれをひとつの材料にしておく。

複雑な構造への憎悪を捨てる

2011-08-16

ものごとが複雑であるのがいやな人が多い。

何でも簡単に素早く済ませたいのが最近の流行である。複雑な哲学書を簡単な命題に置き換えたりするのが殆どの人は好きである。

もちろん棺桶に入る時に入れることができないものの方が多いので、
私たちが持っているもののその殆どが不必要なものである。

人間ひとりが生きることは簡単ではない。だからひとりの人間が持っている情報量は無限大くらいある。どんな大きなハードディスクにも収まりきれない大容量なのである。ウェブが今年で20年を迎えたそうだが、これで世の中が変わったなどと錯覚していては、気が狂っている。

世の中には我々の想像を遥かに超えている現象は沢山あるし、どうしても隣にじっと座れない人も沢山いる。文化のちがいやバックグラウンドの違いは致命的であるが、だからといってみんな同じだと気持ちが悪くて吐くだろう。

仏教徒は仏教のことだけ考えておけばよかったというのなら、誰も苦労したりしないだろう。そんなにものごとは単純ではないのである。

言語というものは多層構造をもっている。めんどくさいが、仕方ない。仏教的にいえば、これが行苦そのものなのである。

日本語に訳すために

2011-07-24

仏典のことばを日本語に訳すためには、日本語で仏の言葉を記述しなければならない。それらが果たして如何にあるべきなのか、ということはその言葉を発する者が人間としてこの世の中に如何に存在しようとしているのか、その姿勢やスタイルに依存している。

学者と呼ばれる多くの翻訳が不必要な記号でその正当性を主張せんかの如く装っているが、これはその人間のやる気のなさの表れである。何百年間もの間に多くの人間がそのことばを口に出してきたことを想像すらできない、いわばことばを使ったコミュニケーションをあきらめた廃人の落書きである。そのような状態に陥ってはいけない。我々が取扱っているものはそのような安っぽいものではない。

テキストを読むことや語学ができることなど大した問題ではない。しかしながら外国語の苦手な翻訳者がなんと多いことだろう。サンスクリット語やチベット語を取扱っている人間が、貫之やマラルメやランボーを読んだことすらないというのは致命傷なのである。

哲学書を翻訳している多くの人が、詩人になれという話ではないが、自分たちが才能に乏しい詩人になれない者であることを素直に認めた方がいいだろう。世の人々は魂のこもった愛の歌を聞きたいのであって、スポーツ新聞のゴシップ記事を読みたいわけではないのである。

ものごとが簡単に出来ないと、自閉症に陥ってしまう者が多くいる。しかし眼の前にあるその優雅で甘美な神や仏への愛を詠うことばたちに対する者は、その殻をぶち破らなければ生きていけないことを思い知るべきである。

絶望からはいあがり、ことばを日本語に訳してみよう。その日本語は間違いなくこの日本のことばなのである。それは我々落武者が振りかざす最後の剣のひとふりかもしれないが、野垂れ死するよりはましであることだけは確かであろう。

ダライ・ラマ法王と極東日本の仏教

2011-06-25

日本人にとって、仏教は遠い海の向うのインドの宗教である。その教えは模倣すべき見本であった漢人たちを魅了していたので、それが価値のあることは分かっていたが、一体どんな人がどのようなスタイルで実際にその宗教を担ってきたのかを実際に眼にしたことがなかった。島国に棲む臆病だがヒステリックな人々にとって、仏教がもたらした建築技術をはじめとする最先端の文化の魅力はその恐怖を覆い隠すだけの充分な代償であったからこそこの国には仏教というものが取り入れられることとなったのである。

十一世紀に朝鮮半島からやってきたユーラシア大陸の覇者であったモンゴル人たちの恐怖とスペインからやってきた宣教師たちは、この島国を混乱に陥れた。その結果、最終的には三百年もにわたる「鎖国」という選択へと陥れたのと同時に、中央アジアの仏教の潮流とは交流が断絶した。その後黒船とともにがやってきて、過去の価値観は完全に役にたたぬものとなったが、それでも西洋人にこの小さな島を奪われないように、西洋人のまねをして暮らすことを覚えた。もともとヒステリックであった日本人が生来もっていた「帝国主義」でアジアを支配する夢を描いたが、その夢はアメリカという巨大な国と二発の原子爆弾によって粉々に砕けちったのである。その後軍事力も何ももてない日本人たちは、「経済重視」というスローガンですべての問題を解決しようとしてきた。この国ではいつしか政治と宗教はタブーとなり、仏教界に生きる人たちにとっても業報輪廻は語るべきではない差別問題へとすり替えられてしまったのである。

ダライ・ラマ法王とチベットの仏教徒たちは、そんな日本に直接やってきた。日本人と顔もよく似た彼らは、国外に流浪の民となったにも関わらず、これまで日本では誰も触れることができなかった本格的なインドの大乗仏教の延長線にあるものをもっていた。当初チベットの仏教は「ラマ教」と蔑視され、対中関係のなかで微妙な問題を回避するために無視された。
 しかしながら、最近になってそんな簡単に無視するべきものでもないことに漸く気付き始めた。ダライ・ラマ法王が獅子座の上から人々に語りかける、人間であることの価値や宗教に対する真摯な態度、そして我々が過去には論理的に学ぶ術すらもたなかった四聖諦や空性に関する論理的な説明、芳醇でシステマティックな密教の修行法などがいま多くの日本人を魅了しはじめている。

長い間、本当のインド大乗仏教の伝統に触れたことがなかったこの日本でその教えがあらたな文化の創造へとつながるにはまだ時間がかかるだろう。ダライ・ラマ法王やチベット仏教徒たちがもたらすものは、インド仏教の延長線上にあるスタンダードな仏教の総合的な教義体系とそれを人生のさまざまな場面に活かすためのサンプルである。日本人にとっての仏教の歴史はいま確実に変わりつつあるものであり、長い仏教の受容史を考えれば、我々はいまその大きなターニングポイントを目撃しつつある。

歴史上はじめて来日したダライ・ラマ十四世法王が降らす仏法の雨は確実にこの狭い島国の大地を潤し、新たな発芽を迎えつつある。今後それが成長し、どのような花を咲かせるのかは分からないが、その花が美しくかけがえのないものとなることだけは確実ではないかと思われてならない。

仏教の研究をするために

2011-05-18

仏教の研究をするということは、読み下すのならばブッダの教えを研ぎすました感性で究明しようとすることである。それは決して「仏教」というジャンル分けをされたものを対象として、そのものを客観的に社会に提示するためにその芳醇な要素を篩にかけて、捨ててしまうことではない。

しかしながら、最初に「研究」をしようと思ったころや、それに対する研究に必要最低限なスキルを身につけるための努力をしているうちにそういうことを忘れてしまう人が多い。

仏教の研究者になろうと思ったころには、サンスクリット語、チベット語、漢文、パーリ語などなど学ばなければいけないものが多い。それらの語学を学ぶうえでは、語学能力の向上のためにそれらの言葉を使っている人たちのことをもっと知らなければならない。何故ならば、その言葉がどのような意味であるのか、ということは、あくまでもその言葉を発する人に対する思いやりというか、想像力から理解されるものであるからである。

たとえば現代の仏教学では仏教論理学というものが非常に注目されてきた。これは仏教にまつわる文化の担い手たちが宗教やブッダの教えというこの巨大な象をどのようにあつかっていいのか分からないという不安を代償としたものである場合が多かったと思う。モダニズムではなくて古典主義になった人々は、たとえば新しい写本の発見といった、古い実在的な価値観から解放されることなく、むしろ崩壊したモダニズムのなかで少ない実在的な価値に命をかけてきたといってよいだろう。しかし、この世を見てみよう、骨抜きになった魚のように、教えの輝きを失った仏教学は、人々の心を揺さぶることができないまま、社会はもっと悪くなっているのである。

我々はほんの少しの周りの人と同時代の人たちのために生きている。それらの人たちのなかで一体自分というものがどのような位置に立つべきなのであり、どのようにこの「私」という記号を人々のなかで面白い存在にするべきなのか、ということは誰しもが考えなければいけないことである。しかし、そのような事実を直視することの恐怖に脅えている。

ある人がお前は論文を沢山書いてないなといったことがある。つまらない論文を沢山書くくらいならば『中論』のようなものを書きたいとこれらの人は思ったことはないのだろうか。決して多くを語ることが重要ではないはずである。適材適所に言葉をちりばめて、その仕掛けを人々がどのように楽しんでくれるのかとういことを考えるのは、小さな楽しみであるはずである。それらのことを日常の雑事に追われて忘れてしまっていることが多い。

我々は毎日問いかけなければならない。ブッダはいまもここにいて何を我々に教えているのか。彼らの言葉をまず性格に理解することをはじめ、そしてその教えを感受することから仏教の研究ははじまる。

ものつくりとものがたり

2011-05-13

いろいろなものがある。

それらには作り手の生きる意志が宿されたものもあるが、そうでないものも沢山ある。作り手の意志がそこに宿っている場合には、もはやその作り手がいなくなっても大丈夫である。それらはものとして永遠に何かを語りかけている。

言語に頼ることなく、その語りかけるものをつくりたいと思ってきたが、日々の雑事に追われてものをつくるということ、あるものを生み出すということが容易ではないことを時々忘れている。ただものをつくり出すことと排泄することとは違う。ものを受け取るということとそれを消費することとは異なっている。

むかしある武士がいた。

彼と私はひょんなことで出会ったが、彼は生涯武士であった。彼はさまざまなものに名前をつけたし、さまざまなものを愛でることを知っていた。しかし彼はものをつくることはできなかった。そこで若く生意気な私は彼に落武者の雅を感じ、見限ることとなった。

いま思えば彼はものをつくりたいというその欲望を実現できる立場ではなかった。それが武士であることの限界なのではなかったろうか。家というものに住み、彼には責任があった。ものをつくるためにすべてを投げ出してしまうことだけは彼にはできなかったのだろう。

彼に私は自分の行く末をみるような気がして、そのうち彼とは別の、ほんとうにものをつくり出す人のもとへと去ってしまうこととなった。そしてその行為そのものが私が何らかの変化を遂げたいという意志そのものであったような気がする。

それから大分年月が経ってしまった。逃げるようにして去っていった私は彼の死に立ち会うことなく、そして彼との別れをすることなく、彼は去って行った。彼に再び会いたいと思ったことは何度かあるが、少なくとも自分自身が作り手のひとりになるまでは、彼には会えないのではないかという気がしていたことも確かである。

彼に再び会うことができる日はついに来ないまま、終わってしまった。それはまだ自分が充分に彼が愛でるような対象を生み出せなかったことの証拠であろう。

ものがたりをつくることは容易ではない。それを彼がいまも静かに私に教えてくれている。彼があの冬の寒い日に私にくれたあの大地が震えた一瞬を私は忘れない。彼を弔うためには、再びそれを生み出すために真剣に取組む必要がある。

Project Management Memo

2011-02-28
  • 定期的にプロジェクトを見直す。
  • その際にネガティブリストを作成する。
  • ネガティブリストを網羅的に克服する。
  • ユーザエクスペリエンスのサンプリングをする。
  • キャッシュフローを見直す
  • タイムラインの再構築

文字が詠う

2011-01-20

文字が詠うというのはこういうことか。これが日本語なんだね。こういう文字を見ると日本語やはり変体仮名を捨てたのは最悪の文化の後退であったと思う。やはり手習いのはじめから仮名というものをこのように書くように学ぶべきだと思うこのごろである。

書物の海

2011-01-18

書物の海に囲まれて過ごしていくというライフスタイルを望んでいたけれども、ある時から特定の分野の書物を収集した。特にチベット語の原書を多く集めることに莫大な金額を費やしたが、いまふと思うにこれらの書物は一体だれが読むために入手されたものなのか、分からなくなってきた。ここにある書物の海は、明らかに持ち主である私が死ぬまでに読み切れない量があり、バランスを考えると、キャパシティーをオーバーしているわけだ。そもそも、多くの書物を整理するだけで何日もかかるようでは、これはまずいんじゃないかとふと思うものである。

仏教学の研究者というものは、文献学をベースに行うことが暗黙の了解となっているが、それはあくまでも書物に書かれたことばしか手がかりがないということに過ぎない。いちおう過去(つまり今より前)に文字にされたものをすべて網羅的に調査した上で、過去になかった何らかの新しい見方なり分析というものを客観的に提示するのが研究者の役割であると思ってきたが、そこには同時代にことばにならないで消えて行った人の痕跡というものを、見えないものであるかのごとく扱う乱暴さがある。このことにふと気付いた。

人間としてはことばや文字になっていないものを想像力によって補完し、そこに生きてきた様々な思い、そして意志、そういったものへ追想を巡らせることができるということは自明のことであるが、同時にすべての情報をきりなく追い求めることができないというジレンマもある。

神はその自らの姿に似せて人間をつくったというが、同時に人間は自らの姿に似た外部の構造物を時には神として建築してきたのである。そのすべてが必ずしも文字に残されなければならなかったわけではない。誰しもが生きている痕跡を残さなければいけないという原則は全くない。

行間や文字の間の意味を読み込もうとする意志も重要であったが、書物と書物のあいだにある無言のことばたちのことを忘れるべきではなかったし、そしてその書物が書かれた紙をつくった人間、文字を書いたペンなどのことも忘れるべきではない。

新しく美しいメディアに

2011-01-07

電子ブックの開発に取り憑かれている。未だにこのメディアで何らかの新しい世界への招待状を外部に送ることができないが、少しずつやりたいことが具体的に見えてきた。今年はまた新たなはじまりの年にしたい。

やりたいこと、読みたいもの、聞きたい音、それらは最初からある程度決まっているが、ようやくそれらにふさわしいリアリゼーションの方法がいくつか分かってきた。

私は権威主義者を憎みほんとうの人間のことばを聴きたかった。だからこういうメディアを学術書の発表の場にのみしてやろうという気は毛頭ない。もちろん学術書や研究論文というものはすべて紙ではないものになるべきであると思う。

このメディアはWebと同じことができるが、Webとの違い、それは見るもの、そして読むものがフォーカスされていることであろう。それは人の手仕事のようなサイズであり、これらの小さなデバイスのなかに入り込んで我々はことばを新たにこれまでとは別のありようで咀嚼できるのである。

これまでのようにインク臭い大きなスペースは不要である。図書館の書庫の中で巨大な情報量に自分の小ささやくだらなさを隠蔽する必要はない。もはや雑沓のなかで大きな声で叫ぶ必要はない。それはまるで手で一文字ずつ書かれた恋人に向けた恋文のようにプライベートなものなのである。

空虚なことばで塗り固められたサイトの嵐のなかで、ゆさぶられながら存在することは必要はなくなるだろう。自らのものに対する愛着が原因で収集された書物を整理するために書棚を買ったりしなくていいのは絶対的にいいことである。何故ならばたとえ明日死ぬことがあっても残された人が大量に資源ゴミとして美しいことばや思索に息をふきかけるものを名残惜しみながら捨てなくていいからである。

人間には持って歩けないものも必要であるが持って歩けるものはほんの少ししかない。そんな限られた人生にふさわしいメディアが電子ブックであると思う。

屍たちの大地の上に集う人々に

2010-09-22

以前こんなことを広島国際平和会議2006の議事録をまとめた時に書いた。

私たちは毎日この「広島」で、跡形もなく消去った屍たちの大地を踏みしめて歩いている。いまもなおリアルタイムに、山の彼方、海の彼方では、言葉すら発すことができないまま、人々が死につづけている。この現実を直視し、彼らの無言の声に耳を澄ますこと、そこから変化ははじまる。そしてこの本はそんな変化を待ち望みながらこの世を去っていたすべての無名な人々のために捧げたい。

今年もまた広島でダライ・ラマ法王たちが集結したノーベル平和賞受賞者のサミットが行われる。来るメンバーが既に会議の事務局から発表されている。http://www.nobelforpeace-summits.org/wp-content/uploads/2010/09/Draft-Program-15sett..pdf

今回広島に集まる蒼々たるメンバーもしくは団体が広島から発するメッセージは貴重なものであり、核廃絶を通じて平和貢献しようという意図にみちたものである。

ノーベル平和賞の受賞者が彼らが何をどう発言するのか。それは傾聴に値する。そして今回はどのようなメッセージがでてくるのか、興味深い。

以前彼らが発した宣言文は以下のリンクにある。

http://www.hiroshimasummit.jp/

人間が生命の尊さに直面する時、必然的に瑣事を捨てなければならない。生命の尊さを政治利用するべきではない。人が生きているということ、そして何か巨大なものの犠牲になって不本意にその命を落とすこと、そういうことを簡単に捉えるべきではないのである。大切なことは「広島」「ヒロシマ」という場所なのではない。観光キャンペーンではないのである。だからほんとうに大切なのは「ノーベル平和賞」 でもないとういうことを断っておきたい。

本当はそんなことはどうでもいい。実際にいま死にかけている人がいて、銃をもって殺し合わななければならない子供たちすらいるということだ。核廃絶ができても人々の心が変わらなければ平和な社会にはならないのである。

明日をも知れぬ我々の持ち時間は非常に短い。人生のなかでできることはほんの少しのことしかない。この屍たちの大地に集うすべての人がこの思いを再度思い起こして欲しい。いま人間としてここにある無名の人々の無言の声に耳を澄ますことができるだろうか。

封印された死の秘密

2010-08-18

世界中が死を封印していることについて、ここにメモを残しておこう。

そもそも現代社会において死は封印されている。
何故その秘密は知られないし、封印されたのか、それを考えてみよう。

それはすべての人にとって未体験で初体験のこと。
誰もいままで死んだことがないし、これから死ぬこともまだ未経験である。
臨死体験に関して本などが出ているが、これらをすべて信憑性が乏しいと思っているのが普通だ。
なぜならそれを語っている人がいまも生きてるからである。

つまり「死人に口なし」だと誰しもが思っているのだ。

一方では「死を語るべからず」という風潮がある。
これはいまにはじまったことではない。孔子の時代からあるのだ。

この考え方の背景には、「死は時の終わりである」「終わりは避けられない」「終わりよりいまが大事」という考えがある。「生きていること自体意味深い」「いのちがすべて」「現実は美しい」という楽観主義が蔓延している。

死=消滅=無に帰す=あの世の人、つまり我々には関係ないので、「死を語ることは縁起が悪い」「いま語らなくてもいいんじゃない」ってことだ。しかしこれにも私たちは容易にだまされない。

「それでもあなたは秘密を知りたいのならばどうぞ」

globalisation/localization

2010-05-30

グローバリゼーションの手法

  • globalisationのためにはlocalizationが必要
  • 意味の普遍化を行う時に、総体の普遍化が行われる
  • 総体の普遍化は切り抜きによって実現する
  • 配置された個は意図的に配置され、その行為の作者と意図が存在する
  • 意味をもたないグリッドによって、偶発的に分配され、母集団が形成される
  • 意味をもとない分割原理が、意味があるかの如く装う
  • 劇場的タイムラインで旋律化し意志を表現する
  • 劇場的タイムラインで旋律化し意志を表現する

強調の手法(Design of Bold Typeface)

  • 通常値を設定して、増殖分を設定する。
  • 増殖分によって加算された部分を単純化
  • 受け手のキャパシティとの調整を行う
  • その時点で、純粋に強調されたものではないが、強調されているかのように対照的に配置
  • 強調部分が、通常部分との総体的なバランスを保てるようにする。
  • 二つの要素が一つの総体として錯覚可能な状態なのか検証する

商品化可能な記号と商品化不可能な人間

2010-05-30

このところのTwitterやBlogのブームは、溺れそうな個人が商品化可能な個人になりすまそうとする傾向が感じられて、これは非常にまずい事態である。

デジタルな世界に商品化された記号は、流通可能な状態のように見えるが、そこには商品化不可能な人間が背後にあり、リアルな世界での均衡を失いつつある。この流れが進むと記号化できていない状態で絶妙なバランスを保っている人間の能力が過小評価される危険性がある。 (続きを読む…)

入力されたことば

2010-05-22

大量に氾濫することば。重みのないことば。
これがネットの世界であったはずだ。
それは数時間で捨てられてしまう新聞記事よりも軽い。

そんなあたり前の前提を忘れた人がいる。
何も期待しないでほしい。残念ながらここに何もヒントはない。
ただ単に空虚なことばが羅列されているだけである。
何か浅薄な知識や情報を伝染病のように流行させたいというものではない。

最近、人々は想像力を失った。ほんとは簡単なことである。
毎日沢山言葉を発している人は、ひとつの言葉にかける力の比重が軽くなる。
ときどきしか語らない人は、自然とその言葉を選ぶようになる。

真実を追求したいと希うのならば、大量のことばを入力することをまずやめてみよう。
たくさんぐだぐだいっても、人間の記憶力ってのはそんなにすぐれたものではないし、
そんなにぐだぐだといっている人のことばに耳を傾けるものなどいない。

人生を変えるようなことばはほんの小さな塊である。
人が幸福を感じるのは、ほんのわずかなカタリスティックな時にある。
恋人のほんの小さな仕草を耽溺するのが人間のもつエロスである。

何かを伝えようとする、という大それたことを考えるのをやめて、
ひとつの行為の網羅的な記録であるのが、WEBLOGである。
そこには要らない情報もあるし、要る情報もある。
書き手も勝手なことを書くわけなので、読み手も勝手に読めばいい。

過度に人に期待するのをやめるべきだ。残念だが自分で思っているほど、
人はそれほど他人に興味をもっていないし、そんな余裕もない人ばかり。

自分でやらなくても代替できるものが実は沢山ある。
会社や学校や社会は代替できなくてはならない観念的なものである。
しかしこの眼の前の空間に存在して生きることは代替できない瞬間の反復にある。
ここに書かれていることばは単なるマテリアルにすぎない。

言葉を物質化するよりも、記号として検索可能な状態で保持する方が、
記号としての言葉の本来の性質に沿っていると思う。
ただ誤解すべきではない。ことばを書いて死を乗り越えることなんてできない。
ただことばが検索可能な状態でログ化されている場合、
再び井戸を掘ろうとする人間にとって、
これほど面白く楽しいものはない。

事例は検索可能な状態でなければならない。
検索可能な記録のために今日もまた空虚なメモをここに書き残している。
もしこの空虚な言葉の文字列に意見があるのならば、
まずはこの閉ざされた画面のなかにコメントが書ける。

書き手という人間にコメントを書いてどうするのか。
言いたいことがある人はまずはその文字列があるところにコメントを書くべきだ。

2ヶ月も前にもどってしまった

2010-05-02

別に大したことを書いた記憶もないが、2ヶ月も前にブログがもどってしまった。

書くべきことがあったのでブログを復活

2010-02-09

書くべきことがあったのでブログを復活しました。
それにしても日本の報道ってヒステリックで国際感覚がなくて困る。
中国を馬鹿にしている人も多いけど、やつらはやはりストラテジックだ。

中央統一戦線工作部のサイトなど読んでいると日本は負けてるなって思ってしまう。

とりあえずもうすぐロサル。今年こそチベットにとってよい年になりますように。

チベット側と中国側の第9回目の対話が再開する

2010-01-26

ブログをやめていたが、明日よりチベット側と中国統一戦線部との対話が再開するようなので、このブログも必要なことだけ書くことにした。

http://www.dalailama.com/news/post/484-press-statement

国際問題としてチベット問題をとらえるという考え方があるが、それは実は妥当ではない。 (続きを読む…)

Stockhausen: Kontakte

2010-01-18

Duchamp & Cage

2010-01-18

仏教はネガテイブ思考

2009-12-24

先日初対面の人に「何故そんなにネガティブ思考なのか」と言われてかなり落ち込んだ。しかし、そもそもネガティブ思考なのを変えるべきかどうか考えれば考えるほど、それが不可能に近いということしか思いつかない。

そもそも仏教を考えてみよう「常楽我浄」これは仏教とは逆のものであり、「苦・不浄・無我・無常」これは仏教の教えである。ダライ・ラマが仏教における基本教理の一番最初は「これは苦しみである」という苦諦であり、苦諦のうち苦苦・壊苦・行苦のうちの行苦を考えてはじめて仏教徒であるとおっしゃっている。これは通常苦痛であると思っていることや快楽であると思っていることはすべて苦しみに他ならないというだけではなく、通常苦痛や快楽であるとも感じていないものであっても、それは苦しみを本質としていると知りなさいということである。

すべてをまずは疑ってかかれ。これが研究者や客観的な事実や論理を重視する人間の姿勢である。

私が最初に書いた論文は「否定」とは何かということである。つまり“the negative”という事象を扱ったものである。そして私の研究テーマは「ツォンカパの空思想」である。つまりこれもまた絶対否定の世界である。さらに言えば、般若経には否定辞「a」だけしかない一字般若経というのがある。

仏教をメランコリックな教えであると評したニーチェはニヒリズムであると言われるが、実は極めて人間的であり、ニヒリズムと無の思想とは実は全く異なっている。そしてそもそもポジティブ思考には限界がある。すくなくともロマンチシズムの行く末が狂気か神秘主義しかないは、既にヨーロッパでは立証されていたのではなかっただろうか。

生のダイナミズムを説くのもいいが、事実を隠蔽する楽観主義はどうかと思う。
残念ながら人は独りで死ななければならないし、すべてを置きさって次に行かなければいけない。そもそもじとじとした濡れたあはれなネガティブ文化こそ美しき日本文化である。うつくしさ、そしてかなしさ、慈悲は相通ずるメランコリックな世界である。

思ひわびさても命はあるものを
憂きに堪へぬは涙なりけり(道因法師/千載集)

「慈悲」を「思いやり」としてしか理解できない人にはこういうことは通じないのかも知れない。しかし慈悲とは悲しくて悲しくてやりきれない気持ちなのである。だからこそ「常に泣いている菩薩」(常啼菩薩)というのがいるくらいなのだ。

もうすこしやわらかくしても、多分ポジティブな人にはこういう歌に心を揺さぶられることはないんだろう。

http://www.youtube.com/watch?v=BXWk-j5Htos

宗教は人の弱みにつけこんでいるのか

2009-12-23

「宗教や麻薬は人の弱みにつけ込んでいる」という発想がある。人は死ぬし、どうしようもならない苦しみが沢山ある。そしてそこから立ち上がるためにどうするのかを説くのが宗教である。宗教は人々に救いを提供するのである。

同じようなことをやっているのは医療である。怪我をしたり病気になったりすると病院に行く。病院では高額な医療費をまかなうために保険制度がある。この日本ではどんな人も病院にいって無料で治療を受けないと怒るということはないのである。ヤブ医者か名医か、そして名医のなかでも名医と言われるお医者さんかどうか、ということは患者にとって極めて重要なことである。だがよく考えてみればこれも弱みにつけ込んだ商売である。ガン患者などはものすごい大量にいるために国立のがんセンターまであるくらいである。また予防医学の分野、また健康づくりの分野は国家の公共福祉政策のひとつとしてきちんと裏付けられている。

しかしながら、宗教の場合には、これとは異なっている。宗教法人法によって多少守られているが、この日本では宗教はかなり嫌縁されてきている。新興宗教のようなヤブ医者もいるが、本当に仏教の教義をよく身をもって理解している僧侶たちであっても、社会的な立場は医者よりはるかに低い。若い研修医のくらいのヤブ医者でもベンツにのってもだれも怒らないが、日本で僧侶がベンツにのっていると印象が悪いのである。

この構造はどうして起こっているのかというとかんたんである。現代の日本ではものすごいいきおいで宗教を排除しようとしているからである。では宗教は文化という隠れ蓑で生きていくべきなのかどうかといえば、これはそもそも文化というものを理解していない人の言葉である。何故ならば、文化のひとつに宗教があるからである。宗教は文化の下位概念なのであって、文化と異なるものではない。しかしながら、日本ではこれはあくまでも異なるもののように扱うべきことになっているのである。

そんなことをやっている日本では自殺者も多い。これは当然の結果であろう。智慧がないので行き詰まるのである。もうすこし古くから宗教を見直した方がいい時期にきているのではないだろうか。

空/実体/真実

2009-12-16

ことばの定義をしない議論は不毛である。

世界中のさまざまな哲学的議論のなかで、議論を尽くすために巧妙に構成された定義集よりなるチベット仏教の世界は、叙情的なことばづかいの世界からは全く離れたものである。

空とは「実体がない」ことであるとか、「実体的な存在がない」ことであると書かれているものを見るとこれはどうかなと思う。何故ならば、空であるということは、まず最初に「あるもの(X)が何らかのもの(Y)を欠いている」時には、XはYについて空である、といわれるのであり、まずそこに留まって何らかの意味付けをする前にこのことを考えるべきであるからである。

空と実体と真実についてはツォンカパの『善説心髄』に詳しく議論されているが、あまりにも難解な議論がつづくためには、それを整理して理解している人が少ない。

簡単にメモっておけば要するにこういうことである。

  • 実体有/仮説有:時間軸に継続して連続するのかどうかを論じる場合
  • 真実/虚偽:ある知に対する表象者とその知が向かっている場にある実在者とが一致するかどうかを論じる場合
  • 空:ある場所にあるものが有るのか無いのかを論じる場合

空は仏教で最も重要な教義である。その割には通り過ぎる人が多い。それは何故かというとことばの定義なしに議論が多くなされているからであろう。

ツォンカパの空思想について長年考えてきてわかったことは、これは究極的には煩悩論であり、思想の均質化・自動化ということを彼はやっているのではないかということだ。これは私は本を読んで考えたのではなく、その本を伝える人の雰囲気から感じてきたことである。一応それを様々な角度から論文に書いてきたつもりだ。私の印象では、ツォンカパというこの巨人はそれまでのいろいろな解釈の問題に終止符をうつという作業をしただと思う。ケードゥプジェはその終止符をさらに強烈な刻印として残す作業を行ったのではないだろうか。彼らの述べていることは、哲学的なものであるが、実はそんなダイナミックな魅力がある。

そんな魅力を教えてくれたのは、チベット人の先生たちである。彼らはその生きたことばを自らの生きたことばとして伝えている。そこが魅力である。彼らの講義には無常の風が吹いたり、空の風が吹いたりする。

そんな魅力を何とか表現したいと思って、いままで少ないけれども論文で書いてみたのだが、しかしほとんどの人が私の書いた論文を読んでくれないようである。私の知り合いや友人で私の論文の感想を言ってくれる人もいない。何とも寂しいものである。自分なりにすこし冒険した部分などは、「あなたのこれはちょっとだめですよね」とか言ってくれる人がいるといいのにと思う。

研究者としての私は科学の進歩というこのモダニズムの夢を見続け、論文の数を増やすために論文を書こうと思ったことは一度もなかった。しかしそれはこの吐き捨てられたメモの集積のように無責任な単なる自己満足にすぎないのかも知れない。

いままでいつも常に新しい発見と新しい視点だけを提示してこようと努力してきたつもりである。しかし最近分かったことは、言葉少なくいくよりも、くどくどと同じことを繰り返し述べる方が人には通じるということだ。

とはいえ、これからそれを反省してくどい人間になるかどうかといえば、それもどうかなと思う。それはすこし雅ではないではないか。いまだに私は短い言葉が好きである。やはり日本人だとつくづく思う。

記事を消しました

2009-11-16

いままでこのブログでは殆ど記事を消したことがないのだが、お世話になっている人から戦略上やっぱりいろいろ内部事情を明かさない方がいいでしょうということで記事をひとつ消しました。

ということで、また意味不明なブログに戻りますが、本当はこれは単なるメモを残しておこうというもので、元のメモ的なものにもどることにします。

いま注目しているものは、Ruby on Railsです。

http://rubyonrails.org/

これはすごいね。

無銭乗車客チベット語、Snow Leopard列車で再出発

2009-08-25

漸く本日MacOS X Snow Leopard が28日より発売されることが発表となった。http://www.apple.com/jp/macosx/

MacOS X Snow Leopardは現行のLeopardの大幅なチューンアップを加え、昨年よりデベロッパに配布され数多くのベータテストを経て、ようやく出航となった。特に今回の注目すべき点は、64BITへのコードの書き直しや、古いAPIからの新しいフレームワークへの完全な移行など、見た目は殆ど一緒であるが、内部的には大幅なチューンアップが加えられた。これまで新しいビルドがでるたびに自分のマシンにインストールし、思いっきりバグが沢山あるなかでテストしてきた者としては、誠に感慨ぶかい。

我々チベット語環境の開発チームでも、前回のLeopardの発表の時のような「世界初」「日本初」というような衝撃的な出来事ではないが、iPhoneの発売で遅れたLeopardのチベット語システムフォントにバグがあったことに気づいた時から、いつバグフィックスがソフトウェアアップデートで反映されるのかと待ち望んできたのだが、漸くその時がやってきた。チベット語を使っている人は必ずSnow Leopardにアップデートして欲しい。何故ならばLeopardのKailasaには致命的なバグがあったからである。

詳しくは機密保持の問題があるので、ここではかけないがひとつだけ書いておきたいことがある。

それはまずはMacOS Xで使用されているApple Advanced Typographyの仕様を使ってレンダリングを行っているチベット語は、ウィンドウズのOpenTypeのその機能よりもはるかにスピードがはやく、また非常に高機能であるということである。いまだそんなフォントを開発する人はいないが、たとえば日本語の続け文字や変体仮名などのフォントだって本当は開発できるのである。

その技術はこのzapfinoフォントを見れば一目瞭然であるが、たとえばKokonorでསོ་སོའི་སྐྱེས་བུ་と入力したり、བློའི་ཡུལ་དུ་བྱར་རུང་བ་とかརྒྱ་མཚོའི་ཆུ་と入力した時の母音のナローの動きを観てもらえばその秘密をかいま見ることができるのである。Kailasaは元々のデザインは福田先生のものであるので、そのようなわざとらしい動きは見た目には気づかないようにできているが、Kokonorについてはその動きを味わっていただき「おお」と思ってもらえば開発者の狙うところなのである。

Leopard以降にバンドルされているKokonorは昔Tibetan Language KitとしてMac OS System 7.5に対応する時にデザインしたタイプフェイス(実はチベット語をはじめて勉強しながらこのフォントを作ったのが最初である)であるが、内部コードとしては全く別物である。そしてSnow Leopard では完全にバグ部分が修正してあるので、とても安心である。チベット語がMacに実装されるようになった経緯はそのうちゆっくり明かしたいが、なぜLeopard以降、今日までほんの少しのバグでさえソフトウェアアップデートに乗らなかったのか、その理由をちょっとだけ明かしておきたい。

Appleにとってみれば、チベット語のフォントやキーボードというのは、電車にただで乗ろうとする厄介な客のようなものである。これはどういうことかといえば、チベット語が実装されているということがMacという高級で高価なコンピュータを買おうとすることに何ら役にたたないということである。オペレーティングシステムには他のいろいろな機能を載せることが大事であり、アップルのようにハードとOSとが一体化したコンピュータを販売しているメーカーにとってみれば、その他の機能こそが、切符を買って電車に乗っているお客様なのである。なので様々な問題が発生すればあなたはただ乗りしているのですぐにおりてください、とも言われかねない状況なのである。だから我々はまだお客が少ないうちからこっそりと、ここに乗りますね、と小さな声でOSの片隅に乗っかるしかないわけである。ソフトウェアアップデートというのは途中で停車する駅のようなものであり、その駅で優先的に乗り降りする人(つまりアップデートされるソフトウェア)はあくまでも切符をちゃんと買った乗客なのである。だから我々のようなチベット語は、その時には乗り降りできない(アップデートされない)場合が多いということになるのである。

Leopardの時にはちょっと忘れ物を取りに行っている隙に列車は出発してしまったので、乗り遅れてしまったが、Snow Leopardにはちゃんと忘れ物を取りに行った上で、この無銭乗車の乗客を出発させることができた。また、64BIT化、ATSUIからCoreTextへの移行が進むことはチベット語にとって有利な条件だらけである。PhotoshopなどはいまだにCocoa Applicationのフレームワークをかなり逸脱しているが、もっとサクサク動くアプリもどんどんでている。

Leopard号に乗ったチベット語は、すべてのマックでチベットのニュースを閲覧することを可能にした。期をせずして2008年3月のラサでの弾圧以来、ものすごい量のユニコードチベット語テキストがネットにあふれかえってきた。

http://googleblog.blogspot.com/2008/05/moving-to-unicode-51.html

Leopard号に乗らなかったら、この数年間マックでは中国がブロックするようなチベット語ニュースをチェックできなかっただろう。自分のやった仕事が世に役に立っていると思えるとても幸せな瞬間である。

Snow Leopard号に乗ったチベット語は、また新しい土地に連れて行ってくれる。そしてこの瞬間から一刻もはやく次の列車にはやく乗るための追い込みに入らなければいけない。明日からはちょっとスピードアップして、あのやさしいこっそり乗せてくれる車掌さんたちのために、なるべくかけこみ乗車をするべく頑張りたいと思うのが、今日のSnow Leopardの発売ニュースである。

強盗や犯罪

2009-04-06

今日近所の郵便局に強盗が入ったようだ。パトカーがしきりに行ったり来たりして、結局強盗は捕まったようだが、現金の全額を持っていたのではないとのことである。

もちろん強盗はよくないことであるが、これが政府レベルでの強奪事件などがあった場合には、その上部組織である国連は関与しないで、国内問題として処理されるのが原則である。もちろん最近は国際法を定めようという動きも有るが、まだまだそれはうまく行きそうにない。

チベット問題を議論するときに、正義や事実関係についての議論となるが、日本人は以外と正義や事実というものを重要視していない人が多い。

これは相対的価値と絶対的価値観との区別ができないことによっている。相対的な価値観というものは、時代や状況によって左右されるものであるが、絶対的な価値観はそうではない。たとえば殺生は不善であるというのは仏教においては絶対的価値観であるが、意外と守られていないことも多い。

グローバルな社会においては相対的な価値観が重要であることは確かであるけれども、絶対的な価値観を失っては、人間は生きて行けない。チベット問題が相対的な価値観のなかで議論される場合には、これは永遠に解決できない問題になってしまう。

日本においてチベット問題が最近以前よりは注目されるようになったが、これは正義についての関心が強くなったからではなく、単に近年、日中関係があまり芳しい状態ではなかったことに由来している。

チベットで行われたのは、間違いなく、文明の暴力による破壊活動であり、これはチベットや中国だけの問題ではないのである。チベットにしか残っていなかった文化遺産はことごとく破壊されてしまったが、もしそれが現在昔の状態で残っていたらどうだっただろうか、と想像できる人は、よほどチベットの文化に詳しい人でなければ無理であろう。

日本のような法治国家においては、強盗や犯罪は取り締まることができるが、国際社会においてはそうではない。国境はいらないと考える人もいるけれども、国境が大事な人もいるのである。

そんなことを思う一日であった。