四聖諦

今日はケンスル・リンポチェによる説法会があり、『道次第広論』のなかから四聖諦の箇所が説かれた。

四聖諦はよく「四つの聖なる真実」 Four Noble Truthと訳されているが、これはチベット仏教の伝統的な解釈からすつと誤りであるということが意外にも分かった。

四聖諦とは、現代語風に訳すのならば「四つの聖者にとっての真実」とでも訳す必要があるのではないかと思われる。というのも、たとえばクンケン・ジャムヤンシェーパの『波羅蜜多研究』によれば、四聖諦は何故四聖諦とよぶかということの説明として、それらが聖者の知が見ている通りに存在しているのであり、凡夫の知にとってはそうではないから、と述べられている。

そもそもツォンカパなどの思想に基づくのならば、見えている世界と実際に存在しているものとが一致している場合には、「真実」であり、見えている世界と実際に存在しているものとが一致していない場合には、「虚偽」であると言われる。つまり知に現れている対象の様相とその対象の実質的な様相との一致・不一致により真実なのか虚偽なのかということが分類されているのである。

もしも「聖なる真実」と訳すのならば、どのような間違いになるのか。それは「聖なる」という限定語によって引き起こされるふたつの概念、つまり「聖なる真実」と「聖なる」ものではない、「俗なる真実」とのふたつになってしまうのである。このようなものは知そのものの担い手が聖者か世俗のものかによって分類される「勝義諦」「世俗諦」の二つの真実、いわゆる「二諦説」となってしまうのである。そこでさらには、四聖諦のうち滅諦以外は世俗諦に属するものであるからこそ、苦諦・集諦・道諦の三つは「聖なる真実」ではなくなってしまうのであり、その場合には、四聖諦のうちの三つは聖諦ではなくなってしまい、「これは集である、それが聖諦である」という経典の文章と矛盾してしまうことになるのである。

仏教はもともとインドを経て日本には漢字文化圏を通じて伝わった。漢字文化圏には漢文の仏教用語がある程度整備されている。近代になって日本では西洋流の仏教用語、つまりヨーロッパ語の仏教用語を日本語に直訳したものがでまわるようになってきた。しかし我々本来のことばを捨てて、仏教の理解について何ら伝統もないヨーロッパの伝統を無批判に受入れてしまった弊害がこの「四つの聖なる真実」という訳語に反映されていると思われる。

2005-06-10