「伝統」は生きている。

 数年前になるが、インドの亡命チベット人居留区にある、チベット仏教の総本山のひとつデプン・ゴマン学堂の新本堂落慶を記念して、ダライ・ラマ法王によるナーガールジュナ『中論』およびツォンカパの『中論註正理海』の講伝が行われた。日本でデプン・ゴマン学堂の事務局を引き受けている私も、日本人グループのツアー通訳として参加した。

十日間もおよぶこの講伝会は、午前の部は八時から十一時まで、午後の部は一時から四時ころまでぶっつづけで行われたが、ほぼ一週間以上毎日朝から晩まで『中論』とその註釈を読誦し続けた。一万人以上もの亡命チベット人僧侶たちだけでなく、数百人もの在家の信者たちも教えの伝統を授かるためにじっとだまってダライ・ラマの読誦に耳を傾け続けていた。

 この時の説法会は、所謂「ルンの伝授」と呼ばれるもので、ダライ・ラマ法王がもっているナーガールジュナからいままで師資相承と読んで聞かせられたテキストの血脈を弟子に授けるもので、ほとんど解説もなく、毎日毎日ひたすら『中論』とその註釈が音読されるだけに過ぎない。ただそれだけである。

もちろん『中論』やその注釈書はふだんから読まれるテキストであるが、半数以上の僧侶たちは「難しくてよくわからない」レベルであり、在家のひとたちにいたっては「全く理解できない」レベルである。しかし内容が難しくて分からない人たち『中論』がいかに仏教において大切なテキストであるかは知っているし、その口伝を伝授してもらうことで、「未来において中観思想や空性を理解しようとする時のよき習気となる」ということを知っている。

彼らはたとえすべては理解できなくても分からなくとも毎日毎日、ただただダライ・ラマが読むテキストをじっと聴聞し続けていた。ただそれだけである。

それに対して私と一緒に行った日本人グループのメンバーたちは二日目から周辺観光に繰り出した。「ありがたいのはよく分かるが、聞いてもよく分からないので遠慮します」とみんな口にした。

私は二日目からチベット語からの同時通訳(実は説明があるわけではないので、テキストの同時翻訳であった)という大変な仕事をしなくてよくなったので好都合であったが、最終日までじっと聞き続けるチベット人の姿をみてチベット仏教の生きた伝統の重みを改めて感じざるを得なかった。

彼らは半数以上は内容は難しくてわからない。
ただこういう説法を聞けるというご縁を大切にしているのである。

伝統が生きているということはこういうことなのではないだろうか。最近日本では読経がながいと檀家さんたちに怒られるといわれると知りあいのお坊さんたちが愚痴をこぼしている。日本の仏教はだめになったと非難する人もいるが、仏教をだめにしたのは、われわれ日本人であることには変わりはない。

今年ダライ・ラマ法王の説法会や灌頂会がある。簡単に分かりやすく通訳を務めなければならないが、
もちろん内容は簡単なものではない。きっと分かりにくい、と文句をいうひとがでるだろう。

釈尊は自分のさとった法がわかりにくいので、人に話しても理解されない、だから自分はジャングルの奥でくらそうといったそうだ。仏教の研究者であっても、我々が何年も研究しても仏教の教義はやはり難解である。真剣にとりくまねば全体像をなかなかつかみづらいし、そう簡単にわかるものでもない。

通訳としてはできるだけ多くの人にわかりやすく法王のメッセージを伝えたいと思う。
そのためにいまからすこしずつ毎日この準備のために勉強をしている。