文化と宗教

この下らない日本では「宗教」と名が付くものはあまりにも見下されている。特に文化レベルの低い私の住んでいる広島では宗教と文化は異なると思っている頭のおかしい人が沢山いる。

言葉を正確に使うのならば、宗教は人間のもつ文化のひとつである。普遍と特殊という関係に喩えるのならば、宗教は文化の特殊概念であり、文化は宗教の普遍概念である。

したがって、宗教であり、なおかつ文化であるものは有り得る。たとえば仏教がそれである。しかしいまの日本ではどうだ。文化と宗教はあたかも対立概念のように扱われている。

ダライ・ラマ法王はチベットの宗教者であるのか、チベット文化の象徴であるのか、政治家なのかという下らない問いがあたかもあたりまえかの如く、説かれるのである。

ダライ・ラマ法王はチベットの元国王である。それは宗教者であり、文化の象徴であり、政治のリーダーでもある。それがチベットという国家の特徴なのである。そんなあたりまえのことが日本人には理解できなくなっている。そんなことも分からずにただ「ノーベル平和賞」とか「有名」というだけで寄ってくる人たちに、ダライ・ラマ法王のお話が理解できるだろうか。

携帯電話は頭にくる

携帯電話で長く話しをしていると頭が変な感じだ。

これはだれかが電波がつよいからだと教えてくれたが、本当だと思う。ひょっとして電話をしていると頭が悪くなるかも? そういえば最近頭脳が明晰ではないような気もするが、これも携帯電話のせいか?

最近は携帯電話で写真を撮る人も多い。私はこれをやらない。何故なら電話で写真をとっている姿程まぬけな姿はないからである。「そこのお姉さん、それで記念写真とっても記念になりませんよ」とアドバイスしたい。多分いやな顔をされるだろうが。携帯電話で集合写真をとっても画質が悪くて顔が見えない。この人たちは一体何で携帯電話で写真をとりたいのか理解に苦しむ。

それから携帯電話こそみんながもつものなので、太陽電池とか自動巻の充電をすべきだと思う。もっとエコロジカルにしてほしいものだ。電池切れでいちいち電源を探して喫茶店でこっそり充電するのは恥ずかしい。携帯の電池が切れるのは決まって出張にいくときである。出張のときこそ携帯電話の威力がはっきされるはずなのに肝心の電池が切れる。特にメールなどやっているとすぐになくなる。そしてしまいには電磁派で頭が悪くなるのであろう。

最近はHDが搭載されている携帯があるが、これは血迷ったとしか思いようがない。こんなものはいりません。電話会社の人、お願いですからもっと環境と人にやさしい設計をしてください。それからUSBのフラッシュメモリがついていると助かります。

今日はひさびさにくだらない記事を書いたもんだ。