真実、事実、そして同一基体性

今年はひさびさに学会発表でもしてみようと思って、いま準備している。発表題目は「ツォンカパの空思想における絶対性」である。

1年間ダライ・ラマ法王の映像を編集しながら、チベット仏教についてその本質的な側面というものがどこにあるのか、考えてみた。そこでぼくなりにひとつの結論ではないが、視点というものを導入してみたくなったのである。それが、真実、事実、そして同一基体性ということと絶対性の問題である。これについてのチベット仏教の洞察は世界的に見ても他の追随を許さない、極めて高度なものである。

ツォンカパの空思想というものをよくよく考えてみると、立川武蔵のいうような聖なる世界と俗なる世界という二つの異なるディメンジョンではできていないということである。

これはチベット仏教が真実というものを、事実、そして存在というものと密接に関係して捉えていることによっている。ツォンカパにとって真実、事実というものは、「欺かれないもの」という定義がなされている。つまり正しい認識によってそれは獲得される対象(རྙེད་དོན་)であり་、それが獲得される場合には知に顕現しているものがその通りに存在していなければならないのである。これが顕現内容と実在内容との一致関係(སྣང་ཚུལ་དང་གནས་ཚུལ་མཐུན་པ་)་と謂われるものである。

チベット仏教の特徴として非常に現実主義的なところがあげられる。これは中国仏教のようなシュルレアリスティックな、よく言えば詩的な現実認識の視点をもっていないということである。だからこそ、空思想によって描かれる世界というものは極めて現実的なリアリスティックなイメージなのである。

チベット人にとって、そして特にゲルク派風の世界観では、現実世界と理想世界は同一基体に存在している。これはロマン派的な合一の思想では決してなく、同じ位相空間のなかの「事実」として現実世界と理想世界を位置付けることができるのである。人々はダライ・ラマ法王に観音菩薩と一体化した姿を見ることができるし、マルパのようなグルの像を描くことさえできるのである。現実に顕れるものは、自在に解釈されつつも歪曲する必要はない。本体と化生物との関係は強固に維持することができるのである。

このように考えてゆくのならば、中国的、日本的というものは、差異は消滅させられるか、もしくは隔絶化に向かわざるを得ないのに対して、チベット的、モンゴル的な土壌では、差異は同一基体上で絶妙なバランスを保ちながら保護される。絶対性もまた、超越的な思考を経る必要がなく、同一基体上で絶対者と相対者とが実現することができる。これが我々が知らないチベットの風土が編み出した世界的な叡知であることは誰もまだ気付いていないだろう。

更改しつづけることでその存在意義を有する中国的歴史観と事実関係を現実のものとして保存しながら、解釈内容によって歴史を書き換えることができるチベットとでは、どちらがインド仏教の本流を継承しているのかといえば、チベットに軍配があがるであろう。

チベット問題の解決のための対話の場に、中国側は常に歴史認識の問題を条件にあげてきている。しかし中国側がこの方針を変えない限り、両者の歩み寄りはあり得ないであろう。事実への探求、真実の追究、そして真実を確定するための方法論、これらについて中国文化がいくら頑張っても、チベット側の論理には歯が立たないであろう。

2008-06-01