人間は脱皮する

チベットの人たちは時々、びっくりすることを話してくれる。
長年チベットのことを研究していてもまだまだ知らないことばかりだと思う。

どうも「人間は実は脱皮している」らしい。
最近ケンスル・リンポチェから聞いた話がこれである。
なおかつその皮は蛇にしか見えないそうだ。

アボに聞くとそんなのは普通に当たり前にチベットで言われていることらしい。

以前ジャトーリンポチェが「染み取り」の方法を教えてくれた。

満月の星がいっぱいみれる夜にほうきで
染みのある部分を掃くしぐさをして、誰か他の人に
「何をしてるんですか」って聞いてもらうらしい。
「染みをとっているんです」って応えるのを三回つづけるそうだ。
そうすると染みは消えてなくなるそうである。

やはりチベットのことはなかなか簡単には分からないと思うこのごろである。

2008-09-28

ツォンカパの空思想における絶対性

1.問題の所在

ツォンカパ・ロサンタクパ(Tsong kha pa Blo bzang grags pa, 1357-1419)の空思想がチベット仏教史に残したその足跡は巨大なものである。彼の思想は今日でもなお最終的なフレームワークとしてゲルク派の僧院において数多くの人々によって学ばれ、忠実に継承されつづけている。

一般に真理を構築するためには、客観的事実を経験可能な限り検証し、その結果得られた真なる命題を構成するという方法がある。しかしこの方法では未来の不可知の事象についての証拠を得ることはできない。それ故より絶対的真理を構築しようとするのならば、絶対者によって認識/言明された命題を真理へと昇華させるという方法が採られるのが一般的である。世界中の多くの宗教・思想・美学がこの方法によって得た命題、つまり神が語った絶対的真理を追究し、それを模倣しつづけてきた。哲学の役割はこうした絶対性を証明するために、神の存在証明やその全知者性の証明をなしてきたことにある。

仏教における空性という絶対的真理に対してのアプローチもまたこれと同じことが歴史的に行われてきたといってよい。それを端的に表わす言葉が「勝義」である。様々な対象のなかから比較抽出することによって得られる「勝義」という概念を利用した「勝義においてaはbである」という言明が、絶対的真理や宗教的真理を語るために繁用されてきたことはいまさら言うまでもない。

しかしながらツォンカパが行なった作業はこれらの手法とはまったく異なったものであったと言わざるを得ない。彼は「否定対象の確認」という発想を導入することによって、空性という命題を構成する以前に、その命題に代入可能なすべての例外的な変数を事前に排除した。この用意周到に準備されたフレームワークの特長は、絶対性を想定しなくても、如何なる変数を代入しても論理的に恒常的に真である無限定な命題を構成できる点にある。歴史的にはこの彼の手法を上回る方法論がチベットには出現しなかったからこそ、彼の思想は現代にいたるまで強烈な影響力を及ぼす絶対的なものとなったと思われる。本稿ではツォンカパが空思想におけるこうした絶対性がどのように取り扱われているかを再考し、その方法論の一端を窺いたいと思う。

2.空性の命題構成法

既によく知られているようにツォンカパの空思想はLRCM以降若干細かい修正を施しながら、最終的には次のような命題で表現されている。(GR: 151a2–6)

空性:否定基体(x)は否定対象(y)ではない。

空性とは、この命題における所証“否定基体(x)が否定対象(y)ではない”と、所証法だけのもの、すなわち“否定対象(y)ではない”との両方を指す。そしてその両者ともが「絶対否定」(med dgag)である。(RG, 24b4-6)否定とは命題でもあり対象でもあるのはチベット仏教のコンテクストにおいては共通に見られる考え方であるが、チャパ・チューキセンゲ(Phywa pa/ Cha ba Chos kyi seng nge, 1109-1169)などが主辞を含んだものは絶対否定ではないとするのに対して、ツォンカパは主辞と賓辞とが組み合わさったものも賓辞のみのものも同じように絶対否定であるとしている点に特徴がある。

またこの“否定基体(x)は否定対象(y)ではない”という形式の命題と“否定基体(x)には否定対象(y)が無い”という形式の存在/非存在を記述する命題とは意味上同一である。存在/非存在を記述する命題はすべて“否定基体(x)は否定対象(y)を欠いたものである”という述定の形式に変換することが出来る。たとえば“(x)には自性が無い”という命題は“(x)は自性によって有るものではない”という命題に変換することができる。この場合両者は同義である。有名なコラムパによる批判にも見られるように、そしてこのような形式の空性以外の他の如何なる空性もないというところにツォンカパの空思想の独自性がある。(DN: 47a1-2)

またこのように記述された空性そのものはツォンカパは“無我”という絶対的な真理として、経量部・唯識派・自立派・帰謬派といったすべての学説によって共通に認められるものであり、すべての学派がこの形式の空性を主張しているとしている。このことは後代のゲルク派の学説綱要書では「仏教のすべての学派が自らを中観派であると標榜している」と表現される。すべての学派に共通した無我である絶対否定の空性というものを想定する時には、まず一切法無我ということから、否定基体(x)には任意の存在者/対象すべてが均質に代入されなければならず、また空性も恒常的に真であり、絶対否定でなければならない。だからこの二つの項は固定された項であると言える。しかるに空性について質的な影響を与え得るような可変要素は(y)しかないことになる。空性を巡るすべての問題は、最終的にはこの否定対象に何が代入されるのかという問題へと還元される。その結果、ツォンカパの空思想においては、通常我々が考えるような「二諦説は中観派の教義であり、三性説は唯識派の教義である」というような紋切り型の図式は成り立たない。彼にとって二諦説や三性説は、唯識派・中観派に共通した均質な空性を記述する際に使用されるパラダイムなのであって(DN: 59a6-b2, 101a5)、空性における「余れるもの」は依他起と円成実の両方であり、それは縁起と空と同義なのである。空性に関する問題のそのすべてがこの“否定対象として何を想定するのか”ということへと還元されることとなる。

3.否定対象の確認と命題の絶対化

こうした否定対象の確認という発想をベースに、ツォンカパは「否定」を「知が否定対象の普遍を直接排除したことで理解されるもの」と定義し、「絶対否定」を「知が否定対象の普遍(dgag bya’i spyi)を直接排除した後に、それ以外の異なる法を投射することのないもの」と定義する。(GR: 82a2-4)このような定義から「否定対象の確認」とは、否定命題を認識する知にその命題の否定対象を排除する行為が行なわれる以前に、否定対象を抽象化したイメージに関する様々な制約を事前に適用しておくということを意味することとなる。

したがって一切法に適用される空性を記述するためには、その命題における任意の項となる否定基体(x)に対して、その賓辞として恒常的に考えられている(y)を想定しなくてはならないことになる。そしてそのためには、すべての衆生が「(x)は(y)である」と思っているその(y)、“すべての衆生に共通して顕現するが決して存在しない否定対象(y)”というものを想定すればよい。そしてそのことをツォンカパは「倶生起の法我執による思念対象」と呼んでいるのである。

そのような否定対象(y)を事前に準備しておけば、任意の存在者(x)を主辞とする命題「(x)は(y)ではない」という絶対否定の空性(z)はいわば自動的に恒常的に真なる命題として成立することになる。何故ならば、それは任意の存在者(x)が命題が常に真なものとなるように準備された否定対象(y)でないことを記述するものであるからである。その作業の結果、たとえば「絶対者Sにとって(x)は(y)ではない」といった絶対者たる当事者のみに限定された解釈を絶対的真理へと昇華させる必要がなくなるのである。つまり任意の基体(x)において絶対的に真である空性というものを構成するためには、賓辞部分に代入される可変項目の(y)を事前に準備さえしておけば、単純に普遍化された命題「(x)は(y)ではない」とだけ記述すればよいことになるのである。

これは通常哲学が課題としているような、現象世界というものの本質を探求しそこに真理を見出すという存在論とは全く異なったものである。通常我々は命題の絶対性を得るために、超越的な絶対者の存在を想定することで命題の絶対性というものを想定しようとする。しかしツォンカパの行なっている作業はまったくこれとは異なり、現象世界そのもののなかにそのよう如何なる条件にもよることのない、無限定に真である絶対性を得ようとしてるのである。ツォンカパは現象世界を我々がどのように捉えているのか、すなわち「倶生起の法我執がどのように対象を思い込んでいるのか」という無明という煩悩の把握形式そのものの内部に絶対性を見出そうとするのである。

ツォンカパが否定対象を正しく確認する際に作業仮説として使用する「一体如何なるものとして成立しているのならば真実成立となるのか」という問い掛けは、倶生起の無明がどのようなものなのかということへの問い掛けなのであり、本来存在に存在論である空思想は、一度“否定対象とは何か”というこの問題へと書き換えられ、最終的には煩悩論へと書き換えられているといってもよいだろう。

4.準備された絶対性と空性理解の目的

ツォンカパはこのような作業を通じて、歴史的に絶対者の超越的認識を模倣し、その知を無限反復することによってのみ得られていた超越的次元における真理の絶対性を、現実世界の延長線上の世界の内部で機能する有限の均質な認識により現実世界と同一次元の内部で真理の絶対性を見出そうとした。そしてその結果、所謂「勝義の世界」と「世俗の世界」というような表現によって表される現実世界とは乖離した理想世界を現実を超越した異次元の領域に想定しなくても命題における無条件な絶対性を見出せる得るものとしたのである。

もしも二つの異なった次元というものを想定するのなら、その限りにおいて両者はお互いに閉じたものとして想定せざるを得ないのであって、たとえその二つの異質な次元を橋渡しするような「随順の勝義」というものを絶対的認識を想定しようとも、別次元に存在する超越的な絶対者にのみ現れている命題は、ある限定をうけた解釈に過ぎないのであって、現実空間と同一次元の内部で成立する絶対的な真理とはなり得ない。そしてそのような解釈を想定する限りにおいては、現実世界の本質を得るためには、常に絶対者の解釈を俟たねばならないことになってしまう。

これに対してツォンカパの考えるようなすべての衆生に如何なる時にも共通に顕現しているが、存在していない否定対象を想定するということは、その否定対象とは逆のものが空であるとするのであれば、空性の絶対性を確立するために絶対者の解釈を俟つ必要がなくなるということなのである。そしてこのような空性を想定することで、空性を理解するためには、ある任意のひとつの法における空性に対する確定を論証因に基づく比量によって導き出しさえすればよいのである。このことはツォンカパの次のような言明からも明らかである。

 ある有法(x1)の実義〔すなわち否定基体(x1)が否定対象(y)ではないこと〕を善く知り修習すれば、一切法の実義〔すなわちすべての否定基体(xn)が否定対象(y)ではないこと〕を修習することになるので、〔否定基体(x1)、否定基体(x2)‥‥否定基体(xn)と〕それぞれ各々の法の法性をそれぞれに修習する必要はない。(GR, 182a6-b1)

ある基体(x1)眼等の内部の法において真実無である〔すなわち眼(x1)が否定対象(y)ではないこと〕ことが量によって成立しているのならば、他の基体に知を向ける時、他者により能証が提示することに依らなくても、自分で証因に基づいて〔その否定基体(x2)が否定対象(y)であるする〕増益を排除することになるのである。(GR, 240b6-a1)

この二つの記述によって述べられているのはある任意の法(x1)における空性を確定した後には、別の任意の空の基体における空性は、既に一度確定した肯定遍充(rjes khyab)や否定遍充(ldog khyab)を利用して、別の空の基体に視点を写して証因との主題所属性(phyogs chos)のみを確定すれば、後はほぼ自動的に確定できるということである。つまり一度任意の基体における空性を推理によって確定ができるのならば、二回目以降は実質的にはそれほど苦労しなくても空性を確定できるということになるのであり、それは同時にすべての法に関して一つ一つ無限に空性を確定しなくてよいということである。

これは空性の命題において空の基体には任意の法が代入される原則があるが、そこに実質的に空の修習をする際に代入される法は一つあればいいということを意味している。そしてそれは同時にその一つの有法における空性を確定すれば、後はその確定され知の対象となった空性を修習して、無明を断じることに専念できるようになるのである。こうしたツォンカパは自らの描く空思想の一回性とその宗教的意義についてまた次のように述べている。

重要なことは自らの無明がどのように増益しているのかという把握形式を批判することを通じて、その逆の立場である自性空たる空性に対する確定を強烈に起こし空性を修習しなければならないことなのであって、我執や無明の把握形式を批判することなく、空性をその一部のみのものとしそれを修習したとしても、二我執に対して何らの損傷を与えることはできないのである。(LRCM, 510a6-b2)

5.まとめ

以上ツォンカパの空思想における絶対性の取り扱いについて多少複雑な側面についても若干考察してきたが、最終的には彼の描いた空思想は極めてシンプルで単純明快なものである。最後に本論の結論をまとめておきたい。

(1)ツォンカパは空思想に否定対象の確認という発想を導入することで、空思想における命題の変数を固定し、さまざまな空思想をすべて否定対象を捉える知の把握形式の問題へと還元した。

(2)その結果彼以前には超越的認識を無限反復することによって別次元の領域にしか得られなかった真理の絶対性を、現実世界の延長線にある単層の領域のなかで、有限の均質な認識によって同一次元内で得られるようになったと思われる。

(3)このような空思想を彼が考えたその最も重要な理由は、空性を理解することが我執を断じるためであるという空性の目的にある。

本稿では紙幅の関係上言及できなかったこのようなツォンカパの手法の背景にある「すべての教えは矛盾がないものであること」というカダム派の伝統的な仏教観や推理における増益の排除方法については稿を改めて別の機会に論じたい。

〈略号〉LRCM: Lam rim chen mo; DN: Drang nges legs bshad snying po; RG: rTsa she Tik chen rigs pa’i rgya mtsho; GR: dBu ma dgongs pa rab gsal. 以上 Zhol ed..

〈キーワード〉ツォンカパ, 絶対否定, 否定対象の確認, 絶対性

2008-09-22

ツォンカパの空思想における否定対象とその分岐点

1.問題の所在

 ツォンカパ(Tsong kha pa Blo bzang grags pa, 1357-1419) の空思想が「否定対象の確認」(dgag bya ngos ‘dzin)を空性の確定作業に先行するとし、それが彼特有の説であることは既によく知られている (1) 。否定対象には、道の否定対象(lam gyi dgag bya)・正理の否定対象(rigs pa’i dgag bya)がある。後者はさらに主体・客体の二種、すなわち誤った分別知とその思念対象(zhen yul)とに分類され(LRCM, 419b1-420a3)、通常ツォンカパが否定対象の中心とするものは、この正理の否定対象の後者の客体にほかならない。

 否定対象の確認作業とは、この正理の否定対象の形象(対象普遍)を「作業仮説上設定」(brtgas pa mtha’ bzung)し、知に顕現させることを意味している。この否定対象の確認作業はまた、インド仏教文献に表れる「それ自身の特質によって成立しているもの」などといった特定の概念や用語のうちの何が否定対象に代入されるのか、という解釈上の問題なのではなく、むしろ、否定基体における否定対象を捉える把握すべてに共通した把握形式が、その思念対象の領域化をどのように行っているのか、という問題にほかならない。ツォンカパはこの思念対象の領域の特定化を「否定対象の境界線/分岐点」(dgag bya’i tshad)などといった一連の術語によって表現している。本稿ではこれらの術語の意味を明らかにし、その必然性と効果を考察し、彼の空思想の基礎理論の解明の一助としたい。

2.否定対象の分岐点とは

 まずこの「否定対象の境界線/分岐点」(dgag bya’i tshad)などといった一連の術語の用例を時系列順に整理しておこう。

 「否定対象の確認」についての最も基本的な枠組みはLRCM(1402)に既に見られるが、そこでツォンカパは否定対象に代入される項目が過大適用(khyab che ba)される場合と過小適用(khyab chung ba)される場合とを挙げ、特に前者を指して「否定されるものの限度を捉えていない場合」(dgag par bya ba’i tshod ma zin par)と表現している(LRCM, 375a4)。同趣旨のものは「否定対象の境界」(dgag bya’i mtshams)とも表現される(LRCM, 495b5)。これらの否定対象が過大適用された場合に、「否定対象の無」たる「否定」が「全く無いもの」とされ、断見に陥るとされている(LRCM, 375a4-5)。これらの「限度」「境界」という語が意味しているものは、否定対象に過大適用された領域を排除する<それ以降否定対象とはならないという最大値>なのであり、この用例は、LRCM以降のNRCM(1405)をはじめとする彼の代表的な著作に共通して見られる。

 DN(1407-8)においては自立派・帰謬派の否定対象の確認の相違点が「否定対象の境界線」(dgag bya’i tshad)と呼ばれているが(89a4)、更にこれと関連するものとして「一体どの時点から実義を考察することになるのかという正理の境界」(rigs pa’i sa mtsams)という「正理知による考察の開始点」という類似概念も導入されている(DN, 104b5-6)。さらにDNに続いて執筆されたRGでは「如何なるもの以降のものが真実成立となるのかという境界」(ci tsam zhig nas bden grub tu ‘gro ba’i sa mtsham)という表現や(RG, 28b5)「如何なるものとして成立しているのならば真実成立となるのかという最小値の分岐点」(ci tsam zhig tu grub na bden grub tu ‘gro ba’i ma mtha’i sa tshigs)という表現がなされている(RG, 29a2)。これらの語に共通し意味されるのは<それ以降否定対象となるという最小値>なのであり、この用例は晩年の著作のLRCN(1415)やGR(1418)でも継承され、GRにおいては「真実の境界線」(bden tshad)で示されることになる。

 これらの一連の語は、LRCMの時点では<それ以降否定対象とはならないという最大値>までの領域の特定化を行っているのに対して、RG以降では<それ以降否定対象となるという最小値>以上の領域の特定化を行っていると言える。特にRGにおける最小値の特定化を示す「分岐点」という語は、DN以降に積極的に論じられた「実義に対する考察の開始点」という発想と組み合わせて展開されることに特徴がある。しかしRGにおけるこの同じ「分岐点」(sa tshig)という語は、LRCMと同趣旨の<最大値>を示すものとしてRNSG(1411)で使用されるているので(44b1)、領域の特定化を行うこれらの語が「当初最大値以下のものを表していたが、RG以降になって最小値以上のものを表すものへと変化した」とは断定することはできない。最大値以下のものを分岐するのか、最小値以上のものを分岐するのか、ということはその分岐点によって特定化されるもののいずれに視点を置くのか、という問題に過ぎない。それ故に、これらの語によって「否定対象とそれ以外のものとが分岐する分岐点そのもの」が意味されていたと考えるのが妥当な結論であろう。

3.否定対象の分岐点の必然性

 それでは否定対象の確認作業において何故このような否定対象の分岐点を設定しなければならないのか、その必然性を検証してみたい。

 そもそもツォンカパにとって正理の否定対象のうち客体とは、畢竟無でなければならない。何故ならば、一切法の任意の項目が有法(否定基体)に代入可能な空性の命題の構造上、存在している否定対象は否定出来ないからである。これは空性を記述する命題そのものが任意の法である空の基体を否定基体とすることから生じる構造上の特性といえる。

 否定対象それ自体は畢竟無であるにも関わらず、空性を理解していない者、すなわち否定対象の確認をしていない者にとって、否定対象たる倶生起の法我執の思念対象と「単なる有」との両者は無区別な混合状態でのみ顕現している(LRCM, 453a4-5)。それゆえに、この混合状態より、元来存在しないはずである否定対象を「作業仮説上設定」(brtgas pa mtha’ bzung)し、混合状態から倶生起の法我執によって捉えられている領域部分のみを抽出化し、差異化する作業が必要になるのである。この差異化作業こそが否定対象の分岐点の設置作業にほかならず、その作業を経ないで否定対象の対象普遍を知に顕現させて否定対象を確認するなどできないのである。すなわち、否定対象とそれ以外のものとを分ける分岐点が設定された時点ではじめて、否定対象の形象を単なる有と混合した顕現状態から分離し、それ単体で顕現させることができるようになるのであり、否定対象の分岐点を設定するというこの作業は否定対象の確認作業にとって不可欠なものなのである。

4.否定対象の分岐点の設定効果について

 最後に、ツォンカパが、否定対象の最大値か最小値かという分岐点を設定することによってもたらされた効果を確認しておこう。

 まず否定対象の<最大値>を設定することにより、否定対象の確認作業自体に、彼の重視した「無自性なものにおいて、輪廻から涅槃に至るまでの縁起する諸存在全ての設定が成り立つ」という「中観不共の勝法」 (2) を成立させる機能を持たせることが可能となる。更にその<最小値>を設定することで、如何なる空の基体に対しても、同一の空性を記述する命題の帰結作業に付随する、正理知と真実把握との把握形式の対立化などのすべての空性命題に共通する諸概念が、均質に適用されることが可能となる。その結果、いかなる空の基体であっても、実義を考察する正理知は、絶対否定の空性以外にいかなるものも獲得しないし、成立させないという原理を構築できるようになる。これは特にチャパ(1109–1169)の説とされる (3) 「真実無は真実成立である」といった入れ子型命題における例外的帰結がもたらされることを防止する。前掲のRGの引用の前後の箇所でも、正理知の機能と関連した「真実無は真実成立である」といった入れ子型命題にも一般的な空思想と同一の論理が適用されることが示される。

 さらに否定対象の領域の最小値を設定することは、自立派の見解と帰謬派の見解とに異なる否定対象に関する限定語の相違点の問題を、両派が一体どの時点から否定対象の分岐点を考察しているとするのか、という実義に対する考察の開始点の問題へと還元化することを可能にしている。その結果、さまざまな学派における否定対象に対する見解の相違点は、その学派が倶生起の法我執としてどのようなものを想定するのか、ということに終結し、より否定対象の分岐点が微細な点にまで及ぶことが、各学派の空性理解の精細度を左右し、各学派の価値判断の問題もこの否定対象を確認する知の精細度の問題へ還元可能となる。

 これら以外にも多くの効果がもたらされるが、その詳細をここで論じ尽くせるものではない。しかし少なくとも、「否定対象の確認が空性理解に先行とする」として出発したツォンカパの空思想は、さらにその準備作業として「否定対象の分岐点」というものを作業仮説的に設定することで、彼の空思想それ自体も極めて単純で明晰なものへとより深化したと言えるであろう。

略号

LRCM: Lam rim chen mo
NRCM: sNgags rim chen mo; DN: Drang nges legs bshad snying po
RG: rTsa she Tik chen rigs pa’i rgya mtsho
RNSG: Rim lnga gsal sgron
LRCN: Lam rim chung ngu
GR: dBu ma dgongs pa rab gsal.

以上 Zhol ed..

  1. (1)松本史朗『チベット仏教哲学』大蔵出版、1997年。【↑】
  2. (2) 福田洋一「ツォンカパにおける縁起と空の存在論 」オンライン版 http://tibet.que.ne.jp/【↑】
  3. (3)Cf. sTong thun chen mo(Sermay ed.), 132【↑】

キーワード

ツォンカパ, 否定対象の境界線, dgag bya’i tshad, sa tshigs, bden tshad

本研究は平成15年度科学研究費助成金(特別研究員奨励費)の成果の一部である。
2008-09-12

古典研究と心中する

チベット語は会話は比較的簡単であるが、文献を読もうと思ったら結構大変である。
というのもチベット語は文語と口語がはっきりと分かれており、
チベット語の文献は一般図書というものはあまりなく、
高度に専門的な文献が多いことが原因となっている。

だからそんなチベット文献を読もうと思うのならば、積み重ねて得られた知識が必ず必要となり
それが読めるようになるためには、何年も訓練する必要があるだろう。
膨大な古典に囲まれたチベット社会の文化を語るためには
まず古典を知る必要があるのである。

しかしいまごろの社会は物騒な社会である。
少子高齢化のなかで大学は古典研究は人気がなく排除されつつある
私が卒業した「東洋哲学専攻」もいまは存続の危機に瀕しているそうである。

最近大学で英語を教えている先生と話す機会があった。
一時期は人気を誇った英文学科でさえ最近では、
シェイクスピアやミルトンを学んでも何にもならないそうである。
ましてやウィリアム・ブレイクなどもう読む人はいないのかも知れない。

このままいけば古典研究をする人がいなくなるだろう。
そうすると日本の古典研究の質は確実に低くなるだろう。
同時に外国の古典を日本語で語れる人間は減ってしまう。

世界の古典は英語圏で生き続けるだろうが、
日本語で表現できることも大切なはずである。

今回チベット問題は急激に脚光を浴びたが
新しくでた本の殆どが付け焼き刃のようなものばかりである。
“ダライ・ラマの子育て法”とか“ビジネス論”とかいろいろ恥ずかしげもない出版文化が
高尚な古典の薫り漂うダライ・ラマ法王の法衣の薫りを打ち消している。

チベットの古典と呼ばれるものはいまだに充分に出版されていない。
それらを翻訳する人材を育成する場所もあまりないし、将来もそんなものはできないだろう。
古典研究はこのまま沈没するのかと言われれば、多分沈没すると答えざるを得ない。

沈没船から脱出する人の方が多いと思うが、しかしひとつだけ希望がある。
それは我々古典学に関わる人間が強情で頑固者だってことだ。

我々が死なない限りこの世界は絶滅しないだろう。
そしてこんな将来性のない世界に踏み込んでくる馬鹿な若者も後をたたない。

それが古典のもつ最大の魅力であり、罠である。

そんな罠にはまっている人がいるのが学会である。
だから学会にはいついっても楽しいものである。

2008-09-11

次の総理はダライ・ラマ法王を官邸に招くべきである

いま論文やら〆切りやらいろいろ追われていて、
おいおいブログ更新してる場合じゃないだろうと突っ込まれそうなところ。

しかし、福田総理がご退陣になられたので、このタイミングで言っておきたい!!

次の総理はダライ・ラマ法王を11月に官邸に招くべきである。

これまで、ダライ・ラマ法王が公式に官邸に招かれたことはない。
日本人のサポーターはそれを実現すべく応援して欲しいということである。

何のためにか?別に理由はない。
単なる表敬訪問でもいいじゃないか。
外タレだって官邸に招かれる時代ですよ。

肩書きはノーベル平和賞受賞者という肩書きで充分である。
お役所にとって大事な先例もたくさんある。

日本政府は三月にダライ・ラマ法王と中国側との対話を促進して欲しい
そう要望を中国に伝えたではないか。

それなら、他の先進国と同じようにダライ・ラマを
公式に総理官邸に招くべきではないか。
よく話をしたらいい。

これができる総理ならば解散総選挙をやっても勝てるだろう。
そしていまのリーダーシップがないと見られている
日本政府は国際的な信頼を勝ち得るだろう。

北九州市の講演会について2chやmixiでいろいろと議論したり、
アクションをしたりしている人がいる。
ですが、みなさん、北九州市なんて小物を相手にしてもチベット問題は解決しませんよ。

だから北九州なんて相手にしなくていいので
「総理官邸にダライ・ラマと一緒に押しかけよう」というデモでもやってほしい。

民主党の方は「ダライ・ラマを何故官邸に招かないんだ」って追求して欲しい。
自分たちでこっそり会ってツーショットを撮ってもしかたがない。
国民の税金で食べているみなさんにはもっとも意味のあることをしてほしい。

あともうひとつ。

拉致問題もはやく解決すべきである。
いつまでもちんたらやるのをやめてください。

2008-09-02