「チベット僧」「日本僧」「アメリカ僧」

最近チベットに関する関心が高まるに連れて変なことばが氾濫している。

「チベット僧」

これがそれである。そもそも「チベット」(Tibet)は英語であるが、場所や国家の名前を表すのであって人間や言語を表すのではない。それにも関わらず「チベット僧」という表現を新聞までもが使用している。でもこの言い方は違和感を感じざるを得ない。日本人が「日本僧」「広島僧」「横浜僧」といわれたらどんな気分であろうか。そしてそんな日本語はあり得るのであろうか。

日本人の知性の低さもここまできたかと思いながらGoogleで検索してみると「チベット僧」は187,000ヒットするのに対して、「チベット人僧侶」では、291,000ヒットしたので、ちょっと安心した。

しかし「チベット語」「チベット仏教」はまだいいしこれは言葉使いとしても正しいものであるが、「チベット僧」はいただけない。「チベット人の僧侶」という意味での特定の民族もしくは集団を表現したいのか、「チベット仏教の僧侶」というようにその宗教的伝統を表現したいのかさっぱりわからないからである。「モンゴルの首都ウランバートルにはモンゴル人のチベット僧があふれている」という文章があるとすれば、それは「チベット仏教の僧侶」のことであることは簡単に予測できるが、「内モンゴル自治区にはチベット僧がたくさんいる」ではその人がモンゴル人なのかチベット人なのかさっぱりわからない。

ましてや「カナダにいるチベット僧テンジン・ドルマさん」という人がいるとすれば、その人は、僧侶(ふつうは男子)なのか尼僧(ドルマは女性に多い名前)なのかわからないし、その人がチベット人なのか、モンゴル人なのか、もしくはアメリカ人なのか、さっぱりわからないのである。

私は復古主義者ではないが、日本語は正しく使うべきである。もちろんある程度のあいまいさは日本語に基づく独自の文化であることは認めたいが、こんな知性のない言葉を特に情報を提供する側の人間が使うべきではないだろう。

もちろん意図的にやっているのならば別であるが、現代社会のように個人が多数である他者に簡単に情報発信できる時代だからこそ、ことばの表現というものに個人個人が気を配る必要があると思われてならない。

ダライ・ラマの「転生」?

日本にはチベット語やチベット仏教を解する人間がごく僅かしか居ないし、その充分な能力をもった人間を育てる環境もないのである。だからチベット問題がこれだけ脚光を浴びているなか、あまりにも不正確な情報が氾濫してしまっている。

とりあえず一般の人がチベットに注目してくれればいいというのは確かに我々長年ボランティア活動などをやっているものの本音でもあるが、英語で「I want Tibetan to be happy」(チベット人が幸せであることを望みます)というのと「I want to go back to Tibet」(チベットに帰りたい)というのは全然違うし、これを訳しわけられなければ中学校も卒業できないけれども、そういう類いの初歩的なチベット語からの誤訳が蔓延している。

チベット語の語学力については、有名大学の先生やヨーロッパでご活躍(?)になっている先生たちも、大した語学力でないばかりではなく、「誤訳」としかいいようがないものが氾濫しているので、一般の人はそのような状況を理解した上で情報を選別すべきであろう。信じられないことに日本では決してチベット人が書かないようなチベット語の綴りが教科書にのっているし、そういう綴りで書かれた文章が教科書のチベット語として使われていることも多々あるのである。

そのなかで最も腹立たしい誤訳は「ダライ・ラマの転生」とか「ダライ・ラマの輪廻転生」いう表現である。これは大いなる間違いである。これに当たるようなチベット語は決してありえないし、そんな表現をチベット人の社会ですれば、「ダライ・ラマ法王を批判するなんて、おまえは中国の回し者か!」という話しになるだろう。

その理由はチベットのコンテクストにおいてダライ・ラマは厳密にいうと「転生しない」し「輪廻」ではないからである。そもそも化身というのは我々のように業と煩悩によって輪廻に生まれてくるのではなくて、衆生済度という必要性があるからこそ「再生」「再来」するという発想なのである。

特にダライ・ラマ法王のように観音菩薩の生まれ変わりとなれば、本体である観音は、菩薩の姿をとってこの世に現れるが、既に仏位に達していると考えるのが通常のチベットの解釈である。だから煩悩を既に断じ終わっており、輪廻に「流転」することはあり得ないので「転生する」という和訳も間違いであると言わざるを得ない。

たとえば極楽浄土に生まれ変わるのは、「祈願の力によって生まれる」のであって、業と煩悩の力によって生まれるのではない。日本では極楽浄土に生まれ変わることがすぐに成仏することだと勘違いしている人が大勢いるし、ましてや輪廻や前世・来世の存在すら認めない人が多いので、はっきりいって仏教の教義に対する理解がめちゃくちゃになっているのである。

最近よく見かける表現に「生かされて生きる」とかいかにも日本的な語呂合わせのような標語がお寺にかかっていることもある。こんな表現はサンスクリットにもチベット語にも有り得ないし、ましてや中国語にもないよくわからない仏教!?なのである。

ましてや『ツォンカパの中観思想』と題して出版されている、本の副題には「ことばによることばの否定」と題されている。これは禅宗の思想ではそうかも知れないがツォンカパが「ことばによることばの否定」なんてことは一言もいっていない。

仏教界もめちゃくくちゃ、学会もめちゃくちゃだ。ましてや一般の出版物はめちゃくちゃなのである。最近は『ダライ・ラマのビジネス入門』なんていう恥ずかしげもない便乗商売が世にはばかっている。

さらに悲しいことには、チベットについて好意的な発言してくれている宮崎哲弥氏も「私は中観派に属する」なんていう途方もないことをいっている。チベット人が聞いたら絶句する発言である。何故ならば「中観派に属する」ということは「中観の見解を有していること」つまり空性を理解しているということになるからである。そして空性を理解するということは、有辺(すべてのものが顕現する通りに存在していると思う間違い)の無辺(輪廻転生を否定する間違い)とを同時に断じた中を理解するということなのである。そしてチベットの寺院では、すくなくとも罪障を浄化しないかぎり、知に空性が顕現することは有り得ないと言い伝えられている。そしてチベットの僧侶の戒律の不妄語戒の破戒に数えられる大罪のひとつとして例にあげられるものに「空を理解していないのに空を理解していると述べること」がある。こんなことはチベットの僧侶にとっては当たり前のことなので、チベットの僧侶であれば「私は霊能者です」とか「私は空を理解しました」なんて口が裂けても冗談でもいわない。

愚痴ばかり書いたので、最後にひとつ建設的な提案をしておこう。仏教についての基礎知識をテストする共通学力試験を作るべきである。そしてそれにパスできないものは、仏教について語るべきではない。またチベット語についての基礎語学力テストを整備すべきである。

チベットの文化が危機的な状況に追い込まれているのは、中国人のせいだけではない。それをきちんと理解し、それを人に正確に伝えようとする努力をしない外国人もチベットの文化を脅かしているのである。

まあ愚痴ばかり書いてもしかたないので、来年くらいからはデプン・ゴマン学堂日本別院仏教基礎試験というのを整備して、すこしずつやっていくしかないだろう。

中央一極主義からの脱却

権力が一極に集中すると人間は自分の能力や考え方を過信してしまう傾向にある。
チベット問題の本質もこのことの歪みがでたものであると考えることができるだろう。

中央の人民政府としてはチベットの再開発や発展に貢献しているつもりかもしれないが、
それはチベットの人たちには響いていない。

中国政府としてはチベット問題は、ダライ・ラマのせいなのである。
しかし実際にはダライ・ラマもそこまで力をもっていない。

チベット仏教では中央一極主義的な発想はない。
というのもチベット人の社会は、ノマディックであり、
我々日本人のもつ全体主義とはまるで程遠いからである。

11月に亡命チベット人社会では、今後の方針についての話し合いがもたれるそうである。
取材するジャーナリストをネットで募集しているので、
日本のジャーナリストは必ずいくべきである。

取材依頼のチベット政府からの呼びかけ

いつまでも中国政府の報道や誰かの記事を垂れ流しすべきではないし、
自分たちの目できちんと彼らの姿を考察すべきであろう。