翻訳の品質管理

科学というものは客観的なものでなければならない。
つまり常に同じ結果がでることが重要である。

しかし翻訳の品質管理というのは結構難しい。
これは誰がやっても同じ結果がでるというものではない。
翻訳というのは職人的技術と経験が必要なものであり、
またセンスというのも必要なものである。

また特にマイナーな分野になればなるほどその品質管理は難しくなる。
チベット語の翻訳がその一例である。
そもそもこういうものをきちんと教えるところがないのが絶望的だ。

日本という国は、日本語を使っている。
あたりまえのようだが、実はここがかなりネックである。
チベット語を英語に翻訳する絶対的人数と比べたらチベット語を日本語に翻訳できる人間は多分10分の1にも満たないであろう。

工業製品であれば、不良品のリコールという自浄作用があるが、
チベットの世界では、不良品のリコールというのはない。

間違った情報も垂れ流しであるし、極めて主観的な情報も垂れ流しである。
つまりこのブログのようなものである。

研究者の研究業績を見る指標が、論文の数であると長く言われている。
つまり駄文でも多く書くのがいいということである。

モーツァルトやベートーヴェンよりも小室哲哉がいいというのか。

2009-04-08

強盗や犯罪

今日近所の郵便局に強盗が入ったようだ。パトカーがしきりに行ったり来たりして、結局強盗は捕まったようだが、現金の全額を持っていたのではないとのことである。

もちろん強盗はよくないことであるが、これが政府レベルでの強奪事件などがあった場合には、その上部組織である国連は関与しないで、国内問題として処理されるのが原則である。もちろん最近は国際法を定めようという動きも有るが、まだまだそれはうまく行きそうにない。

チベット問題を議論するときに、正義や事実関係についての議論となるが、日本人は以外と正義や事実というものを重要視していない人が多い。

これは相対的価値と絶対的価値観との区別ができないことによっている。相対的な価値観というものは、時代や状況によって左右されるものであるが、絶対的な価値観はそうではない。たとえば殺生は不善であるというのは仏教においては絶対的価値観であるが、意外と守られていないことも多い。

グローバルな社会においては相対的な価値観が重要であることは確かであるけれども、絶対的な価値観を失っては、人間は生きて行けない。チベット問題が相対的な価値観のなかで議論される場合には、これは永遠に解決できない問題になってしまう。

日本においてチベット問題が最近以前よりは注目されるようになったが、これは正義についての関心が強くなったからではなく、単に近年、日中関係があまり芳しい状態ではなかったことに由来している。

チベットで行われたのは、間違いなく、文明の暴力による破壊活動であり、これはチベットや中国だけの問題ではないのである。チベットにしか残っていなかった文化遺産はことごとく破壊されてしまったが、もしそれが現在昔の状態で残っていたらどうだっただろうか、と想像できる人は、よほどチベットの文化に詳しい人でなければ無理であろう。

日本のような法治国家においては、強盗や犯罪は取り締まることができるが、国際社会においてはそうではない。国境はいらないと考える人もいるけれども、国境が大事な人もいるのである。

そんなことを思う一日であった。

2009-04-06