こうやったらどうなるのかー沈黙のカルテット

佐藤慶次郎さんのところに行くようになって、私の人生は大きく変わった。というのも、作曲というものには和声法や音楽理論やオーケストレーションといったものは、何も要らないということを教えてもらったからだ。佐藤慶次郎さんはぼくに作曲を教えるとか、技術を教えるというつもりは全くなかったし、そんなものは音楽の本質ではないということを強調されていた。

田舎から出てきて作曲家を目指していた私は、シェーンベルクの『作曲の基礎技法』とか柴田南雄の『音楽の骸骨のはなし』や伊福部昭の『管絃楽法』やXenakisのFormalized MusicやJohn CageのSilenceなどを読みあさっていたが、それが間違いであることに気づかされ、自分の愚かさに気づかされた。

佐藤慶次郎さんがよくおっしゃっていたことで、私が学んだことは「こうやったらどうなるか」というそれだけだった。まずは自分で「こうやったらどうなるか」ということを考えてやってみて、おもしろいかどうか、それが音楽のすべてであった。音楽は人のまねではなかったし、そんなものは芸術とは言えないものであった。

更には、芸術なんていうものは、実はどうでもいいものであった。どこまで遊べるのか、そしてその遊びが「あるところを突き抜けて、どこまで普遍的におもしろくなるか」。そして「そのおもしろさがどれだけリアリティをもっているか」それが音楽であり芸術であることを教えてもらった。

佐藤さんは実験工房の代表的な作曲家であったし、瀧口修造さんを巡る芸術家のひとりであり、早坂文雄さんの最後の御弟子さんでもあったが、実はそんな偉い人からも影響を受けたとか、何かを継承したとかそんな陳腐なことは全く嫌いなお方であった。

ぼくの作品は、こうやったらどうなるかっていうのをやってみて、まず自分で面白いかどうか、そしてもっと面白くならないかどうか、また徹底的にやってみる。そしてあるところで、何らかの世界ができるんだ。それだけだよ。

そういつもおっしゃっていた。

梵鐘をゴーンとならして、その余韻が消えるまで消えるまで音を聴いていたり、葉っぱが風でたなびくのをじっと見ていたり、水が流れるのをじっと見つめている、それだよ、君。それが何事かなんだ。

音楽を作っていたらある日いつのまにか音がなくなってたんだよ、君、わかるかい?それでできたのを『沈黙のカルテット』って名前にしたんだよ。

この「沈黙のカルテット」と題された作品は、佐藤さんの音楽であり、ことばであった。

そんな佐藤さんが衝撃を受けたのは、John Cageであった。佐藤さんは、「沈黙」ということに本当に衝撃を受けたと語ってくれた。

佐藤慶次郎さんにとっては作り手はまず最初の受け手であった。そして同時に厳しい聴衆であり、観衆であった。佐藤さんがご自分の作品に厳しかったのは、芸術としての完成度とか純粋さを求めたとか、完璧主義者であるとかいろんなコメントを見てきたが、実はそれはあまりあたっていなかった。

佐藤さんにとっては陳腐な芸術作品は「何事か」と言えるようなものではない、ということであり、「何事か」であるものは、見ても見ても飽きない、聴いて聴いても飽きない、何事かであった。

葉は風に舞い、鳥はさえずる

恩師佐藤慶次郎さんが5月24日の朝、亡くなられた。静謐な最期であった。

禅定のまま亡くなるとはこのことである。師の最期のメモには、闘病の記録もあったが、「禅」の人文字と、それに続いて沢庵和尚の遺墨「夢」が書かれていた。そういう人であった。葉は風に舞い、鳥はさえずる。静かに佐藤慶次郎さんは逝ってしまった。

今日告別式が行われ、弟子で作曲家である中嶋恒雄さんが弔辞を読んだ。

佐藤慶次郎、この名前は私にとっては「孤高の禅家」であり「真の芸術家」であり、「師」である。この荒んだ空虚な日本において、このような純粋に生き続けた芸術家を私はほかには知らない。佐藤慶次郎師は常に自然体であり、そしてリアリティを重んじた。私はこの方に触れることができたというだけで、本当に幸せであったと思う。

佐藤さんの芸術は、万人に理解されるにはその求めるクオリティが高すぎた。しかしながら絶対に妥協しないし、見せかけや御為倒しはきらいな人であった。芸術のクオリティには厳しいが、周りの人にはとてもやさしいお慈悲にみちた方であった。

佐藤さんがなくなられて、何をしようか悩んでいたが、まずはこのブログに書くことにした。というのもいまごろは本当の芸術家の生き様というのがあまり分からなくなっているからである。私が知っている佐藤さんについて少しでもこのあまり人のみないブログに書くことで、日本に本当に芸術家が居たことをみんなに知ってもらえればと思う。

シュルレアリスムや禅にかぶれていた、若く広島の田舎からでてきた「生意気で、憎らしい、不細工な、作曲家を志している青年」であった私は、「無名であることの痛み」を感じる「聴衆」であった現代音楽のプロデューサーである原田力男さんに出会った。原田さんについては以前このブログでも簡単に書いた(リンク)ので、ここでは書かないが、ぼくはなぜか原田さんにとてもかわいがってもらえた。

ある時、作曲を師事したいので、誰かを紹介して欲しいとお願いした。すると「ぼくが尊敬している作曲家ってのはあまりいないし、弟子なんて取るような人はいないよ」と断られた。しかし、当時若手の芸術家や研究者や音楽評論家のあつまりである「零の会」というのに入れてくれて、そこで佐藤慶次郎さんのお宅に遊びに行く機会をつくってくれた。原田さんが心から敬愛して、絶対的に尊敬している日本の作曲家、それが佐藤慶次郎さんだった。

最初に佐藤さんのお宅にお邪魔したときに、佐藤さんはいろんなことを話してくださったが、その内容はあまり覚えていない。周りの人が佐藤さんの師である早坂文雄さんの話や実験工房やケージの話など、ありきたりのことをしきりに質問していたのはいまも覚えている。しかし佐藤さんが若者に伝えたかったことはそういうことではなかったような、違和感を感じたことは覚えている。私はその当時一番若手であったので、あまり発言することもなくその日は過ごしたのである。

佐藤さんのお宅から帰ると原田さんから君は仏教とか詳しそうなので佐藤さんのところで話たことをまとめなさい、と言われた。そこ私は一休宗純の何かを引用するか言及するかして、何かつたない文章を書いた覚えがある。

何日かたって、原田さんから電話があった。「佐藤さんが君の書いた文章をみて、あの子を連れてきなさいとおっしゃってるので、今度行こうね」という電話であった。

そしてその後、原田さんと二人で佐藤さんのうちにお邪魔した。緊張していてどんな話をしたのか全く記憶にないが、一休宗純と禅の芸術思想や「自然法爾」などの話をされたと思う。とにかく私が簡単に書くほど簡単なことではないということを私に伝えたかったのだと思う。最後に佐藤さんが「また来なさい」とおっしゃってくださったのを覚えている。奥様の和子さんも「どうぞまたおいでね」とおっしゃってくださった。

何がどうなっているか分からないが、原田さんが帰りの車のなかで、「野村君、よかったね。あれは、あの佐藤慶次郎さんが弟子にしてくれるってことだよ。君は本当に幸せものなので、一生懸命に頑張りなさいね」「すべてのひとつひとつの音符が本当に意味のある音符を書ける作曲家なんて他にはいないんだから、君もそうなるために頑張りなさいね」と言われた。

こうして私は佐藤慶次郎さんの「弟子」になったようだった。それからいろいろあったが、いつだったかある時「お弟子さんですか」と誰かが聞いたときに、「オレは弟子にした覚えはないんだけどなあ、まあこれは野村君だ」とおっしゃってくださった。これは悲しいような嬉しいことばであった。佐藤慶次郎さんは私を「人」として扱ってくれたということであった。「最近は人間の顔をした機械みたいなヤツが多い」といつも世を憂いていた方のやさしい言葉であった。

これが私と佐藤さんとの出会いである。そしてそれから「音楽ということ」「芸術ということ」「私」「自覚」「生きる」「愛する」「実験する」「愛でる」ということ、そしてすべての大切なことを教えていただいた。

それについてはこれから少しずつ書いてゆきたい。