数量と質

最近人生の転機を迎えていると思う。というか、このしばらく忘れていたことを思い出し、すこしずつやっておきたい実験をしていかなくてはいけないなという気がしてきた。大分あきらめがついたり、この吹きだまりの人生にも大分なれてきたせいかも知れない。

たとえばチベット仏教の研究という仕事については、もうすこし越えなければならないハードルがあり、いまいち先が見えない部分があるが、研究活動というものについては、今後数十年後にはこういう風になるだろうなというひとつのビジョンも見えてきた。マーケットとは乖離して微々たる金にしがみつくいやしき時代は終わるべきであり、それにはいくつかの仕掛けをすればいいことが分かってきた。

今後数百年以内には情報は検索可能な形で並列されるであろうし、そこにはより複雑な検索式がマルチスレッドな状態で検索可能になるのは目に見えている。ひとつひとつの情報を検索可能な状態にするために入力する時代は終わり、入力されたものが検索可能なものとなっていくのであろう。本来科学や芸術が目指していた、誰も見た事のない世界の開示を見せかけだけでしか行えない卑しい戦略は終焉を迎えつつある。残念ながら人間が夢見ていた、狂気の沙汰は遂には実現不可能であることが、情報の海を冷静に見つめることができる人間には可能になるだろう。

我々は秩序をもとめているのでも混沌をもとめているのではない。こうした二元的な貧弱な発想では何も創造的な活動ができないことは、もう目の前にあるという気がしている。圧倒的多数の無知な人々はまだそういった旧来の価値観にとらわれているようであるが、もうすこしスマートになっていくだろう。

数は少ない方が分かりやすいし、質は高い方がいいに決まっている。これはよりよいものというのは相対的な世界にある価値観であるからなのである。では、質も高く、なおかつ数を洪水の如く大量に生み出すためにはどうしたらいいのか。それはやはりどのような装置を設置しておくのかということにかかっているのかもしれない。

装置の設計というのは結構慎重にしなければならないが、装置もまた置換可能・バージョンアップの可能な状態で最初から設置していくのならば、もうすこし面白い遊びができるような気がする。

ヒントは意外と身近なところにある。それは既に手に入れているので、どのようにリアリゼーションできるかの問題であろう。いずれにしてもこの暑い夏が終わる頃には何らかの装置をまずはじめてみたい。

2009-07-24