globalisation/localization

グローバリゼーションの手法

  • globalisationのためにはlocalizationが必要
  • 意味の普遍化を行う時に、総体の普遍化が行われる
  • 総体の普遍化は切り抜きによって実現する
  • 配置された個は意図的に配置され、その行為の作者と意図が存在する
  • 意味をもたないグリッドによって、偶発的に分配され、母集団が形成される
  • 意味をもとない分割原理が、意味があるかの如く装う
  • 劇場的タイムラインで旋律化し意志を表現する
  • 劇場的タイムラインで旋律化し意志を表現する

強調の手法(Design of Bold Typeface)

  • 通常値を設定して、増殖分を設定する。
  • 増殖分によって加算された部分を単純化
  • 受け手のキャパシティとの調整を行う
  • その時点で、純粋に強調されたものではないが、強調されているかのように対照的に配置
  • 強調部分が、通常部分との総体的なバランスを保てるようにする。
  • 二つの要素が一つの総体として錯覚可能な状態なのか検証する

商品化可能な記号と商品化不可能な人間

このところのTwitterやBlogのブームは、溺れそうな個人が商品化可能な個人になりすまそうとする傾向が感じられて、これは非常にまずい事態である。

デジタルな世界に商品化された記号は、流通可能な状態のように見えるが、そこには商品化不可能な人間が背後にあり、リアルな世界での均衡を失いつつある。この流れが進むと記号化できていない状態で絶妙なバランスを保っている人間の能力が過小評価される危険性がある。 [この記事の続きを読む] 「商品化可能な記号と商品化不可能な人間」

ことばとして発せられる前のもの

日本人でチベットのことを研究する意味は、社会的にいえば彼らの言葉を日本語で表現することにしかほとんど意味はない。私が研究してきたツォンカパの空思想はチベット仏教史上極めて重要なものであるが、それを完璧に日本語に翻訳することなどできないものも多くある。

そしてこの翻訳不可能性の問題を考え始めるのならば、厳密にいうとほんのひとつかふたつの単語すら翻訳することができないという壁にぶちあたる。そういうことを考えたことがない人は単純に言葉を置き換えればすむと思っているが、そんなに甘いものではない。我々が「私」というこの一語を発するだけで大きな一歩を踏み出していることを決して忘れてはならない。

「言葉に依らず意味に依りなさい」「人に依らず法に依りなさい」これらは四依であるが、実はその逆のことをやっているものが多くいる。仏教の研究者といわれている人のなかにも袴谷憲昭氏のようにこの教義自体を批判してやろうと企てているものだっている。しかし彼らは忘れている。「意味」「対象」「目的」これはサンスクリット語でもチベット語でも同じ単語なのである。彼らはそれらの言葉のもっている意味空間をあたかも忘れたかのような議論をしているが、所詮日本の仏教学という非常に小さなコミュニティでごちゃごちゃいっているだけだ。

哲学者や言語学者というのはことばとして発せられる前のものを追求してきた。音楽家や芸術家もまたそうである。彼らが目指してきたものは、ローカルな言語やローカルな社会のはなしではない。我々人間が非常に長い間、この世で取組んできた、ことばにもできない、もどかしさや苦しさを吐露する、ことばとして発せられる以前のものに取組んできたのである。

無上瑜伽タントラの生起次第において、空性を把握している知の所取相が本尊として生起するという話は、まさに芸術家が創造という行為を行う賭博のような一歩を歩みだす瞬間である。その瞬間から瞬時にして構築されるものは、決して通常の理解ではあり得ないような象徴と意味が絶妙なバランスによって生み出されるべきものなのである。そういった営為が秘密とされていたのは、それを説くべく人として言葉として発せられる以前のものを瞬時にして把握できるような人間以外にはその意味が理解されることがないからである。残念ながらタントリズムの世界は、いまの日本人のような観念的で想像力のない臆病な人々には理解をこえたものである。彼らは結局はなんとなくそれをやった気になっただけであり、本当に死や無常の淵から這い上がるような気概がなければ、そういった修行など無理としか思えない。

師、佐藤慶次郎氏は「I am」とか「私が」ということをどういう風に言ったとしてもそのことばでそのことばよりももっと大事なことがあるということをしきりに教えてくださった。師をはじめとする真の芸術家たちは、そのことばとして発せられる以前のものを言語化することに長けていた人々である。私がチベット仏教への研究へと向かったのは、私なりにある異なった言語化のプロセスや構造を解明したかったからである。別にチベットが好きなわけでもなんでもなかった。彼らが築き上げた論理的に体系化された宗教的カタルシスをともなう世界がいったいどのように組み立てられているのか、ということを知りたかったからである。そしてその組み立て方を何故知りたかったのかというと、『中論』のテキストをどのように音楽にできるのか、というこの何とも面白そうことをやってみたからである。

『中論』を音楽にしてやろうと思ったのは、これは決して翻訳できない美しく織り込まれたテキストだと思ったからである。そして一章一偈だけこうやったら音に置換できるのではないか、という試みをした時点でいきづまり、その後でいろいろあったが、まだまだその後残り何百偈もまだ課題が残っている。そしてこの取り組みはまだ終わっていない。「四十にして不惑」とはよくいったものである。師、佐藤慶次郎氏はちょうど一年前名曲「カリグラフィー」の長いフェルマータの如く息を引き取られたが、私にはいまだに「野村君、君は一体どうするんだね」というあの声が聴こえてくる。四十まで残り半年くらいだ。とりあえず瑣事に惑わされないようにちょっと苦手な整理整頓からはじめたい。

入力されたことば

大量に氾濫することば。重みのないことば。
これがネットの世界であったはずだ。
それは数時間で捨てられてしまう新聞記事よりも軽い。

そんなあたり前の前提を忘れた人がいる。
何も期待しないでほしい。残念ながらここに何もヒントはない。
ただ単に空虚なことばが羅列されているだけである。
何か浅薄な知識や情報を伝染病のように流行させたいというものではない。

最近、人々は想像力を失った。ほんとは簡単なことである。
毎日沢山言葉を発している人は、ひとつの言葉にかける力の比重が軽くなる。
ときどきしか語らない人は、自然とその言葉を選ぶようになる。

真実を追求したいと希うのならば、大量のことばを入力することをまずやめてみよう。
たくさんぐだぐだいっても、人間の記憶力ってのはそんなにすぐれたものではないし、
そんなにぐだぐだといっている人のことばに耳を傾けるものなどいない。

人生を変えるようなことばはほんの小さな塊である。
人が幸福を感じるのは、ほんのわずかなカタリスティックな時にある。
恋人のほんの小さな仕草を耽溺するのが人間のもつエロスである。

何かを伝えようとする、という大それたことを考えるのをやめて、
ひとつの行為の網羅的な記録であるのが、WEBLOGである。
そこには要らない情報もあるし、要る情報もある。
書き手も勝手なことを書くわけなので、読み手も勝手に読めばいい。

過度に人に期待するのをやめるべきだ。残念だが自分で思っているほど、
人はそれほど他人に興味をもっていないし、そんな余裕もない人ばかり。

自分でやらなくても代替できるものが実は沢山ある。
会社や学校や社会は代替できなくてはならない観念的なものである。
しかしこの眼の前の空間に存在して生きることは代替できない瞬間の反復にある。
ここに書かれていることばは単なるマテリアルにすぎない。

言葉を物質化するよりも、記号として検索可能な状態で保持する方が、
記号としての言葉の本来の性質に沿っていると思う。
ただ誤解すべきではない。ことばを書いて死を乗り越えることなんてできない。
ただことばが検索可能な状態でログ化されている場合、
再び井戸を掘ろうとする人間にとって、
これほど面白く楽しいものはない。

事例は検索可能な状態でなければならない。
検索可能な記録のために今日もまた空虚なメモをここに書き残している。
もしこの空虚な言葉の文字列に意見があるのならば、
まずはこの閉ざされた画面のなかにコメントが書ける。

書き手という人間にコメントを書いてどうするのか。
言いたいことがある人はまずはその文字列があるところにコメントを書くべきだ。

「古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ」

昨日は師、佐藤慶次郎さんのすこしはやめの一周忌の会があった。青山の空は晴れ、すみきった心地よい日であった。仏教担当ということなので、師が生前愛してやまなかった般若心経と正法現蔵の愛語の箇所を唱える役を仰せつかった。

終わってから佐藤さんの本の整理などをするために、久々に荻窪のお部屋にお邪魔する。

師のオブジェの作業場はいまだ張りつめた空気にみちており、そこでは次のものが生み出されたり、次の実験が行われ、佐藤さんが「何事か」といえる何かが再現可能な状態にしてある。そこにある「球」(キュウ)の運動は再開可能な状態になっている。数ミクロンの調整が必要で、この「もの」に取組むのは、命をかけてやらなければならない。そのことを思い起こせば起こすほど、自ら戒めなければならないことをさまざまに思い出すものである。

大量の禅文献にはじまり、ダライ・ラマの本、キリスト教関係の本など、ひとつひとつの本に佐藤さんの軌跡が大量にはさまれた付箋とともに残されている。普通の人ならば買わないないような専門書のなかの専門書のようなものまで、精読されている。読者のお手本のような御方であったし、書き手のいい加減なものはすぐ見破る御方であった。

師の付箋には、必ず日付と疑問に思ったことや、問題点などが次にもういちど振り返ろうとした時に分かるようにメモされている。仏教学者や翻訳家が使っている、いわゆる「一般的にわかりやすい言葉」に置き換えたものに、「?」がよく付けられている。こういうものを見ると、翻訳に携わる人間が安易にやってしまってはいけないことを改めて痛感する。

いまは何でも簡単に手軽にできる時代になっているのではない。何でも簡単に手軽にやってしまう人がいて、それでいいと思っている人が多いわけだ。佐藤さんたちはそういう人を見ると「まあ知らないからそれが目新しくみえるんだが、それはもうやりつくされてきたことで全然面白くも何ともない」と一蹴していた。人がやりつくしてきた跡を追っているようでは、古人の求めたところに辿りつくことはできない。

バッハやモーツァルトなどいい旋律は沢山昔からある。いい音楽をききたければそれを聞けばいいという話ではない。いまここで何を行っているのか、何が行われて、それをどう取り扱うのか、この問題こそ重要なのである。それと同じようにいいことばや教えは沢山ある。仏教の本だって山のようにあるし、出版社は人にわかりやすいものを商売で沢山出版するだろう。しかしそれらは資源ゴミになる道を辿る一方である。

哲学者の研究者や芸術の研究者や仕事をしている人は山のようにいる。ただ本当に哲学をしてる人間や芸術をしている人間は極めて稀である。日本には仏教論理学の研究をしているのは山のようにいるけれども、いまだにダルマキールティの『量評釈』ですら、佐藤さんのようなものを真剣に愛で、興じることが可能な人がアクセス可能な状態にはなっていない。

人生は短くやれることは本当にちょっとしかない。佐藤さんはぼくがツォンカパの空思想についてはじめつつあったときに「野村君、我の問題とか空ってのは仏教の根本だ。そんなことをどうやって取り扱うのか、ってのはそりゃ大変なことなんだよ。まあ分かっているとは思うが、せいぜい頑張ってくれたまえ。」とおっしゃった。

師の一周忌に際して自戒すべきことは、いろいろやりすぎる時間と暇ってのはあまりないってことだ。まあせいぜいやっていくしかない。