封印された死の秘密

世界中が死を封印していることについて、ここにメモを残しておこう。

そもそも現代社会において死は封印されている。
何故その秘密は知られないし、封印されたのか、それを考えてみよう。

それはすべての人にとって未体験で初体験のこと。
誰もいままで死んだことがないし、これから死ぬこともまだ未経験である。
臨死体験に関して本などが出ているが、これらをすべて信憑性が乏しいと思っているのが普通だ。
なぜならそれを語っている人がいまも生きてるからである。

つまり「死人に口なし」だと誰しもが思っているのだ。

一方では「死を語るべからず」という風潮がある。
これはいまにはじまったことではない。孔子の時代からあるのだ。

この考え方の背景には、「死は時の終わりである」「終わりは避けられない」「終わりよりいまが大事」という考えがある。「生きていること自体意味深い」「いのちがすべて」「現実は美しい」という楽観主義が蔓延している。

死=消滅=無に帰す=あの世の人、つまり我々には関係ないので、「死を語ることは縁起が悪い」「いま語らなくてもいいんじゃない」ってことだ。しかしこれにも私たちは容易にだまされない。

「それでもあなたは秘密を知りたいのならばどうぞ」

2010-08-18

チベット仏教における空とその修習法

諸宗兼学のチベット仏教

チベット仏教はヒマラヤ山脈を中心とし、モンゴル、ロシアの一部にまで普及しているが、それは同時に異なる三つの伝統を継承している。まず僧侶の生活や行動の面については小乗仏教の伝統を採用し、厳密な戒律主義をとっている。思想面については大乗仏教の後期中観思想の伝統を採用し、仏教論理学を重視し、極めて論理的な教義体系を築いている。また日常的な儀礼や観想法など実践的な側面については、無上瑜伽タントラを中心とした密教の伝統を継承し、日常的に曼荼羅の諸尊を信仰したり、それらに対する祈祷などが儀軌の中心となっている。

こうした諸宗兼学の姿勢は、チベットの僧院が形成された過程で、インドの大僧院を模倣したことに由来している。インドの大僧院が諸宗兼学であったことはは、三蔵法師玄奘の報告にも明らかであるが、チベット仏教はその黎明期よりヴィクラマシーラ、ナーランダーといったインドの大僧院に国家事業として留学生を派遣し、多くのインド人学僧を招聘し、仏教を受容していった。こうした過程でこのような諸宗兼学の姿勢が培われ、それが今日でも基本的な仏教観として浸透している。

チベット仏教の伝統的解釈では、すべての衆生は空が分からないことによって輪起の苦海を彷徨っているとされる。釈尊がこの世に出現したその最大の目的とは、衆生済度のために空を説くことであって、仏教の中心思想は空思想にある。そしてこのことは小乗であれ、大乗であれ、顕教であれ、密教であれ、何ら変わるものではない。さまざまな異なる伝統が生まれたのは、所化の能力に応じて、空を理解するためのさまざまなレベルの知を釈尊が説かれたからであり、真実としての空性それ自体が変化するわけではない。釈尊が説かれた八万四千のすべての法蘊は、ひとりの人間が後生の一大事にめざめたのち仏の境位に至るまで歩むべき過程であり、たとえ段階的にレベルが低いのものであっても、それは実践しなくてよいものとして捨て去られることはない。

空思想で体系化されるすべての教義

インド後期の僧院仏教にあったこうした仏教観は更にチベットにおいて体系化が進み、極めて論理的な空思想を中心とした教義体系が形成されることとなった。初代ダライ・ラマ、パンチェン・ラマの直接の師であり、チベット仏教最大宗派ゲルク派の宗祖となったツォンカパは、インド仏教の論理学を縦横無尽に使い、徹底的な戒律主義に基づく空思想を中心軸とする仏教の体系化を行っている。

ツォンカパによれば、「空」とは決して論理やことばを超越した真実なのではなく、仏の論理や言葉で正しく語られことが可能なものである。「すべてのものが言語によって規定される」ということが「縁起」の意味であり、「言語によって規定されない、対象それ自体の側から成立しているものが無い」ということが「空」の意味であるとされている。

またツォンカパの空思想に特徴的な理論に「否定対象の確認」というものがある。これは空を理解するためには、まずそれに先行して「Xについて空である」といわれるその「X」を理解していなければならない、というものである。たとえば「ここに蛇はいない」という命題を理解する時に、その「蛇」が如何なるものなのか分からないと、「蛇が無い」「蛇について空である」ということも理解できない、ということと同様である。つまり、空を理解する、ということは、通常我々がもっている知に一体どのような欠陥があるのか、ということをを明らかにすることであって、その意味で空思想とは極めて宗教的で内省的な自己批判の営みにほかならない。

彼によれば、空の認識と我々が生来有している無明とは、ひとつの主語に対して二つの対立した命題を捉えているという対立関係がある。これは「熱い」と捉える知と「熱くない」と捉える知と同様に、どちらかひとつの選択肢しかない形式である。したがって、ツォンカパからみれば西田哲学のような「絶対矛盾の自己同一性」や「空とは有と無を超越した第三の次元である」といった命題は決して認められるものではない。空を理解する知と我々が生来有している無明とのこの対立関係こそが、一方が有るときには、もう一方が起こり得ないという図式を可能にするのであって、それ故に空性を修習することが、輪廻の根本原因である無明を断じて成仏することを可能にしている。そして対象としての空は仏教全体を通底するものとして位置付けられ、その空を理解する知のレベルの差にさまざまな仏教思想の差がもとめられている。

空を理解する知の基本形

対象としての空はすべての仏教に共通のものとされるが、それを理解する知もまた二種類しかないと限定されている。ひとつは推理であり、ひとつは直観である。これは仏教論理学の伝統的枠組みをそのまま採用したものである。三昧により空を理解する場合であれ、論理によって空を理解する場合であれ、その両方ともが正しい空の理解であり、前者は主に「止」であり、それは「虚空の如き空性」を対象とし、後者は主に「観」であり、それは「幻の如き空性」を対象としているといわれる。

空性そのものに対する三昧が安定していない最初の段階では、「あるものが空である」ということとその「空」である部分とを区別できないので、まずは推理によって空性を理解することを修習しなくてはならない。具体的にはまず「私とはそれ自体で独立して存在しているものではない」という人無我の空性を示す命題を「すべてのものは縁起している」といったそれを帰結させる論証因をもとにイメージし、その命題のさまざまな面を思索し、最終的に確定を導きだす。人無我に対する推理に確定が起これば、次にその同じ論証因を「私を構成している五蘊はそれ自体で独立して存在しているものではない」という法無我に適用する。これらの作業を何度も繰り返すことで、空性、すなわち「それ自体で独立して存在しているものではない」ということのイメージがより鮮明に心に現れるようになるのである。これらの作業は結跏趺坐して行われる場合もあるし、問答や経典の学習などを通して培うこともできる。

こうした推理を繰り返すと「XはYについて空である」という命題から「Yについて空である」という述語部分のみのイメージを取り出すことができるようになり、そのイメージも次第に明瞭になり、ある瞬間に「Xは」という主語を考えなくとも、心にそのイメージが現れるようになる。この瞬間こそが空を現観する瞬間であり、このときに空に対する直観が起こったとされる。それ以降、無数に転生し、通常は三阿僧祇劫という永い時間をかけて、この空に対する三昧を繰り返されなければならない。そしてその作業を通じ、大小さまざまな煩悩障と所知障とを順々に断じ、菩薩の初地から第十地に順にいたり、最終的に毎刹那毎に一切の対象とその空性が如実に理解できる「一切相智」を得て、仏位を究竟するのである。敢えてチベット仏教は「頓悟派」・「漸悟派」のどちらなのかと問えば、基本的に「漸悟派」であるといえるのは、このような修習法によっている。

密教によるスピードアップ

顕教で説かれる空の知を修習し成仏するには永い時間が必要であるが、密教の修行をすれば、それを高速化することができる。たとえば無上瑜伽タントラの二次第を修習すれば、最低で三年三ヶ月以内、最長でも十八回転生する間に成仏可能であるとされている。これは密教で説かれる空に対する知が、顕教のそれに比べより微細で、より強力なものであることに由来している。しかしこれはあくまでも高速道路を猛スピードで走るようなもので、ほんのすこしでも間違ってしまえば、すぐさに地獄に堕ちてしまう危険性を伴っている。
無上瑜伽タントラの修習法は「生起次第」と「究竟次第」と呼ばれる二つのプロセスがある。
まず生起次第においては、通常の我々のイメージを捨て、自らが成仏する過程、曼荼羅の諸尊が自らを取り囲む過程を何度もイメージする。具体的には、死有、中有、生有の過程を仏の法身・応身・色身を成就する過程と重ねあわせ何度もイメージし、最終的には、芥子粒ほどの大きさの微細な空間に曼荼羅の諸尊と曼荼羅が観想できるようになる。それが完成すると修行者は倶生の大楽を成就し「究竟次第」と呼ばれる即身成仏プロセスへと移行する。究竟次第では、通常死後に成就する中有の身体の代わりに「幻身」と呼ばれる身体を成就し、その後「光明」と呼ばれる段階で、死の瞬間に見える死の光明と空性を現観する智とを合体させて仏の境地へと赴くのである。

まとめ

こうしたチベット仏教の修習法はその大部分が空の修習を中心としている。仏教の根本真理として「一切法空」は自己内省的な「否定対象の確認」などの作業を通じて理解される。この点を禅的に見るのならば、チベット仏教の空思想もまた「脚下照顧」の精神から何らはずれたものでもない。これらの空観法はきわめて細かい理論や過程の組合わせで成り立っており、ミニマリズム的な色彩のつよい日本仏教や禅の手法と異なっているように見える。しかしながらそれはあくまでも仏教の伝搬過程の違いなどに由来するもので、単なる文化の違いである。近年我が国のチベット学者のなかには、チベット仏教と日本仏教との優劣をつけたり、「禅は仏教ではない」という主張を唱える者も居る。しかしこれは単なる仏法への不敬や無知から生じたものに過ぎない。紀元前に釈尊が説かれた仏教がいまもなおチベット、日本というふたつの地で息づいていること自体驚くべきことであり、そこにこそ釈尊の偉大さと尊さがあるのではないだろうか。

初出:『そうせい』善知識まんだら、2006年。