文字が詠う

文字が詠うというのはこういうことか。これが日本語なんだね。こういう文字を見ると日本語やはり変体仮名を捨てたのは最悪の文化の後退であったと思う。やはり手習いのはじめから仮名というものをこのように書くように学ぶべきだと思うこのごろである。

e0004458_1911234

書物の海

書物の海に囲まれて過ごしていくというライフスタイルを望んでいたけれども、ある時から特定の分野の書物を収集した。特にチベット語の原書を多く集めることに莫大な金額を費やしたが、いまふと思うにこれらの書物は一体だれが読むために入手されたものなのか、分からなくなってきた。ここにある書物の海は、明らかに持ち主である私が死ぬまでに読み切れない量があり、バランスを考えると、キャパシティーをオーバーしているわけだ。そもそも、多くの書物を整理するだけで何日もかかるようでは、これはまずいんじゃないかとふと思うものである。

仏教学の研究者というものは、文献学をベースに行うことが暗黙の了解となっているが、それはあくまでも書物に書かれたことばしか手がかりがないということに過ぎない。いちおう過去(つまり今より前)に文字にされたものをすべて網羅的に調査した上で、過去になかった何らかの新しい見方なり分析というものを客観的に提示するのが研究者の役割であると思ってきたが、そこには同時代にことばにならないで消えて行った人の痕跡というものを、見えないものであるかのごとく扱う乱暴さがある。このことにふと気付いた。

人間としてはことばや文字になっていないものを想像力によって補完し、そこに生きてきた様々な思い、そして意志、そういったものへ追想を巡らせることができるということは自明のことであるが、同時にすべての情報をきりなく追い求めることができないというジレンマもある。

神はその自らの姿に似せて人間をつくったというが、同時に人間は自らの姿に似た外部の構造物を時には神として建築してきたのである。そのすべてが必ずしも文字に残されなければならなかったわけではない。誰しもが生きている痕跡を残さなければいけないという原則は全くない。

行間や文字の間の意味を読み込もうとする意志も重要であったが、書物と書物のあいだにある無言のことばたちのことを忘れるべきではなかったし、そしてその書物が書かれた紙をつくった人間、文字を書いたペンなどのことも忘れるべきではない。

新しく美しいメディアに

電子ブックの開発に取り憑かれている。未だにこのメディアで何らかの新しい世界への招待状を外部に送ることができないが、少しずつやりたいことが具体的に見えてきた。今年はまた新たなはじまりの年にしたい。

やりたいこと、読みたいもの、聞きたい音、それらは最初からある程度決まっているが、ようやくそれらにふさわしいリアリゼーションの方法がいくつか分かってきた。

私は権威主義者を憎みほんとうの人間のことばを聴きたかった。だからこういうメディアを学術書の発表の場にのみしてやろうという気は毛頭ない。もちろん学術書や研究論文というものはすべて紙ではないものになるべきであると思う。

このメディアはWebと同じことができるが、Webとの違い、それは見るもの、そして読むものがフォーカスされていることであろう。それは人の手仕事のようなサイズであり、これらの小さなデバイスのなかに入り込んで我々はことばを新たにこれまでとは別のありようで咀嚼できるのである。

これまでのようにインク臭い大きなスペースは不要である。図書館の書庫の中で巨大な情報量に自分の小ささやくだらなさを隠蔽する必要はない。もはや雑沓のなかで大きな声で叫ぶ必要はない。それはまるで手で一文字ずつ書かれた恋人に向けた恋文のようにプライベートなものなのである。

空虚なことばで塗り固められたサイトの嵐のなかで、ゆさぶられながら存在することは必要はなくなるだろう。自らのものに対する愛着が原因で収集された書物を整理するために書棚を買ったりしなくていいのは絶対的にいいことである。何故ならばたとえ明日死ぬことがあっても残された人が大量に資源ゴミとして美しいことばや思索に息をふきかけるものを名残惜しみながら捨てなくていいからである。

人間には持って歩けないものも必要であるが持って歩けるものはほんの少ししかない。そんな限られた人生にふさわしいメディアが電子ブックであると思う。