日本語に訳すために

仏典のことばを日本語に訳すためには、日本語で仏の言葉を記述しなければならない。それらが果たして如何にあるべきなのか、ということはその言葉を発する者が人間としてこの世の中に如何に存在しようとしているのか、その姿勢やスタイルに依存している。

学者と呼ばれる多くの翻訳が不必要な記号でその正当性を主張せんかの如く装っているが、これはその人間のやる気のなさの表れである。何百年間もの間に多くの人間がそのことばを口に出してきたことを想像すらできない、いわばことばを使ったコミュニケーションをあきらめた廃人の落書きである。そのような状態に陥ってはいけない。我々が取扱っているものはそのような安っぽいものではない。

テキストを読むことや語学ができることなど大した問題ではない。しかしながら外国語の苦手な翻訳者がなんと多いことだろう。サンスクリット語やチベット語を取扱っている人間が、貫之やマラルメやランボーを読んだことすらないというのは致命傷なのである。

哲学書を翻訳している多くの人が、詩人になれという話ではないが、自分たちが才能に乏しい詩人になれない者であることを素直に認めた方がいいだろう。世の人々は魂のこもった愛の歌を聞きたいのであって、スポーツ新聞のゴシップ記事を読みたいわけではないのである。

ものごとが簡単に出来ないと、自閉症に陥ってしまう者が多くいる。しかし眼の前にあるその優雅で甘美な神や仏への愛を詠うことばたちに対する者は、その殻をぶち破らなければ生きていけないことを思い知るべきである。

絶望からはいあがり、ことばを日本語に訳してみよう。その日本語は間違いなくこの日本のことばなのである。それは我々落武者が振りかざす最後の剣のひとふりかもしれないが、野垂れ死するよりはましであることだけは確かであろう。