代弁者と咀嚼する者

代弁者であろうとする者は咀嚼しないことが多い。受け売りをするという窃盗のような行為に対して彼らは罪の意識を感じない。

他人のことばをまるで自らが考えて思いついたかのように述べている。ただ代弁者たちは読者よりもはるかに勝れた気質をもっている。彼らは書かれていることばを読んで思い悩んだりしないし、そのことばの意味をすぐに見出す。(ただし陳腐な意味付けに終わることの方が多いのだが……。)

ことばを咀嚼しようとする者はそのことばが他人の心や眼をえぐりとることを知っている。何故ならば代弁者たちのような低いモラルをもちあわせていないからである。しかしそれは勝れた人間であるわけではない。彼らの心はえぐられて、失明しかけた人々であるからである。

代弁者たちがことばを咀嚼しようとすること。それは代弁者たることをやめようとすることである。他人の歌をカラオケでうたうのではなく、自分の歌をうたおうとすることである。陳腐なカラオケをうたうより、川辺や海辺で飼い犬に聞かせてみたい歌が口からでるからである。

ことばをリアリゼーションする演奏家たちは、その全身全霊で歌をうたいはじめて鳥になる。実験室で餌をもらうためにうたってみせた歌ではなく、ある日その実験室の檻からでて、大空の下で大きな声でうたってみたいからである。

世の中の人たちは知っているのだろうか。人間たちが残した残飯をあさるカラスたちは、ビルの上の誰もこないアンテナの上で、さまざまな声のトーンで鳴いて見ているということを。誰にも注目されなくても、真っ黒な勇ましい躯付きのカラスたちは、夜明けに空に自らの声を刻もうとしている。何とも格好のよいものだ。

2012-01-05

肉の塊に翻弄されるひとびと

五蘊成苦もしくは行苦というのは人間の基本的欲求そのものが苦の原因であるという仏教独自の苦しみに関する洞察を表している。我々人間は肉体に対する欲求がその本能的な衝動であり、それが無常で無我であるにも関わらず、その価値を過剰評価している。

たとえば衣服住といった我々の基本的な文化領域もそのペルソナ的な存在の延長線上にあり、そのことがすべての欲望や憎悪の基盤となる主語である。殆どの認識がこのペルソナ的な存在を対象としているのであり、社会学や医学の対象もこれらのペルソナ的な存在の価値を如何に詐称して、過剰に評価したらいいのかというその方法論を説いている。

自由に対する欲求はこの本能的衝動に対する反動である。何故ならばその本能的衝動は堪え難いほどの苦しみの連鎖を生み出しており、どのような人間であってもこの肉の塊を維持すること以外にさほどやることがないからなのである。

多くのロマンチシズムは肉の塊に対する醜い執着を覆い隠すのに充分な美辞麗句をならべたてるが、最終的に肉の塊を得られたとしても、その肉の塊を消費しても何も得ることができないという悲劇に達成するしかないのである。

人間たちがこの地上で互いに肉の塊を共喰いしないために、人類の歴史が続いてきた。まだそれも発展途上であるが、肉の塊から解放される日を目指すことこそが、最終的に孤独な砂漠にたどり着かないための安全策ではないだろうか。

思い違う人々

こないだある人にあなたは人格者じゃないと言われた。そもそも人格者であることを目指したことはいままでほとんどない。

仏教に関わるのは個としてなのであって、チベット仏教を学ぶことで我々が知ることは、この狭い島国で痛みを慰め合って涙にむせんでいることの器の小ささであろう。

宗教に関わる人間はもちろんそれを通じてよりよい人間になるべく努める必要はある。しかし思い違いをしてはいけないのは、宗教はあくまでも「教え」なのであって肉体ではない。

その教えは、理想や最終的なゴールがどこかを示しているが、その理想やゴールを体現することを保証するものではない。その体現者はいることはいるが、凡人の生活を送っていてはそのようなことを実現することはできないし、聖人が市中にいて欲しいと思うのは単なる希望的な観測でしかないのではなからろうか。

それに関わればすぐによい人間になれるってことではない。むしろ自分自身がだめであると認識してこそよりよい人間になろうという決意がうまれる。他人を断罪しようとするものは、一歩たちどまり、まずは自省することからはじめてほしいものである。