仏教はネガテイブ思考

先日初対面の人に「何故そんなにネガティブ思考なのか」と言われてかなり落ち込んだ。しかし、そもそもネガティブ思考なのを変えるべきかどうか考えれば考えるほど、それが不可能に近いということしか思いつかない。

そもそも仏教を考えてみよう「常楽我浄」これは仏教とは逆のものであり、「苦・不浄・無我・無常」これは仏教の教えである。ダライ・ラマが仏教における基本教理の一番最初は「これは苦しみである」という苦諦であり、苦諦のうち苦苦・壊苦・行苦のうちの行苦を考えてはじめて仏教徒であるとおっしゃっている。これは通常苦痛であると思っていることや快楽であると思っていることはすべて苦しみに他ならないというだけではなく、通常苦痛や快楽であるとも感じていないものであっても、それは苦しみを本質としていると知りなさいということである。

すべてをまずは疑ってかかれ。これが研究者や客観的な事実や論理を重視する人間の姿勢である。

私が最初に書いた論文は「否定」とは何かということである。つまり“the negative”という事象を扱ったものである。そして私の研究テーマは「ツォンカパの空思想」である。つまりこれもまた絶対否定の世界である。さらに言えば、般若経には否定辞「a」だけしかない一字般若経というのがある。

仏教をメランコリックな教えであると評したニーチェはニヒリズムであると言われるが、実は極めて人間的であり、ニヒリズムと無の思想とは実は全く異なっている。そしてそもそもポジティブ思考には限界がある。すくなくともロマンチシズムの行く末が狂気か神秘主義しかないは、既にヨーロッパでは立証されていたのではなかっただろうか。

生のダイナミズムを説くのもいいが、事実を隠蔽する楽観主義はどうかと思う。
残念ながら人は独りで死ななければならないし、すべてを置きさって次に行かなければいけない。そもそもじとじとした濡れたあはれなネガティブ文化こそ美しき日本文化である。うつくしさ、そしてかなしさ、慈悲は相通ずるメランコリックな世界である。

思ひわびさても命はあるものを
憂きに堪へぬは涙なりけり(道因法師/千載集)

「慈悲」を「思いやり」としてしか理解できない人にはこういうことは通じないのかも知れない。しかし慈悲とは悲しくて悲しくてやりきれない気持ちなのである。だからこそ「常に泣いている菩薩」(常啼菩薩)というのがいるくらいなのだ。

もうすこしやわらかくしても、多分ポジティブな人にはこういう歌に心を揺さぶられることはないんだろう。

http://www.youtube.com/watch?v=BXWk-j5Htos