「古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ」

昨日は師、佐藤慶次郎さんのすこしはやめの一周忌の会があった。青山の空は晴れ、すみきった心地よい日であった。仏教担当ということなので、師が生前愛してやまなかった般若心経と正法現蔵の愛語の箇所を唱える役を仰せつかった。

終わってから佐藤さんの本の整理などをするために、久々に荻窪のお部屋にお邪魔する。

師のオブジェの作業場はいまだ張りつめた空気にみちており、そこでは次のものが生み出されたり、次の実験が行われ、佐藤さんが「何事か」といえる何かが再現可能な状態にしてある。そこにある「球」(キュウ)の運動は再開可能な状態になっている。数ミクロンの調整が必要で、この「もの」に取組むのは、命をかけてやらなければならない。そのことを思い起こせば起こすほど、自ら戒めなければならないことをさまざまに思い出すものである。

大量の禅文献にはじまり、ダライ・ラマの本、キリスト教関係の本など、ひとつひとつの本に佐藤さんの軌跡が大量にはさまれた付箋とともに残されている。普通の人ならば買わないないような専門書のなかの専門書のようなものまで、精読されている。読者のお手本のような御方であったし、書き手のいい加減なものはすぐ見破る御方であった。

師の付箋には、必ず日付と疑問に思ったことや、問題点などが次にもういちど振り返ろうとした時に分かるようにメモされている。仏教学者や翻訳家が使っている、いわゆる「一般的にわかりやすい言葉」に置き換えたものに、「?」がよく付けられている。こういうものを見ると、翻訳に携わる人間が安易にやってしまってはいけないことを改めて痛感する。

いまは何でも簡単に手軽にできる時代になっているのではない。何でも簡単に手軽にやってしまう人がいて、それでいいと思っている人が多いわけだ。佐藤さんたちはそういう人を見ると「まあ知らないからそれが目新しくみえるんだが、それはもうやりつくされてきたことで全然面白くも何ともない」と一蹴していた。人がやりつくしてきた跡を追っているようでは、古人の求めたところに辿りつくことはできない。

バッハやモーツァルトなどいい旋律は沢山昔からある。いい音楽をききたければそれを聞けばいいという話ではない。いまここで何を行っているのか、何が行われて、それをどう取り扱うのか、この問題こそ重要なのである。それと同じようにいいことばや教えは沢山ある。仏教の本だって山のようにあるし、出版社は人にわかりやすいものを商売で沢山出版するだろう。しかしそれらは資源ゴミになる道を辿る一方である。

哲学者の研究者や芸術の研究者や仕事をしている人は山のようにいる。ただ本当に哲学をしてる人間や芸術をしている人間は極めて稀である。日本には仏教論理学の研究をしているのは山のようにいるけれども、いまだにダルマキールティの『量評釈』ですら、佐藤さんのようなものを真剣に愛で、興じることが可能な人がアクセス可能な状態にはなっていない。

人生は短くやれることは本当にちょっとしかない。佐藤さんはぼくがツォンカパの空思想についてはじめつつあったときに「野村君、我の問題とか空ってのは仏教の根本だ。そんなことをどうやって取り扱うのか、ってのはそりゃ大変なことなんだよ。まあ分かっているとは思うが、せいぜい頑張ってくれたまえ。」とおっしゃった。

師の一周忌に際して自戒すべきことは、いろいろやりすぎる時間と暇ってのはあまりないってことだ。まあせいぜいやっていくしかない。