入力されたことば

大量に氾濫することば。重みのないことば。
これがネットの世界であったはずだ。
それは数時間で捨てられてしまう新聞記事よりも軽い。

そんなあたり前の前提を忘れた人がいる。
何も期待しないでほしい。残念ながらここに何もヒントはない。
ただ単に空虚なことばが羅列されているだけである。
何か浅薄な知識や情報を伝染病のように流行させたいというものではない。

最近、人々は想像力を失った。ほんとは簡単なことである。
毎日沢山言葉を発している人は、ひとつの言葉にかける力の比重が軽くなる。
ときどきしか語らない人は、自然とその言葉を選ぶようになる。

真実を追求したいと希うのならば、大量のことばを入力することをまずやめてみよう。
たくさんぐだぐだいっても、人間の記憶力ってのはそんなにすぐれたものではないし、
そんなにぐだぐだといっている人のことばに耳を傾けるものなどいない。

人生を変えるようなことばはほんの小さな塊である。
人が幸福を感じるのは、ほんのわずかなカタリスティックな時にある。
恋人のほんの小さな仕草を耽溺するのが人間のもつエロスである。

何かを伝えようとする、という大それたことを考えるのをやめて、
ひとつの行為の網羅的な記録であるのが、WEBLOGである。
そこには要らない情報もあるし、要る情報もある。
書き手も勝手なことを書くわけなので、読み手も勝手に読めばいい。

過度に人に期待するのをやめるべきだ。残念だが自分で思っているほど、
人はそれほど他人に興味をもっていないし、そんな余裕もない人ばかり。

自分でやらなくても代替できるものが実は沢山ある。
会社や学校や社会は代替できなくてはならない観念的なものである。
しかしこの眼の前の空間に存在して生きることは代替できない瞬間の反復にある。
ここに書かれていることばは単なるマテリアルにすぎない。

言葉を物質化するよりも、記号として検索可能な状態で保持する方が、
記号としての言葉の本来の性質に沿っていると思う。
ただ誤解すべきではない。ことばを書いて死を乗り越えることなんてできない。
ただことばが検索可能な状態でログ化されている場合、
再び井戸を掘ろうとする人間にとって、
これほど面白く楽しいものはない。

事例は検索可能な状態でなければならない。
検索可能な記録のために今日もまた空虚なメモをここに書き残している。
もしこの空虚な言葉の文字列に意見があるのならば、
まずはこの閉ざされた画面のなかにコメントが書ける。

書き手という人間にコメントを書いてどうするのか。
言いたいことがある人はまずはその文字列があるところにコメントを書くべきだ。