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	<title>Memorandum of Experiments</title>
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	<description>Shojiro Nomura Workshop</description>
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		<title>チベットの焼身自殺の原因は我々にもある。</title>
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		<pubDate>Tue, 07 Feb 2012 18:05:29 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
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		<category><![CDATA[チベット問題]]></category>

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		<description><![CDATA[チベットの人々、特に若者や僧侶、尼僧たちが焼身自殺をしている。もはや抵抗することすらできない人々や未来を描くことができない若者が自らの肉体を火にくべて訴えている。 しかしこの一連の持続した焼身自殺の原因は、中国政府にだけあると間違って認識してほしくない。こうした事件の原因は、日本人の我々にもあるし、それが何故なのか考えればわかることである。 私は焼身自殺のことを考えるたびに自らの無力さを感じる。この状況を改善するための何らかの努力をしたいと考え、できる限りのことはやっているつもりである。彼らが焼身自殺し続けている原因は間違いなく私とその延長線上であるこの日本の社会に一部あることだけは間違いないのである。 チベット本土の人たちの悲痛は国際社会に届いていると思っている楽観的な人もいるかもしれないが、それが具体的に彼らが感じられる形では届いていないのは事実である。そして我々日本人がチベット人の声に耳を傾けていると思い違いするのは勝手だが、具体的に彼らがチベット人が自分たちの声が我々の耳に届いていると感じられなければ無意味である。 彼らの決死の訴えが近年も無視されつづけていたことを端的に表す事実として、チベット側と中国政府側との対話が断絶していることがあげられる。国際社会がその状況に改善を望めば、国際社会のなかで生きて行こうとしている中国政府も必ずチベットをはじめとする国内の人権状況を改善しなければなくなる。それは決して不可能ではない。しかし実際にはどうだろうか、チベットの状況は改善されるどころか、悪化する一方で、中国政府はより多くの兵士を動員したり、戦車や機関銃でチベット人たちの肉体を骨の奥底から脅している。 先日も日隅一雄という弁護士が焼身自殺を「自虐ネタ」だとして釈明していて、数日後にもまた釈明するらしいが、そんなことはどうでもいい。彼は余命半年らしく自分の命が消えて行くことをブログなどで宣伝しているが、他人の命が消えてゆくことを冗談のネタに使えるというつまらない人間なのである。同じコミュニティの人間が死んでもどうでもいい、さっきまで元気だった隣の人が死んでも自らの名誉や仕事のために笑って過ごせたりするのは、まだ人間とはいえないだけだ。 チベットの問題は、チベットの人たちだけの問題ではない。それは我々人間全体にあるひとつの問題である。チベットの人々は中国に侵略されて現在苦難を味わっている原因は、過去に自分が為した業の結果であると考えているが、その業の結果が起こりつづけていることは我々人間社会に住んでいる人間ひとりひとりにその責任がある。すくなくとも我々が住んでいると考えているこの小さな日本の社会では、自由をもとめて焼身自殺することが連続して起きることなどないのである。 チベットの若者の命が次から次へと燃えて消えてしまっている現象が起こった原因に我々も無関係ではない。特にこのブログを読んでいる人は、密接な関係をもっているはずだろうし、その責任を感じて欲しい。 彼らは「中国共産党政府よ、悪態をつくのをやめよ」と訴えて死んで行っているわけではない。彼らは「チベットに自由を。ダライ・ラマ法王の帰国を。」と死んでいっているのである。彼らには家族もいるし親もいる。そして友だちもいるし、我々と同じ人間社会に住んでいる人のひとりである。 彼らはニュースの映像でもないし、ネットの画像でもないし、チベット問題とか中国政府に虐げられた人とかいった陳腐なものでは決してない「人間」である。そして我々に問われていることは、「チベットシンパ」とか「チベットサポーター」とか「アジアのリーダーの日本人のひとり」とか右翼とか左翼とかそんなことではない。別に親中派だろうが親チベット派だろうが関係ないのである。 我々に問われているのは、この問題を同じ「人間」という仲間としてどう責任をとっていこうとするのか、ということである。 いま我々は自らの心にどれだけの変化を起こせるのかが問われている。 私たちは、ひとつの家族の兄弟であり、姉妹であり、そして人類というひとつの全体です。それゆえに私たちは、他者が味わっている苦しみ、子供たち、弱者たち、高齢者たち、彼らの痛みに対して無関心であることをやめ、世界全体を問題としなければなりません。 問題が起こる原因、それは私たち自分自身にあります。そしてその解決もまた私たち自身からはじまります。私たちは誰でも小さな子供の時から学んでゆかなくてはならないのです。世界を変えるのに必要な力、それはそこにあります。 広島のメッセージを宣言します。 他者の家を壊すこと、それはあなた自身の家を壊すことです。 他者の家を直すこと、それはあなた自身の家を直すことです。 優先してください。あなたの仲間、街、国だけでなく、世界全体を。 誠実であってください。あなたの仲間、街、国だけでなく、世界全体に。 見守ってあげてください。あなたの仲間、街、国だけでなく、世界全体を。 教育を受けさせてください。あなたの仲間、街、国だけでなく、世界全体に。 思いやりを与えてください。あなたの仲間、街、国だけでなく、世界全体に。 赦しを与えてください。あなたの仲間、街、国だけでなく、世界全体に。 協力してください。あなたの仲間、街、国だけでなく、世界全体で。 変化はあなたの心からはじまります。 すべての人に愛を。 「広島国際平和会議2006共同宣言」 チベットにある問題のために何ができるか悩む必要は全くない。彼らが望んでいることが何であり、そのために我々が日本人に何を望んでいるのか、ということは直接チベットの人たちに聞くことができる。そしてそれを聞いたらそれが実現できるまで努力あるのみなのである。もたもたしているだけ時間の無駄なのである。]]></description>
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		<title>代弁者と咀嚼する者</title>
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		<pubDate>Wed, 04 Jan 2012 23:01:08 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[アップデート]]></category>

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		<description><![CDATA[代弁者であろうとする者は咀嚼しないことが多い。受け売りをするという窃盗のような行為に対して彼らは罪の意識を感じない。 他人のことばをまるで自らが考えて思いついたかのように述べている。ただ代弁者たちは読者よりもはるかに勝れた気質をもっている。彼らは書かれていることばを読んで思い悩んだりしないし、そのことばの意味をすぐに見出す。（ただし陳腐な意味付けに終わることの方が多いのだが……。） ことばを咀嚼しようとする者はそのことばが他人の心や眼をえぐりとることを知っている。何故ならば代弁者たちのような低いモラルをもちあわせていないからである。しかしそれは勝れた人間であるわけではない。彼らの心はえぐられて、失明しかけた人々であるからである。 代弁者たちがことばを咀嚼しようとすること。それは代弁者たることをやめようとすることである。他人の歌をカラオケでうたうのではなく、自分の歌をうたおうとすることである。陳腐なカラオケをうたうより、川辺や海辺で飼い犬に聞かせてみたい歌が口からでるからである。 ことばをリアリゼーションする演奏家たちは、その全身全霊で歌をうたいはじめて鳥になる。実験室で餌をもらうためにうたってみせた歌ではなく、ある日その実験室の檻からでて、大空の下で大きな声でうたってみたいからである。 世の中の人たちは知っているのだろうか。人間たちが残した残飯をあさるカラスたちは、ビルの上の誰もこないアンテナの上で、さまざまな声のトーンで鳴いて見ているということを。誰にも注目されなくても、真っ黒な勇ましい躯付きのカラスたちは、夜明けに空に自らの声を刻もうとしている。何とも格好のよいものだ。]]></description>
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		<title>肉の塊に翻弄されるひとびと</title>
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		<pubDate>Wed, 04 Jan 2012 22:38:00 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[アップデート]]></category>

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		<description><![CDATA[五蘊成苦もしくは行苦というのは人間の基本的欲求そのものが苦の原因であるという仏教独自の苦しみに関する洞察を表している。我々人間は肉体に対する欲求がその本能的な衝動であり、それが無常で無我であるにも関わらず、その価値を過剰評価している。 たとえば衣服住といった我々の基本的な文化領域もそのペルソナ的な存在の延長線上にあり、そのことがすべての欲望や憎悪の基盤となる主語である。殆どの認識がこのペルソナ的な存在を対象としているのであり、社会学や医学の対象もこれらのペルソナ的な存在の価値を如何に詐称して、過剰に評価したらいいのかというその方法論を説いている。 自由に対する欲求はこの本能的衝動に対する反動である。何故ならばその本能的衝動は堪え難いほどの苦しみの連鎖を生み出しており、どのような人間であってもこの肉の塊を維持すること以外にさほどやることがないからなのである。 多くのロマンチシズムは肉の塊に対する醜い執着を覆い隠すのに充分な美辞麗句をならべたてるが、最終的に肉の塊を得られたとしても、その肉の塊を消費しても何も得ることができないという悲劇に達成するしかないのである。 人間たちがこの地上で互いに肉の塊を共喰いしないために、人類の歴史が続いてきた。まだそれも発展途上であるが、肉の塊から解放される日を目指すことこそが、最終的に孤独な砂漠にたどり着かないための安全策ではないだろうか。]]></description>
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		<title>思い違う人々</title>
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		<pubDate>Wed, 04 Jan 2012 22:32:24 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[アップデート]]></category>

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		<description><![CDATA[こないだある人にあなたは人格者じゃないと言われた。そもそも人格者であることを目指したことはいままでほとんどない。 仏教に関わるのは個としてなのであって、チベット仏教を学ぶことで我々が知ることは、この狭い島国で痛みを慰め合って涙にむせんでいることの器の小ささであろう。 宗教に関わる人間はもちろんそれを通じてよりよい人間になるべく努める必要はある。しかし思い違いをしてはいけないのは、宗教はあくまでも「教え」なのであって肉体ではない。 その教えは、理想や最終的なゴールがどこかを示しているが、その理想やゴールを体現することを保証するものではない。その体現者はいることはいるが、凡人の生活を送っていてはそのようなことを実現することはできないし、聖人が市中にいて欲しいと思うのは単なる希望的な観測でしかないのではなからろうか。 それに関わればすぐによい人間になれるってことではない。むしろ自分自身がだめであると認識してこそよりよい人間になろうという決意がうまれる。他人を断罪しようとするものは、一歩たちどまり、まずは自省することからはじめてほしいものである。]]></description>
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		<title>触る音からはじまった</title>
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		<pubDate>Wed, 21 Dec 2011 16:55:14 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[アップデート]]></category>

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		<description><![CDATA[触る音、飛来する音というのがある。それは風や光や電波である。 空気の振動によって発生する音波を10hzからどんどん周期を落としていくとそれは波形ではなく、単なる揺れになる。どんなに高価なスピーカーでも1hz以下の波形は再生できないし、30khz以上の高音を聴き取ることができる人はいない。聴覚をいくら研ぎ澄ましても電波を聴ける人はいないし、光線を聴ける人はいない。 物質の振動の周期が極めて遅い場合にはそれは揺れとか一つのイベントである。しかしそのひとつひとつのイベントの時間的感覚を縮めていくことで人はそれを連続する事象であると認識する。 連続する事象が特定の類似する反復パターンをもてば、そこに認識パターンの記憶を保持することから、意味を形成することができる。意味を形成する能力と用途を果たす能力と対象形成能力はダルマキールティの場合には同一視されることを考えると、複数性からイデアが生み出されるといえる。 チベット仏教で客体が「知の客体となり得るもの」と定義されているがこれはまさにこの人間の知的習性をよく観察したものであるといえる。 先ずは昔この辺りまで考えたことを思い出してこれをひとつの材料にしておく。]]></description>
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		<title>複雑な構造への憎悪を捨てる</title>
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		<pubDate>Tue, 16 Aug 2011 12:44:10 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[アップデート]]></category>

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		<description><![CDATA[ものごとが複雑であるのがいやな人が多い。 何でも簡単に素早く済ませたいのが最近の流行である。複雑な哲学書を簡単な命題に置き換えたりするのが殆どの人は好きである。 もちろん棺桶に入る時に入れることができないものの方が多いので、 私たちが持っているもののその殆どが不必要なものである。 人間ひとりが生きることは簡単ではない。だからひとりの人間が持っている情報量は無限大くらいある。どんな大きなハードディスクにも収まりきれない大容量なのである。ウェブが今年で20年を迎えたそうだが、これで世の中が変わったなどと錯覚していては、気が狂っている。 世の中には我々の想像を遥かに超えている現象は沢山あるし、どうしても隣にじっと座れない人も沢山いる。文化のちがいやバックグラウンドの違いは致命的であるが、だからといってみんな同じだと気持ちが悪くて吐くだろう。 仏教徒は仏教のことだけ考えておけばよかったというのなら、誰も苦労したりしないだろう。そんなにものごとは単純ではないのである。 言語というものは多層構造をもっている。めんどくさいが、仕方ない。仏教的にいえば、これが行苦そのものなのである。]]></description>
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		<title>日本語に訳すために</title>
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		<pubDate>Sun, 24 Jul 2011 12:06:36 +0000</pubDate>
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				<category><![CDATA[アップデート]]></category>

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		<description><![CDATA[仏典のことばを日本語に訳すためには、日本語で仏の言葉を記述しなければならない。それらが果たして如何にあるべきなのか、ということはその言葉を発する者が人間としてこの世の中に如何に存在しようとしているのか、その姿勢やスタイルに依存している。 学者と呼ばれる多くの翻訳が不必要な記号でその正当性を主張せんかの如く装っているが、これはその人間のやる気のなさの表れである。何百年間もの間に多くの人間がそのことばを口に出してきたことを想像すらできない、いわばことばを使ったコミュニケーションをあきらめた廃人の落書きである。そのような状態に陥ってはいけない。我々が取扱っているものはそのような安っぽいものではない。 テキストを読むことや語学ができることなど大した問題ではない。しかしながら外国語の苦手な翻訳者がなんと多いことだろう。サンスクリット語やチベット語を取扱っている人間が、貫之やマラルメやランボーを読んだことすらないというのは致命傷なのである。 哲学書を翻訳している多くの人が、詩人になれという話ではないが、自分たちが才能に乏しい詩人になれない者であることを素直に認めた方がいいだろう。世の人々は魂のこもった愛の歌を聞きたいのであって、スポーツ新聞のゴシップ記事を読みたいわけではないのである。 ものごとが簡単に出来ないと、自閉症に陥ってしまう者が多くいる。しかし眼の前にあるその優雅で甘美な神や仏への愛を詠うことばたちに対する者は、その殻をぶち破らなければ生きていけないことを思い知るべきである。 絶望からはいあがり、ことばを日本語に訳してみよう。その日本語は間違いなくこの日本のことばなのである。それは我々落武者が振りかざす最後の剣のひとふりかもしれないが、野垂れ死するよりはましであることだけは確かであろう。]]></description>
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		<title>ダライ・ラマ法王と極東日本の仏教</title>
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		<pubDate>Fri, 24 Jun 2011 17:07:20 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[アップデート]]></category>
		<category><![CDATA[チベット問題]]></category>

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		<description><![CDATA[日本人にとって、仏教は遠い海の向うのインドの宗教である。その教えは模倣すべき見本であった漢人たちを魅了していたので、それが価値のあることは分かっていたが、一体どんな人がどのようなスタイルで実際にその宗教を担ってきたのかを実際に眼にしたことがなかった。島国に棲む臆病だがヒステリックな人々にとって、仏教がもたらした建築技術をはじめとする最先端の文化の魅力はその恐怖を覆い隠すだけの充分な代償であったからこそこの国には仏教というものが取り入れられることとなったのである。 十一世紀に朝鮮半島からやってきたユーラシア大陸の覇者であったモンゴル人たちの恐怖とスペインからやってきた宣教師たちは、この島国を混乱に陥れた。その結果、最終的には三百年もにわたる「鎖国」という選択へと陥れたのと同時に、中央アジアの仏教の潮流とは交流が断絶した。その後黒船とともにがやってきて、過去の価値観は完全に役にたたぬものとなったが、それでも西洋人にこの小さな島を奪われないように、西洋人のまねをして暮らすことを覚えた。もともとヒステリックであった日本人が生来もっていた「帝国主義」でアジアを支配する夢を描いたが、その夢はアメリカという巨大な国と二発の原子爆弾によって粉々に砕けちったのである。その後軍事力も何ももてない日本人たちは、「経済重視」というスローガンですべての問題を解決しようとしてきた。この国ではいつしか政治と宗教はタブーとなり、仏教界に生きる人たちにとっても業報輪廻は語るべきではない差別問題へとすり替えられてしまったのである。 ダライ・ラマ法王とチベットの仏教徒たちは、そんな日本に直接やってきた。日本人と顔もよく似た彼らは、国外に流浪の民となったにも関わらず、これまで日本では誰も触れることができなかった本格的なインドの大乗仏教の延長線にあるものをもっていた。当初チベットの仏教は「ラマ教」と蔑視され、対中関係のなかで微妙な問題を回避するために無視された。 　しかしながら、最近になってそんな簡単に無視するべきものでもないことに漸く気付き始めた。ダライ・ラマ法王が獅子座の上から人々に語りかける、人間であることの価値や宗教に対する真摯な態度、そして我々が過去には論理的に学ぶ術すらもたなかった四聖諦や空性に関する論理的な説明、芳醇でシステマティックな密教の修行法などがいま多くの日本人を魅了しはじめている。 長い間、本当のインド大乗仏教の伝統に触れたことがなかったこの日本でその教えがあらたな文化の創造へとつながるにはまだ時間がかかるだろう。ダライ・ラマ法王やチベット仏教徒たちがもたらすものは、インド仏教の延長線上にあるスタンダードな仏教の総合的な教義体系とそれを人生のさまざまな場面に活かすためのサンプルである。日本人にとっての仏教の歴史はいま確実に変わりつつあるものであり、長い仏教の受容史を考えれば、我々はいまその大きなターニングポイントを目撃しつつある。 歴史上はじめて来日したダライ・ラマ十四世法王が降らす仏法の雨は確実にこの狭い島国の大地を潤し、新たな発芽を迎えつつある。今後それが成長し、どのような花を咲かせるのかは分からないが、その花が美しくかけがえのないものとなることだけは確実ではないかと思われてならない。]]></description>
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		<title>仏教の研究をするために</title>
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		<pubDate>Tue, 17 May 2011 22:50:31 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[アップデート]]></category>
		<category><![CDATA[Tibetan Studies]]></category>

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		<description><![CDATA[仏教の研究をするということは、読み下すのならばブッダの教えを研ぎすました感性で究明しようとすることである。それは決して「仏教」というジャンル分けをされたものを対象として、そのものを客観的に社会に提示するためにその芳醇な要素を篩にかけて、捨ててしまうことではない。 しかしながら、最初に「研究」をしようと思ったころや、それに対する研究に必要最低限なスキルを身につけるための努力をしているうちにそういうことを忘れてしまう人が多い。 仏教の研究者になろうと思ったころには、サンスクリット語、チベット語、漢文、パーリ語などなど学ばなければいけないものが多い。それらの語学を学ぶうえでは、語学能力の向上のためにそれらの言葉を使っている人たちのことをもっと知らなければならない。何故ならば、その言葉がどのような意味であるのか、ということは、あくまでもその言葉を発する人に対する思いやりというか、想像力から理解されるものであるからである。 たとえば現代の仏教学では仏教論理学というものが非常に注目されてきた。これは仏教にまつわる文化の担い手たちが宗教やブッダの教えというこの巨大な象をどのようにあつかっていいのか分からないという不安を代償としたものである場合が多かったと思う。モダニズムではなくて古典主義になった人々は、たとえば新しい写本の発見といった、古い実在的な価値観から解放されることなく、むしろ崩壊したモダニズムのなかで少ない実在的な価値に命をかけてきたといってよいだろう。しかし、この世を見てみよう、骨抜きになった魚のように、教えの輝きを失った仏教学は、人々の心を揺さぶることができないまま、社会はもっと悪くなっているのである。 我々はほんの少しの周りの人と同時代の人たちのために生きている。それらの人たちのなかで一体自分というものがどのような位置に立つべきなのであり、どのようにこの「私」という記号を人々のなかで面白い存在にするべきなのか、ということは誰しもが考えなければいけないことである。しかし、そのような事実を直視することの恐怖に脅えている。 ある人がお前は論文を沢山書いてないなといったことがある。つまらない論文を沢山書くくらいならば『中論』のようなものを書きたいとこれらの人は思ったことはないのだろうか。決して多くを語ることが重要ではないはずである。適材適所に言葉をちりばめて、その仕掛けを人々がどのように楽しんでくれるのかとういことを考えるのは、小さな楽しみであるはずである。それらのことを日常の雑事に追われて忘れてしまっていることが多い。 我々は毎日問いかけなければならない。ブッダはいまもここにいて何を我々に教えているのか。彼らの言葉をまず性格に理解することをはじめ、そしてその教えを感受することから仏教の研究ははじまる。]]></description>
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		<title>ものつくりとものがたり</title>
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		<pubDate>Thu, 12 May 2011 17:05:31 +0000</pubDate>
		<dc:creator>admin</dc:creator>
				<category><![CDATA[アップデート]]></category>

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		<description><![CDATA[いろいろなものがある。 それらには作り手の生きる意志が宿されたものもあるが、そうでないものも沢山ある。作り手の意志がそこに宿っている場合には、もはやその作り手がいなくなっても大丈夫である。それらはものとして永遠に何かを語りかけている。 言語に頼ることなく、その語りかけるものをつくりたいと思ってきたが、日々の雑事に追われてものをつくるということ、あるものを生み出すということが容易ではないことを時々忘れている。ただものをつくり出すことと排泄することとは違う。ものを受け取るということとそれを消費することとは異なっている。 むかしある武士がいた。 彼と私はひょんなことで出会ったが、彼は生涯武士であった。彼はさまざまなものに名前をつけたし、さまざまなものを愛でることを知っていた。しかし彼はものをつくることはできなかった。そこで若く生意気な私は彼に落武者の雅を感じ、見限ることとなった。 いま思えば彼はものをつくりたいというその欲望を実現できる立場ではなかった。それが武士であることの限界なのではなかったろうか。家というものに住み、彼には責任があった。ものをつくるためにすべてを投げ出してしまうことだけは彼にはできなかったのだろう。 彼に私は自分の行く末をみるような気がして、そのうち彼とは別の、ほんとうにものをつくり出す人のもとへと去ってしまうこととなった。そしてその行為そのものが私が何らかの変化を遂げたいという意志そのものであったような気がする。 それから大分年月が経ってしまった。逃げるようにして去っていった私は彼の死に立ち会うことなく、そして彼との別れをすることなく、彼は去って行った。彼に再び会いたいと思ったことは何度かあるが、少なくとも自分自身が作り手のひとりになるまでは、彼には会えないのではないかという気がしていたことも確かである。 彼に再び会うことができる日はついに来ないまま、終わってしまった。それはまだ自分が充分に彼が愛でるような対象を生み出せなかったことの証拠であろう。 ものがたりをつくることは容易ではない。それを彼がいまも静かに私に教えてくれている。彼があの冬の寒い日に私にくれたあの大地が震えた一瞬を私は忘れない。彼を弔うためには、再びそれを生み出すために真剣に取組む必要がある。]]></description>
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