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	<title>Memorandum of Experiments &#124; Shojiro Nomura Workshop</title>
	<link>http://www.kokonor.com/shojiro</link>
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		<title>封印された死の秘密</title>
		<description><![CDATA[世界中が死を封印していることについて、ここにメモを残しておこう。 そもそも現代社会において死は封印されている。 何故その秘密は知られないし、封印されたのか、それを考えてみよう。 それはすべての人にとって未体験で初体験のこと。 誰もいままで死んだことがないし、これから死ぬこともまだ未経験である。 臨死体験に関して本などが出ているが、これらをすべて信憑性が乏しいと思っているのが普通だ。 なぜならそれを語っている人がいまも生きてるからである。 つまり「死人に口なし」だと誰しもが思っているのだ。 一方では「死を語るべからず」という風潮がある。 これはいまにはじまったことではない。孔子の時代からあるのだ。 この考え方の背景には、「死は時の終わりである」「終わりは避けられない」「終わりよりいまが大事」という考えがある。「生きていること自体意味深い」「いのちがすべて」「現実は美しい」という楽観主義が蔓延している。 死＝消滅＝無に帰す＝あの世の人、つまり我々には関係ないので、「死を語ることは縁起が悪い」「いま語らなくてもいいんじゃない」ってことだ。しかしこれにも私たちは容易にだまされない。 「それでもあなたは秘密を知りたいのならばどうぞ」]]></description>
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		<title>紙に学術情報を書いて何か意味があるのか</title>
		<description><![CDATA[紙に文字や文章を書くことは人間の手仕事と関係しているが、紙の情報というのは実はこの世にあるすべての情報を書き残すのには不向きである。ここには言葉に対する過信だけではなく、既存のメディアに対する無批判な思考の現れている。]]></description>
		<link>http://www.kokonor.com/shojiro/archives/381</link>
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		<title>globalisation/localization</title>
		<description><![CDATA[総体の普遍化は切り抜きによって実現する]]></description>
		<link>http://www.kokonor.com/shojiro/archives/325</link>
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		<title>商品化可能な記号と商品化不可能な人間</title>
		<description><![CDATA[このところのTwitterやBlogのブームは、溺れそうな個人が商品化可能な個人になりすまそうとする傾向が感じられて、これは非常にまずい事態である。 デジタルな世界に商品化された記号は、流通可能な状態のように見えるが、そこには商品化不可能な人間が背後にあり、リアルな世界での均衡を失いつつある。この流れが進むと記号化できていない状態で絶妙なバランスを保っている人間の能力が過小評価される危険性がある。 Twitter ハッシュタグをもちいたスパム認識ロボットの基本は、商品化される記号をブロックするものであるが、それをすり抜けることはそんなに大変ではない。世の中にはSEO対策のための会社や商売があるくらいなので、人間の顔をした会社であったり、人間の顔をした機械が多く存在することになる。 ブログなどのコメントというのは、双方向のコミュニケーションを可能にしたが、そこには捨てられてしまう体験が多くある。個人レベルでの言論のダイナミズムを記録する手段が近年開発されているが、現状では、内輪や小さなコミュニティでのマスターベーションのような状態から脱却できてはいない。 コンテンツプロバイダーは、いわゆるライターとかブロガーといわれる人に、「労働という対価」によって商品を「無償で」つまりリスクを追わせない形で提供して、都合のいいコメントを書いてもらおうとするが、結局消費者は「有償で」というリスクを追った形でものを消費するわけであるので、ここにはコミュニケーションの質が異なっているという問題があるわけだ。 受動的にしかものを受け取れない、忙しい我々は、ここに白紙を期待しているのではなく、何らかの契機を期待してやってきているのである。この装置がどのようにリアルな物質世界と関わるのか、というのはまだまだこれからの話である。ウェブという発明は、まだ100年間もたっていない。まだまだこれからである。]]></description>
		<link>http://www.kokonor.com/shojiro/archives/324</link>
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		<title>ことばとして発せられる前のもの</title>
		<description><![CDATA[翻訳不可能性の問題を考え始めるのならば、厳密にいうとほんのひとつかふたつの単語すら翻訳することができないという壁にぶちあたる。そういうことを考えたことがない人は単純に言葉を置き換えればすむと思っているが、そんなに甘いものではない。]]></description>
		<link>http://www.kokonor.com/shojiro/archives/313</link>
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		<title>入力されたことば</title>
		<description><![CDATA[大量に氾濫することば。重みのないことば。 これがネットの世界であったはずだ。 それは数時間で捨てられてしまう新聞記事よりも軽い。 そんなあたり前の前提を忘れた人がいる。 何も期待しないでほしい。残念ながらここに何もヒントはない。 ただ単に空虚なことばが羅列されているだけである。 何か浅薄な知識や情報を伝染病のように流行させたいというものではない。 最近、人々は想像力を失った。ほんとは簡単なことである。 毎日沢山言葉を発している人は、ひとつの言葉にかける力の比重が軽くなる。 ときどきしか語らない人は、自然とその言葉を選ぶようになる。 真実を追求したいと希うのならば、大量のことばを入力することをまずやめてみよう。 たくさんぐだぐだいっても、人間の記憶力ってのはそんなにすぐれたものではないし、 そんなにぐだぐだといっている人のことばに耳を傾けるものなどいない。 人生を変えるようなことばはほんの小さな塊である。 人が幸福を感じるのは、ほんのわずかなカタリスティックな時にある。 恋人のほんの小さな仕草を耽溺するのが人間のもつエロスである。 何かを伝えようとする、という大それたことを考えるのをやめて、 ひとつの行為の網羅的な記録であるのが、WEBLOGである。 そこには要らない情報もあるし、要る情報もある。 書き手も勝手なことを書くわけなので、読み手も勝手に読めばいい。 過度に人に期待するのをやめるべきだ。残念だが自分で思っているほど、 人はそれほど他人に興味をもっていないし、そんな余裕もない人ばかり。 自分でやらなくても代替できるものが実は沢山ある。 会社や学校や社会は代替できなくてはならない観念的なものである。 しかしこの眼の前の空間に存在して生きることは代替できない瞬間の反復にある。 ここに書かれていることばは単なるマテリアルにすぎない。 言葉を物質化するよりも、記号として検索可能な状態で保持する方が、 記号としての言葉の本来の性質に沿っていると思う。 ただ誤解すべきではない。ことばを書いて死を乗り越えることなんてできない。 ただことばが検索可能な状態でログ化されている場合、 再び井戸を掘ろうとする人間にとって、 これほど面白く楽しいものはない。 事例は検索可能な状態でなければならない。 検索可能な記録のために今日もまた空虚なメモをここに書き残している。 もしこの空虚な言葉の文字列に意見があるのならば、 まずはこの閉ざされた画面のなかにコメントが書ける。 書き手という人間にコメントを書いてどうするのか。 言いたいことがある人はまずはその文字列があるところにコメントを書くべきだ。]]></description>
		<link>http://www.kokonor.com/shojiro/archives/299</link>
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		<title>「古人の跡を求めず、古人の求めたるところを求めよ」</title>
		<description><![CDATA[昨日は師、佐藤慶次郎さんのすこしはやめの一周忌の会があった。青山の空は晴れ、すみきった心地よい日であった。仏教担当ということなので、師が生前愛してやまなかった般若心経と正法現蔵の愛語の箇所を唱える役を仰せつかった。 終わってから佐藤さんの本の整理などをするために、久々に荻窪のお部屋にお邪魔する。 師のオブジェの作業場はいまだ張りつめた空気にみちており、そこでは次のものが生み出されたり、次の実験が行われ、佐藤さんが「何事か」といえる何かが再現可能な状態にしてある。そこにある「球」（キュウ）の運動は再開可能な状態になっている。数ミクロンの調整が必要で、この「もの」に取組むのは、命をかけてやらなければならない。そのことを思い起こせば起こすほど、自ら戒めなければならないことをさまざまに思い出すものである。 大量の禅文献にはじまり、ダライ・ラマの本、キリスト教関係の本など、ひとつひとつの本に佐藤さんの軌跡が大量にはさまれた付箋とともに残されている。普通の人ならば買わないないような専門書のなかの専門書のようなものまで、精読されている。読者のお手本のような御方であったし、書き手のいい加減なものはすぐ見破る御方であった。 師の付箋には、必ず日付と疑問に思ったことや、問題点などが次にもういちど振り返ろうとした時に分かるようにメモされている。仏教学者や翻訳家が使っている、いわゆる「一般的にわかりやすい言葉」に置き換えたものに、「？」がよく付けられている。こういうものを見ると、翻訳に携わる人間が安易にやってしまってはいけないことを改めて痛感する。 いまは何でも簡単に手軽にできる時代になっているのではない。何でも簡単に手軽にやってしまう人がいて、それでいいと思っている人が多いわけだ。佐藤さんたちはそういう人を見ると「まあ知らないからそれが目新しくみえるんだが、それはもうやりつくされてきたことで全然面白くも何ともない」と一蹴していた。人がやりつくしてきた跡を追っているようでは、古人の求めたところに辿りつくことはできない。 バッハやモーツァルトなどいい旋律は沢山昔からある。いい音楽をききたければそれを聞けばいいという話ではない。いまここで何を行っているのか、何が行われて、それをどう取り扱うのか、この問題こそ重要なのである。それと同じようにいいことばや教えは沢山ある。仏教の本だって山のようにあるし、出版社は人にわかりやすいものを商売で沢山出版するだろう。しかしそれらは資源ゴミになる道を辿る一方である。 哲学者の研究者や芸術の研究者や仕事をしている人は山のようにいる。ただ本当に哲学をしてる人間や芸術をしている人間は極めて稀である。日本には仏教論理学の研究をしているのは山のようにいるけれども、いまだにダルマキールティの『量評釈』ですら、佐藤さんのようなものを真剣に愛で、興じることが可能な人がアクセス可能な状態にはなっていない。 人生は短くやれることは本当にちょっとしかない。佐藤さんはぼくがツォンカパの空思想についてはじめつつあったときに「野村君、我の問題とか空ってのは仏教の根本だ。そんなことをどうやって取り扱うのか、ってのはそりゃ大変なことなんだよ。まあ分かっているとは思うが、せいぜい頑張ってくれたまえ。」とおっしゃった。 師の一周忌に際して自戒すべきことは、いろいろやりすぎる時間と暇ってのはあまりないってことだ。まあせいぜいやっていくしかない。]]></description>
		<link>http://www.kokonor.com/shojiro/archives/279</link>
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		<title>2ヶ月も前にもどってしまった</title>
		<description><![CDATA[別に大したことを書いた記憶もないが、２ヶ月も前にブログがもどってしまった。]]></description>
		<link>http://www.kokonor.com/shojiro/archives/278</link>
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		<title>書くべきことがあったのでブログを復活</title>
		<description><![CDATA[書くべきことがあったのでブログを復活しました。 それにしても日本の報道ってヒステリックで国際感覚がなくて困る。 中国を馬鹿にしている人も多いけど、やつらはやはりストラテジックだ。 中央統一戦線工作部のサイトなど読んでいると日本は負けてるなって思ってしまう。 西蔵工作：http://www.zytzb.cn/09/tibet/ 宗教工作：http://www.zytzb.cn/09/religion/ とりあえずもうすぐロサル。今年こそチベットにとってよい年になりますように。]]></description>
		<link>http://www.kokonor.com/shojiro/archives/268</link>
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		<title>チベット・中国の対話の行方</title>
		<description><![CDATA[2010年1月30日、31日、北京にて統一戦線部工作部・ダライ・ラマ特使の会談が行われた。この10日間くらいこの問題の整理に追われていたが、報道発表合戦もすこし落ち着いてきたので、まとめておきたい。 まず本会談の名称であるが、これは以前から同じであるが、両サイドとも異なっている。会談のことをチベット側では「中国・チベット間の対話」と呼ぶのに対して、中国側は「中央政府の関係部門とダライ・ラマの私設代表とが接触した会談」と呼んでいる。中国側は「ダライ・ラマ帰還工作」の一環としてはじまったものである。それに対して、チベット側は過去の二国間の懸案事項についての協議と理解している。これについては過去の会談と同じである。なお本会談については前回会談の終了後、中国側も独自のウェブサイトを製作して、情報をタイムリーに配信した。 参加者は、中央統一戦線工作部側からは、杜青林（部長・政治協商会議副主席）、朱維群常務副部長、斯塔副部長、西藏自治区人大常委会副主任　尼玛次仁である。一方、ダライ・ラマ特使側は、特別代表　ギャリ・ロトゥー・ゲルツェン元大臣、特使　ケルサン・ギェルツェン元大臣、その他テンジン・アティシャほかのチベット交渉対策本部(Tibetan Task Force for negotiations)の三名である。チベット自治区の代表者が会談に参加したのは注目すべきことのひとつである。 本会談は前回の会談以来、１５ヶ月ぶりの会談となる。その経緯について特使ギャリ・ロトゥー・ゲルツェンが帰国後に行った記者会見で、「特使側から先方に会談の日程を打診した」と述べている。１月１８日〜２０日に内容的にも重要な「第五次西蔵工作座談会」が開催されるので、それに合わせてを行うこととなったと述べている。 なお、会談の申し出がいずれの側からなされたのか、ということについて、双方の記者会見以前には情報が錯綜していた。何故ならば、2008年11月にダラムサラで開催された第１回特別総会では、中国側から誠意ある回答をもとめるという形で、あたかもチベット側からはコンタクトしないというような結論がでていたからである。 しかしながら、その後３回行われた交渉対策本部会議においてチベット側から会談を再開しようという意見に微調整したと思われる。（最後の第２１回会議は本年１月２０日より二日間ダラムサラで行われた。） この経緯について朱維群は、記者会見にて以下のように述べている。 朱维群：我们在与甲日一行谈话时首先指出，从2008年11月接触商谈至今已有1年多时间，这是从2002年恢复接谈以来间隔时间最长的一次。出现这种情况，一个很重要的原因，是他们自己在2008年11月的“西藏前途特别大会”上公开宣布停止与中央的接触。即使在这种情况下，中央并没有把接触商谈的大门关上，而是耐心等待他们的觉悟。此次根据他们的请求安排这次接谈，充分体现了我们的诚意和一贯态度。（国新办就中央与达赖私人代表接触举行发布会（文字实录）） 中国側は「常に誠意のある一貫した態度をとり、ダライ・ラマ個人の処遇についての対話の門は常に開かれている”のであって、今回まで１年以上も会談が行われなかったのはダライ・ラマ側に原因がある」ということがいいたいのである。 次に会談の内容であるが、まずは双方から出された主張は以下の通りである。 （チベット側） 前回の会談の際に提出した「全チベット民族が名実共に自治を享受するための草案」（以下『草案』と略する）に変更点はなく、それをもとに再度自らの立場を確認するという意味で、以下の７点を強調するという形で主張がなされた。（うち三つは中国側が主張する所謂 “ 三つの堅持”にあたる） ダライ・ラマは中華人民共和国の主権ならびに領土を尊重する ダライ・ラマは中華人民共和国憲法を尊重している ダライ・ラマはすべてのチベット人の代表であること ダライ・ラマが望んでいることがすべてのチベット人の総意であること 中国共産党による指導の堅持（三つの堅持） 中国の特色ある社会主義路線の堅持（三つの堅持） 民族区域自治制度の堅持（三つの堅持） （中央統一戦線工作部） 今回の会談では主に中央政府の政策ならびにチベット政策についての説明がなされた。 中央政府は現在世界的金融危機の打開策に取組んでいる。 中華人民共和国成立６０周年に関するこれまでの経緯と今後の展望の説明 第５次西蔵工作座談会で話し合われた内容や今後のチベット関連の政策についての説明 チベット関係についての政策を中央政府が如何に重視しているのかの説明 これに対して双方は次のような反応をした。 （ダライ・ラマ特使側） 第５次西蔵工作座談会がチベット自治区のみではなくその他の自治県や自治州の住民の代表者もふくめて開催されたことは歓迎すべきことである。 当該座談会にて提案されたチベット全域にわたる基本方針がもしも現実に履行されるものとなるのならば、それはチベット側が『草案』にて示したものと内容的にはそれほど異ならないものである。 しかしながらそれらを実行する際には、『草案』にて示したように、チベット民族を単一の独立自治行政体で単一の政策施行体制のもとでする方がより効果的である。 これまでもこうした提案は中国側からなされているが、事実としてインドへ亡命してくるものがいる。それはチベット人に対する不当な弾圧や機会の不均等などが原因となっている。現実の状況をよく見極めることが重要である。 チベット人に関する行政指針を考えていく上では、ダライ・ラマが代弁しているチベット中央行政府の意見とすりあわせながら作業をすることが今後も重要であると思われる。 （中央統一戦線工作部の反応） そもそもダライ・ラマならびに亡命政府はチベット民族の代表権はなく、亡命政府は違憲の団体である。 チベット自治区行政府ならびに当該自治体によって全人代のみがチベット地域の主権者である。 前回提出された草案書は、憲法に違反するものである。草案で述べられている自治の枠組みは、明らかに「チベット独立」「独立を装ったもの」に過ぎない。 ダライ・ラマは「独立をもとめない」と言っているが、在外公館の襲撃などの亡命者によって多くの反政府活動が継続しており、これはダライ・ラマ側が言動不一致であり、国家の分裂を企てているものとしか思えない。また「私はインドの子供である」などと発言したり、中印の国境のアルナチャール州を訪問するなど、反体制的な活動のみが行われている。近年の行動ももそも「チベット問題」を国際問題にしようとしているのは、完全に内政干渉による国家分裂を幇助する行為である。 ダライ・ラマがこうした行為を停止するのならば、彼の帰国、さらには帰国後の個人の処遇については今後話し合う余地がある。しかしながら、亡命政府として、またはチベット人の代表者としての話し合いを行う余地はない。同時に、チベットの政策決定について意見を述べたり、意見を交換することもできない。 次回の会談の具体的な約束はしていないが、次回会談は開催予定であることを確認。 今回の会談の内容を特使はダライ・ラマに伝える旨を統一戦線部に伝えて終了した。 今回の会談で新しい点は双方が会談の後にすぐに報道発表を行い、会談の趣旨説明があったことがあげられる。これは、2008年以来、中央政府が対話に関しても内容を明らかにしてきたことによるが、前回に比べれば会談が終わりすぐに双方が記者発表することとなったのが、非常に注目に値する。 （ダライ・ラマ特使側） www.tibet.net 2010-02-02 会談後の公式声明　STATEMENT BY SPECIAL ENVOY OF [...]]]></description>
		<link>http://www.kokonor.com/shojiro/archives/259</link>
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