次の総理はダライ・ラマ法王を官邸に招くべきである

2008-09-02

いま論文やら〆切りやらいろいろ追われていて、
おいおいブログ更新してる場合じゃないだろうと突っ込まれそうなところ。

しかし、福田総理がご退陣になられたので、このタイミングで言っておきたい!!

次の総理はダライ・ラマ法王を11月に官邸に招くべきである。

これまで、ダライ・ラマ法王が公式に官邸に招かれたことはない。
日本人のサポーターはそれを実現すべく応援して欲しいということである。

何のためにか?別に理由はない。
単なる表敬訪問でもいいじゃないか。
外タレだって官邸に招かれる時代ですよ。

肩書きはノーベル平和賞受賞者という肩書きで充分である。
お役所にとって大事な先例もたくさんある。

日本政府は三月にダライ・ラマ法王と中国側との対話を促進して欲しい
そう要望を中国に伝えたではないか。

それなら、他の先進国と同じようにダライ・ラマを
公式に総理官邸に招くべきではないか。
よく話をしたらいい。

これができる総理ならば解散総選挙をやっても勝てるだろう。
そしていまのリーダーシップがないと見られている
日本政府は国際的な信頼を勝ち得るだろう。

北九州市の講演会について2chやmixiでいろいろと議論したり、
アクションをしたりしている人がいる。
ですが、みなさん、北九州市なんて小物を相手にしてもチベット問題は解決しませんよ。

だから北九州なんて相手にしなくていいので
「総理官邸にダライ・ラマと一緒に押しかけよう」というデモでもやってほしい。

民主党の方は「ダライ・ラマを何故官邸に招かないんだ」って追求して欲しい。
自分たちでこっそり会ってツーショットを撮ってもしかたがない。
国民の税金で食べているみなさんにはもっとも意味のあることをしてほしい。

あともうひとつ。

拉致問題もはやく解決すべきである。
いつまでもちんたらやるのをやめてください。

文明は暴力で破壊されている

2008-08-08

いよいよ五輪がはじまる。

チベットをはじめ人類の崇高な精神によって築き上げられてきた文明が、
暴力によって破壊され、敗北した記念の日として記憶に残したいと思う。

日本をはじめ国際社会もやはり
「この美しく調和のとれた地球の社会」を作ろうとしてたのではなく、
「物質的享受を分配する欲望」と軍事力によってしか均衡を保てない
「すべての人が財布の中身だけが気になる社会」にしがみついていること、
それが何ら恥ずかしいことでもないことを宣言する日がやってきた。

“平和の祭典”とは名ばかりである。
世界中で自己愛の延長戦である、ナショナリズムが鼓舞される。
日本のテレビ局は金メダルの数を数えるのにやっきなる。

人間の顔をした野獣たちは、
そのいま自分が立っている場所が、多くのいのちの代償を払って
存在している事実に眼を背けるだろう。

人々は知りたくない。事実は惨いものであることを。
人々は思いたいのだろう。この世は幸せな社会であると。

残念ながら、事実はその逆である。
文明は破壊され、人間のことばをしゃべろうとする人間は殺される。

「鳥の巣」はテロで壊されたWTCの鉄でできている。
そこに世界中から人間の顔をした欲望の塊が集結する。
これこそが地獄や餓鬼の社会である。

私は五輪の開催に反対したことはなかったが、
やはり明日からはじまるそのイベントに何らの意味も見いだせない。

Future calling…..

2008-07-14

iPhone発売にならんだ訳でではないが、iPhoneへと機種変更することができた。これまでのSAMSUNGの端末とはおさらばだ。これを機にこのブログもiPhone/ iPod Touchに対応する。いきなり無料アプリもたくさんインストールしてみた。大して面白いアプリもないけど、いままでの携帯電話のアプリとは格段の差である。なんせXcodeやInterface BuilderというAppleのDeveloper Toolsを使って作ったMacOS Xのアプリだからである。

iPod Touchを昨年から使っていたが、やはりiPhoneはまったく別ものであった。それは「電話」であり「ネット端末」だからである。いくらがんばってもiPod TouchはWIFIスポットがない場所では単なるiPodであった。iPhoneはWIFIスポットがなくても使える。そしてiPhoneのすごいところはやはりなんといってもこれがMacOS X で動いているところだろう。ひとつひとつの動作がCore Animationのきびきびしてかつ洗練された動きをする。iPhoneを手にすれば、もう「携帯」は不要であることは誰でも感じるだろう。

Windows Mobileという端末もいじってはみたが、所詮はWindows。Display Postscriptを使ったNeXTの後継であるMacOS Xの画面表示とは、雲泥の差である。そしてもうひとつ面白いところは、iPhoneには分厚いマニュアルは付いていない。ここがAppleの製品らしさをものがたっている。マニュアルを読まないとわからないようなインターフェースではそもそもだめなのだ。でもさすがここはサービス世界一の日本。ソフトバンクのショップではさまざまな紙の契約書や説明書をくれた。アメリカではiPhoneは買ったら自分でアクティベートするのであるが、日本はちょっと丁寧である。まあ日本らしくていいかも知れない。

残念なことにまだチベット語などのレンダリングには対応していない。iPhoneのOSがLeopardのミニチュア版なんだから、SafariのテキストエンジンもそのうちCoreTextに対応するだろう。まあそれにはフラッシュメモリーの値段がもっと下がらなくてはならない。

ぼくにとってiPhoneの最大の魅力は、マルチアカウントのメールが使えるところである。本当にもう携帯メールは要らない時代になりましたね。
この間のWWDCでは、「Future Calling…」というバナーがあったが、まさにその通り。未来がいっきにやってきた。特に気に入っているところはヘッドセットである。音質はいまいちであるが、音楽を聞いている最中にも電話がかかってくると音楽が小さくなってくれる。特に運転しながら電話をしてはいけないこのごろのご時世にはとても便利である。

あとひとついいところはiPod Touchではスピーカーがなかったのに対してiPhoneでは結構大きな音で再生することができる。なのでダライ・ラマ法王のビデオをみたりしながらいろいろできる。iPhoneにはワンセグはない。これは要らないからである。垂れ流しのメディアを楽しみたい人は、やはり日本の端末を使うしかないだろうが、このあたりの発想がAppleの文化であろう。

iPhoneでやってみたいことは、チベット論理学のコンテンツなどの制作である。こういう端末があることで新しい何かをしたいと思わせくれるところがこのiPhoneの魅力である。

これから日本の携帯メーカは一生懸命にがんばるだろうが、iPhoneの最大のアドバンテージであるOS Xを超えるものを日本の電気メーカーが作れるとは思えないので、こういう時は、ソフトウェアの開発に専念することが大事ではないだろうか。

真実、事実、そして同一基体性

2008-06-01

今年はひさびさに学会発表でもしてみようと思って、いま準備している。発表題目は「ツォンカパの空思想における絶対性」である。

1年間ダライ・ラマ法王の映像を編集しながら、チベット仏教についてその本質的な側面というものがどこにあるのか、考えてみた。そこでぼくなりにひとつの結論ではないが、視点というものを導入してみたくなったのである。それが、真実、事実、そして同一基体性ということと絶対性の問題である。これについてのチベット仏教の洞察は世界的に見ても他の追随を許さない、極めて高度なものである。

ツォンカパの空思想というものをよくよく考えてみると、立川武蔵のいうような聖なる世界と俗なる世界という二つの異なるディメンジョンではできていないということである。

これはチベット仏教が真実というものを、事実、そして存在というものと密接に関係して捉えていることによっている。ツォンカパにとって真実、事実というものは、「欺かれないもの」という定義がなされている。つまり正しい認識によってそれは獲得される対象(རྙེད་དོན་)であり་、それが獲得される場合には知に顕現しているものがその通りに存在していなければならないのである。これが顕現内容と実在内容との一致関係(སྣང་ཚུལ་དང་གནས་ཚུལ་མཐུན་པ་)་と謂われるものである。

チベット仏教の特徴として非常に現実主義的なところがあげられる。これは中国仏教のようなシュルレアリスティックな、よく言えば詩的な現実認識の視点をもっていないということである。だからこそ、空思想によって描かれる世界というものは極めて現実的なリアリスティックなイメージなのである。

チベット人にとって、そして特にゲルク派風の世界観では、現実世界と理想世界は同一基体に存在している。これはロマン派的な合一の思想では決してなく、同じ位相空間のなかの「事実」として現実世界と理想世界を位置付けることができるのである。人々はダライ・ラマ法王に観音菩薩と一体化した姿を見ることができるし、マルパのようなグルの像を描くことさえできるのである。現実に顕れるものは、自在に解釈されつつも歪曲する必要はない。本体と化生物との関係は強固に維持することができるのである。

このように考えてゆくのならば、中国的、日本的というものは、差異は消滅させられるか、もしくは隔絶化に向かわざるを得ないのに対して、チベット的、モンゴル的な土壌では、差異は同一基体上で絶妙なバランスを保ちながら保護される。絶対性もまた、超越的な思考を経る必要がなく、同一基体上で絶対者と相対者とが実現することができる。これが我々が知らないチベットの風土が編み出した世界的な叡知であることは誰もまだ気付いていないだろう。

更改しつづけることでその存在意義を有する中国的歴史観と事実関係を現実のものとして保存しながら、解釈内容によって歴史を書き換えることができるチベットとでは、どちらがインド仏教の本流を継承しているのかといえば、チベットに軍配があがるであろう。

チベット問題の解決のための対話の場に、中国側は常に歴史認識の問題を条件にあげてきている。しかし中国側がこの方針を変えない限り、両者の歩み寄りはあり得ないであろう。事実への探求、真実の追究、そして真実を確定するための方法論、これらについて中国文化がいくら頑張っても、チベット側の論理には歯が立たないであろう。

生き埋めになったチベット問題

2008-05-26

チベットで起こった大地震は「四川大地震」と名付られ、
悲しいかな日本人のチベット問題への興味をそらすのに好都合であった。

連休明けの胡国家主席の来日は日中友好モードをかもしだし、
その後、チベット問題は大地震によって文字通り「生き埋めに」なってしまったように見える。

ヒステリックな反応をしていた人は、とりあえず抗議活動ができないので、
もう終わったのだと思っているのだろうか。

島国の日本人にとってチベット問題は荷が重すぎるのだろうか。
日本から見たユーラシアやアメリカといった「大陸」は遠い存在であるが、
「大陸」から見た日本は非常に近い存在である。

そろそろ日本人もこのことを気付いた方がいいだろう。

チベット問題の深い闇

2008-05-04

一九五九年まで続いた中国人民解放軍によるチベット侵攻は、最終的にダライ・ラマ十四世をインドへ亡命させた。当初十四世の亡命も一時的なものであると誰しもが思っていた。しかし現実はその逆となり、チベットはそれ以来、深くそして重い闇の淵に沈んでいった。それは過去には一度も経験したことのない、暴力による文明の破壊行為だった。恐怖の「文化大革命」は七〇年代前半まで続き、六千五百以上あった僧院は破壊された。僧侶は還俗させられ、仏壇の仏像はゴミとして捨てられ、その代わりに毛沢東の写真が鎮座した。

「文化大革命」が終ると、鄧小平による改革開放政策がはじまった。鄧小平はチベット「独立以外の選択肢であれば、すべて対話に応じる」とダライ・ラマに告げた。一九八〇年には胡耀邦がチベット政策の誤りを認め、徐々に信教の自由が認められはじめた。ダライ・ラマは独立要求を取りやめ、数回の使節団を送り、双方にとって有益な解決策を模索した。八七年には米国議会で「五項目の和平プラン」を発表し、翌年ストラスブールでも和平案を提示した。八八年九月には、翌年一月に両者の実質的な対話が行われる予定が組まれた。誰しもがこの対話に希望の光を見出した。

しかし一九八九年は全く異なるものとなった。一月にはパンチェン・ラマが急死し、対談の約束は反故にされた。三月にはラサで抗議デモが発ったが、胡錦濤はそれを理由に徹底的な弾圧を行った。六月には天安門事件が勃発し、戦車で人間が潰されるのを世界は目撃した。同年ベルリンの壁は崩壊し、ダライ・ラマはノーベル平和賞を受賞した。しかしチベット人にとっては希望が絶望に変わった一年であった。

言論の自由は体制崩壊をもたらす、この危惧がチベット問題の解決を拒む結果をもたらした。文革時代に抑圧されていた民衆の声が結果として政策変更を引き起こし、天安門事件がそれを確証させた。結局鄧小平はチベット人に大いなる希望を与えたが、同時にその希望を絶望へと変える選択肢を選んだのである。九一年のソ連崩壊は彼らの軌道修正の正しさを立証し、チベット人たちは再び大国のエゴの犠牲になった。

鄧小平の後を継いだ江沢民、胡錦濤はこの時はじまった分離主義への弾圧と経済発展という二本柱を継承した。特に経済発展に重点をおき、国際社会への市場解放により、民主化への声を沈黙させた。この時代から徐々に偽物の「中国という国家と不可分な経済発展に裏付けられた新しいチベット文化」が作り出されはじめた。ダライ・ラマの海外での人気は、チベットを観光資源化する発想をもたらして、毛沢東の時代でさえも不可触であった、化身ラマ制度等のチベット仏教文化の奥深くまで北京政府は侵食し、昨年には次のダライ・ラマを都合よく選べる制度を法律化し、大量な移民流入を可能にする青蔵鉄道を整備し、観光産業への莫大な投資によって、チベットを巨大な見世物小屋にした。

もはやチベット問題について中国政府はダライ・ラマと対話する必要性は全くなくなった。ダライ・ラマも永遠ではないし、いつかはこの世から去るだろう。国際社会でさえチベットのために中国の巨大市場を手放しはしない。誰しもが望まない中国の体制の急激な変化、それは巨大市場の混沌化にほかならないからである。

今年の三月以来、再び多くのチベット人が自由や人権を求めて悲鳴をあげた。中国政府は北京五輪前に「独立チベットを叫ぶ暴力的テロリスト、ダライ集団」が「オリンピック・ボイコット」を叫んでいると争点をすり替えた。チベット人への抑圧は、世界公認の「テロとの戦い」として正当化しつつある。二十代前半の未来あるべき若者たちの屍の山が積まれ、家畜のように人間が連行されている。女子供も眠れない日々がいまも続いている。もはや信仰心しか残っていない人々の心をナイフでえぐり出す「愛国教育」の集会が各地で行われ、彼らの信じる観音菩薩は実は鬼であるし、彼らを救わないという発言が強制させられている。

この深い闇は一体いつになったら明けるのだろうか。チベットの人たちは反日教育で知っている。東には日本という大乗仏教の伝統をもった先進国があることを。そしてその国はかつて中国を震撼させ、ダライ・ラマ十三世のインドからの帰国を実現してくれた巨大な仏教国である。チベットの人たちの小さな押し殺された断末魔の声は、日本の仏教徒の心に届いているのだろうか。私たち日本人とよく似た顔をした、私たち日本人と同じ釈尊の弟子たちがいま死んでいる。

対話再開の意思表示が意味するもの

2008-04-26

中国政府が遂にダライ・ラマとの対話を再開するというメッセージを出してきた。この対話再開とは何を意味するのか。これまでの対話で何か成果がでたというのか。

人が死んでいる。そして人が捕まっている。

国際社会はこの対話と名のついている単なるパフォーマンスにだまされてはならない。対話とはお互いが譲歩しながら、どこかで和解の点を見つけなければならない。たんなる会話ではないのである。

水面下での対話は何度もやってきた。しかしそれでいままで解決しなかったではないか。対話をするためには第3者がいるところでやらなければ意味がない。

我々が求めているのは全面的な解決である。もう単なるパフォーマンスでは許されない。

チベット問題とオリンピック

2008-04-25

この数日間、チベットに関する新しいニュースを封じ込めつつある中国政府はインターネットを通じて、大量な情報発信を行なっている。そんななかで最近気になるニュースがぽつぽつ出てきたので、ちょっとメモしておきたい。気になるニュースとは小葉(西蔵文化保護発展協会副会長)の書いた「拉薩事件三思」と題される記事である。これは人民網日本語版に掲載されているので、まずは全文を引用したい。

今日の拉薩(ラサ)はすでに以前の落ち着きを取り戻している。暗雲は次第に吹き払われ、雪山は今も神聖純潔だ。騒々しく揺れ定まらぬ中、「三思」を試みるのも良かろう。(文:小葉・西蔵文化保護発展協会副会長)

一思、「オリンピックボイコット」は誰に難癖をつけるものなのか?ダライ(ダライ・ラマ14世)集団は「オリンピックはチベット人にとって最後の機会」とわめき立て、拉薩などでの「暴行・破壊・略奪・放火」の暴力事件を入念に組織・画策・煽動・操縦した。さまざまな邪悪な勢力も跋扈し、「オリンピックボイコット」をわめき立て、道を遮り五輪聖火を強奪しようとした。彼らは自分たちが13億中国人民の自己向上と奮い立つ前進をボイコットし、13億中国人民の自尊心と感情を傷つけているのであり、60数億世界人民が一致して認める平和・融合・団結・友愛のオリンピック精神をボイコットしていることに気づいたはずだ!中華民族はオリンピックの開催を通じた世界各国との交友を心から望んでいる。愛と良識のある人は誰しも、13億人民が世界に微笑み、世界も中国に微笑んでいると信じている。

二思、暴力の煽動は誰を困らせるものなのか?暴力行為とその極端な形であるテロリズムは全人類にとって災厄だ。その大部分が何某かの宗教や民族を旗印を掲げているのは、特定の民族・宗教の中で常に2つの結合が生じるからだ。すなわち、狭隘な民族主義と宗教原理主義の結合、神への崇拝と人への崇拝の結合だ。この2つの結合が産む化け物が、抑え込み難い極端な思想と暴力志向の行為だ。その悪性の発展が、大善の無辜の市民を傷つけることもいとわぬテロリズムなのだ。かつて米国は政治上の必要から、中東の暴力組織を支持・放任し、強大化するに任せ、ついにはテロリズムの化け物を育て上げ、逆にその害を被っている。ダライ集団が現在実際に主張・煽動している「チベット独立」は、すでにこの2つの結合の傾向を備え、その「チベット青年会議」はすでに暴力とテロの傾向を示している。「チベット青年会議」のある頭目はすでに「自爆攻撃によるチベット独立の達成も排除しない」「報復的な人間爆弾の広範な使用は1つの発展の方向だ」と公然とわめき立てているのではないのか?もしこの発展を放置すれば、「チベット独立」を旗印に掲げるテロリストを増殖させ、中国のみならず世界にも災厄をもたらすことになるのだ。

三思、「己の欲せざる所、人に施すなかれ」。西側のいくつかの国々は、中世の政教一致の暗黒統一を脱した後、ようやく現代国家への苦しい道のりを歩み始めた。半世紀余り前、ダライ・ラマは政教一致の農奴制社会の最高統治者だった。その「亡命政府」の「憲章」は、今なおそれを「政教一致」の「独立国家」と定めている。今日の中国の西蔵は、政教一致の農奴制を脱した後、現代的社会へと大きく歩みを進めている。経済は飛躍的に発展し、人々の生活水準はみな大幅に向上した。平均寿命はダライ統治時代の35.5歳から現在は67歳に伸びた。この基礎の上に、蔵族(チベット族)の言語と文化も中央政府と地方政府に支援・保護されている。現在、西蔵その他の蔵区には3700余りの寺院があり、12万人の僧尼がいる。大きな寺院には数千人の僧侶がいる。もし宗教信仰の自由がないのなら、どうしてこのような状況が生じるのか?ダライ集団は西蔵の現代化を望まず、農奴制への回帰を企み、西蔵の経済・社会発展の1つ1つの進歩を、さらには青蔵鉄道の建設を大々的に攻撃し、兄弟民族による西蔵への無私の援助を悪意をもって誹謗し、対立を引き起こそうと百方手を尽くしている。まさか西側は歴史に逆行するこうした行為が目に見えないというのか?まさか西側は自分達も政教一致の暗黒の中世に回帰したいというのか?(編集NA)

「人民網日本語版」 2008年04月22日

ラサ市の旧市街、つまりジョカン寺周辺のチベット人が主に住んでいる場所と新市街とは軍事力によって遮断されており、そこを自由に行き来できない状況がいまも続いている。落ち着きが取り戻されたというのならば、なぜ外国人ジャーナリストや観光客が入れないのか。これを考えてみれば明かにこの「落ち着いた」というのがはったりであることは明らかに「真実」「事実」に反しており、荒唐無稽であるが、彼らの立場にたってこの文章をよく読むと実は面白いことがわかる。

彼らの主張はこういう風に纏めることができる。。

  1. ダライ派の一部のチベット人は「オリンピックに反対するテロリズム」にほかならない。
  2. チベット青年者会議の動向を黙認するダライ・ラマはテロリストに加担している。
  3. ダライ・ラマや亡命社会を支援することは政教一致の独裁政権を復興させることに繋がる危険性がある

これらの主張を彼らに好意的に読み替えるとこういうことになるだろう。

  1. 「オリンピックに難癖つけるダライ派の一部の人 VS オリンピックの成功を願う普通の人」という構造を世界に浸透させて、「世界が待ち望む北京オリンピックの成功」のためには「チベット人のテロリズム・分裂運動」を断固として阻止する。そのためには徹底的にチベットの独立派勢力・抵抗勢力を封じ込めなければならないのであり、北京五輪までのチベット地域における戒厳令を解くことは止むを得ないということになる。実際に1989年に胡錦濤は1年半以上も戒厳令を敷いていたのでこの可能性は高い。
  2. 独立派のチベット青年者会議の活動を黙認しているダライ・ラマはテロリズムに加担しているのと同じである。したがって今後ダライ・ラマと対話する必要は全くない。中国側が擁立しているパンチェン・ラマももう大人だし、ダライ・ラマは年をとっているので長くない。ダライ・ラマが亡くなった後、チベット青年者会議の連中がテロリスト化しそうなのは誰にだってわかる。だからもう世界はダライ・ラマ側の言うことは聞く必要はないんじゃないか。
  3. ダライ・ラマ側は民主主義とか平和主義とか言っているが所詮は、政教一致の独裁政権の復興を望んでいるのに過ぎない。中国側は莫大な投資をして、チベット人はさんざん潤いつつある。世界はこの実績を見るべきであり、チベット観光資源や膨大な中国の領土、マーケットに注目するのならば、ダライ・ラマ側につかない方が得をするのに決まっているだろう。

とこう考えると非常に納得のいくことがかなりでてくる。いまの中国政府のやり方はあまりにも世界のなかで情けない事態が最初続いていた。しかし、抵抗運動などが嫌いな事なかれ主義の人が段々と嫌気がさしてくるのに連れ、次第に「さすがにやりすぎだよね。チベットの人達もさすがにオリンピックに反対しちゃいけないよね」という声がでてくるのを待っているのだろう。

でもよく考えてみよう。「ダライ・ラマがオリンピックを妨害しようとしている」と突如言い出したの誰だろうか。これは紛れもなく3月のはじめに北京政府が記者会見で発言したことばである。

そもそもダライ・ラマは数年前から北京五輪が開催されることはいちども反対したことはない。むしろそれを応援するメッセージを送っているし、北京五輪開催地に決定し、世界の冠たる国家としての中国政府は、もうすこしチベット人権状況を改善して欲しいというメッセージを送ってきた。一方で、チベット青年者会議や一部の独立派の人々はこのオリンピックの開催に向けて今年が世界にアピールするチャンスだと呼びかけてきたことも事実である。彼らは今年は盛大にアピールするぞという意気込みはあったが、「オリンピックをぶっつぶしてやろう」という気持ちはない。それは自分たちの無力さをしっているからである。その証拠として、昨年チベット青年者会議だって「おれたちもオリンピックにださせてくれ」とIOCまで嘆願にいったくらいだ。彼らは決して「オリンピックを中止しろ」などとは言っていなかった。ラサやアムドなどで暴徒と化したチベット人だって、「オリンピック反対」という旗などもっていなかったではないか。

次に「ダライ・ラマが今回の一連のチベット人の蜂起活動を行わせた」と主張しているが、これも明らかに誤っている。今回の一連の蜂起活動の原因は、抗議活動に対する中国政府による軍事的な抑圧に怒った人々が、石ころやそのあたりの棒切れで警察車両をぶちこわしたり、店のシャッターをこじあけようとしたことは世界中の誰でもわかる。これが「暴力事件を入念に組織・画策・煽動・操縦した」というのであれば、私はいいたい。なぜあのような大量な軍隊がチベットにいるのであろうか。

このように考えてみるとひとつ中国政府の新しいチベット問題に対するアプローチがわかってくる。今回のオリンピックによって彼らはチベット問題を闇に葬るために「入念に組織・画策・煽動・操縦した」のではないだろうか。そもそもラサの暴動も北京政府が仕組んだものかも知れない。1989年のようにちょっと締めつければ国際社会は馬鹿だからヒステリックに反応する。実際に聖火リレーに反応しているのは、北京政府の思惑通りかも知れない。

北京政府は他のどの国よりもチベット人やダライ・ラマを研究しつくしている。鉄道も開通させ、投資家によるチベットに対する大投資事業もはじまった。次のダライ・ラマを選ぶのも新しい法律を作ったので全く心配ない。亡命したカルマパだってまだ子供なので、チベットをどうしようもないだろう。諸外国が中国市場を重視していることは分かっている。これだけチベット人をしめつければ、亡命政府の若者もそのうち「もう自治なんてやだ。独立だ、テロだ」といいだすのも分かっている。これは却って好都合じゃないだろうか。亡命チベット人がいくら声をあげても国連軍が介入してこないことはこれまでの実績でわかっている。欧米だって折角投資した巨額の資金を中国政府の転覆によって失いたくないはずである。外国のチベット研究者もいままで見れなかった写本を見せることで黙るだろう。チベット人たちの声が枯れ果てて困る人は誰もいない。チベット問題はそのうち消滅するだろう。その消滅を急激に勧めるチャンス、それがオリンピックだ。これに反対しようとしている焦っている亡命社会の若者たちの発言を見て、今回の一連の弾圧を中国政府は「入念に組織・画策・煽動・操縦した」のではないだろうか。

もしこのような計略が北京政府にあったのだとすれば、いまのチベット問題の突然の盛り上がりは彼らの思い通りということになるだろう。躍らされている世界の大衆はたんなる馬鹿ということになるだろう。彼らは大衆が飽きっぽいことも知っている。そしてダライ・ラマたちが「暴力に訴えない」のではなくて、「訴えるほどの力」が残っていないことも知っている。歴史的に中国は「計略」「謀略」に長けた国である。もし私の推測どおりこの一連の騒動全体が北京政府の計略ならば、さすが中国三千年の計略の歴史の賜物と思わざるを得ないし、胡錦濤は侮れない。

しかし、ひとつ彼らに警告したいことがある。漢民族は辺境国にとらわれすぎると必ず内部から崩壊してきた。これも中国の歴史である。チベット人と中国人が融和することなど決して有り得ない。いくらやってもそもそも文化が違いすぎてこの先も無理だろう。そしてそれに神経を注いでいるとどうなるか。それは内部からの崩壊である。それも中国三千年の歴史のひとつである。胡錦濤よ、『史記』を読みなおしてみるがいい。あなたたちの崩壊のストーリーはそこに明確に書かれている。

参考記事:ロイター通信:China says Dalai Lama is an Olympic saboteur

セラ寺で400人拘束?

2008-04-22

中国当局がラサのチベット寺院急襲、僧侶400人以上拘束

 【香港=吉田健一】米政府系放送局「ラジオ自由アジア」は20日、中国の武装警察部隊が18日、チベット自治区ラサのセラ寺を急襲し、僧侶400人以上を拘束したと報じた。

 僧侶らは、中国当局が国旗掲揚やチベット仏教最高指導者ダライ・ラマ14世批判をチベット寺院に要求していることに反発したため拘束されたとみられる。

 同放送局によると、武装警察は同日午前2時ごろ、四十数台の車両でセラ寺に乗り付け、僧侶を拘束した。留置施設が満員のため、僧侶はラサ郊外の洞穴に閉じこめられているという。

 中国当局は最近、同自治区や四川省、青海省などのチベット族居住地域で僧侶に対し、国旗掲揚などの「愛国主義教育」を強化しており、抵抗する僧侶の拘束が各地で相次いでいる模様だ。

(2008年4月21日20時22分 読売新聞)

もうやめて欲しい。

世の中は確実によくなっている

2008-04-19

世の中は確実によくなっている。我々は楽観的になるべきである。

これはダライ・ラマ法王が広島で語ってくれたことばである。
決して我々はあせって暴力に訴えてはならない。

時が熟するのを待つことは大変な精神力が要ることであるが、
ダライ・ラマ法王が普通の政治家とは全く異なるのはこの精神力をもっていることである。

今回の善光寺の判断はこの言葉を思い出させてくれた。
当然の判断ではあるが、彼らも苦しい状況だったのだろう。
よく判断してくれたと素直に感謝したい。

チベットの状況はいまも苦しい状況が続いているが、
世界全体の状況をみれば確実によくなっているといってよい。

逃げ腰の日本政府も中国政府へ対話をするように公式の場で言ってくれている。
これもよいひとつの兆候でもある。

しかしこれで充分かといえばそうではない。あともう少しだ。
私は今年の洞爺湖サミットで、チベット問題が解決することを夢見ている。

たとえ今年そんなことは有り得ないとしても来年でもいい、
とにかくはやくあの巨大な国の人々に平和と自由がもたらされることを願ってやまない。

人の命は聖火よりも重い

2008-04-16

今日は明日のTBSピンポンの取材で一日お寺でお客様だった。どうやらマスコミの眼はいまはチベットよりも聖火に移りつつあるようである。それに対して先週来日した、ケンスル・リンポチェの弟子の一人、ゲシェー・ゲレク師は今日こんなことを語っていた。

みんな聖火が消されることを心配しているが、チベットでは人の命が消されています。聖火が消える心配をするより、人の命が消されていることを心配すべきじゃないでしょうか。

まさに、その通り。さすがゲシェー・ラランパ。チベットの叡知はすごい。

種火があるそうだから聖火はまた付ければいい。
人の命は失われてしまえば決して戻らない。

聖火と人の命とどっちが大切か。
そりゃ人の命に決まっています。

チベット問題は何一つ解決してない

2008-04-15

チベット問題は何一つ解決していないばかりか地下に潜りつつある。
暴動が起こらなくなった、チベットのニュースが少なくなったことは何を意味しているだろうか。

それは抑圧、恐怖で声すら出ない状況に追い込んでいること以外の何ものでもない。
このことを分かっているのだろうか。

善光寺では追悼法要をやった。
これで亡くなった人を供養したので、
もう充分だろうとでも思っているのであろうか。

それは間違いである。彼らは思い出すべきである。
追悼法要で罪滅ぼししたと思い、「呪われた火」が「聖なる火」として長野にやってきて、
平和ボケした日本国民が喜んでいる時、その笑顔とよく似た顔をした人々が
銃口を突きつけられ脅え、声すら出せなくなっていることを。

平和ボケした長野で聖火リレーが行われても私は構わない。
しかし、善光寺がそのことも分かっていながら、
仏の教えを説く場所でありながらも、この茶番劇の一役を担うことに
誰も悲しみを覚えないのだろうか。

善光寺の「善なる光」というのは何を意味するのだろうか。
仏教では殺生を善と捉えることは決してできない。

日本の仏教には善悪の判断もできなくなったのだろうか。
殺生はいけなことを忘れたのであろうか。

日本も落ちるところまで落ちるのか。

善光寺の動向

2008-04-13

善光寺はいまだに聖火リレーの出発地となっている。

この寺は国宝だそうだが、このまま聖火リレーの出発地になるのであれば、
未来永劫、日本仏教の恥、日本仏教徒の汚点として名を残すだろう。

同じ仏教徒や僧侶が弾圧と虐殺にあっていても、
それを行なっている政府のプロパガンダのために
「友好」と「平和」を発信するのか。

善光寺は人々の信仰のよりどころから、
日本の汚点へとその名前をかえつつある。

最終的に善光寺がやめるとすれば、世界の英雄だ。
さすが日本の仏教はちがうということになるだろう。

このまま聖火リレーをやるのならばどうなるか。
世界中の良識ある声が善光寺をたたくだろう。
やはり日本の仏教はまがいものだといわれてしまう可能性がある。

もう本音と建前では世の中通用しない時代になっている。
善光寺の良識ある判断を望む。

↓ひまな人は聖火リレーの中止を訴えて、みんなで電話しましょう。
●善光寺事務局
〒380-0851長野県長野市元善町491
電話:026-234-3591(代)

レジスタンスの国の力

2008-04-08

さすがレジスタンスと民主主義の国フランス。
日本もなんとかならないものか。

日本でもスタジアムで、チベット・サポーターズ大集会を開催したい。
国立代々木競技場などで5万人の大集会などが相応しい。
ダライ・ラマ法王が大画面からメッセージをくれる。
聖火リレーのチョモランマに抗議する。

みんなでチベットの歌や踊りをみて、さわぐ。

パリの北駅での大集会

使用料意外とやすいね http://www.naash.go.jp/yoyogi/ichitai_riyou.html

簡単チベット支援

2008-04-02

とうとう立ち上りました。(でも実はサイトです。やっぱりインドア派ですね‥‥)
W大の昔のマック仲間Nさんに「やればできる子大賞」にエントリーしてもらいました。
ありがとう!

これがぼくの考えた究極のチベット支援第一ステップです。
誰でもできる。すぐにできる。とっても簡単。

いまは情報を選ぶ時代。
さようなら「日中記者交換協定」にかじりついているお偉いさんたち。
君たちはもう必要とされていません。

よろしくお願いします。

学者よ、発言を求む

2008-03-28

我々チベット学者ははっきりいって怒っています。学問や歴史に口出しする政府はろくなもんじゃありません。もういいかげんにしろばかやろう。ソ連という親玉を失ったボンクラ息子、中国はやりたい放題、いいたい放題だ。誰かとめてください。

そもそもチベット側と中国側の対話のなかで大きなネックになっている「歴史的にチベットは中国の一部である」といったプロパガンダに客観的な学問を志す人間のだれが賛同できようか。同じことを言われたらどうするんだ、「歴史的に日本は中国の一部である」と一体誰が認めることができようか。それと同じことなんです。

国際チベット学会の関係者もいよいよ動き出しました。残念ながら日本はまだです。
http://www.tibetopenletter.org/

日本でチベット研究や仏教研究をしているみなさんに訴えたい。

我々こそが言論の自由を主張すべきです。学問というのは言論の自由がなければ何の発展もありません。チベット問題について口を閉ざすのではなく、みんなできちんと発言しましょう。人々の声、客観的な声、それを封じ込める社会に反対しましょう。ペンは剣よりも強しです。

みなさん何年間これまで学問をやってきたのですか。みなさん何年間チベットの資料で研究費などをもらってそれを学者人生の糧にしてきたのですか。チベット文字も読めない人ですら、立ち上っているじゃないですか。こんな時に発言しなくていつ発言するんでしょうか。

拝啓、日本政府様

2008-03-17

ラサで起こった中国軍によるチベット人への非人道的な大量虐殺は、幸い日本のメディアでも大きなニュースとして取り上げられている。

このような事件が起こるのには原因があり、それはこれまであまりにも中国政府が一方的なひどい圧政を繰り返していることにほかならない。メディアは今回何人死亡者がでたのかやっきになって調べているようだが、実はこれまでに殺された人々の数を考えればものの数ではない。

しかしこの一連の事件を見ているときに、一番がっかりしたことがある。

それは私たちが支えている、この日本政府のことだ。

ラサにいる日本人の保護を日本政府は中国当局にお願いしたそうだ。中国にとってはいやな面もあってもチベット人たちは自国の国民である。その自国の国民を装甲車で踏み殺して平気な顔をしている国家に、「でも日本人だけは助けてあげてね」とでもいったのだろうか。まずは自分たちで彼らを何とかしようとか思わなかったのだろうか。

我が国のこの問題に対する立場としては、「関係者の冷静な対応」「早期にかつ平和裡に沈静化すること」を願っているらしい。もちろん、このこと自体は悪いことではないが、そもそもこれができていればこんな事件は起こるはずはないのである。これができないからこそ、こんな事件が絶えず起こっているのである。そんなこともわからないのだろうか。抜本的な解決がなくして、こうした問題が解決することはあり得ない。

最近福田政権になってから親中政策が続いている。餃子に毒をもられても、チベットで大量虐殺が行われていても、チベット人大虐殺の張本人である胡主席のご来日と新たな日中平和友好条約を結ぶことの方が大切らしい。

チベットは大国の経済戦略、アジアでの覇権争いのなかで国を失い、路頭に迷ってしまった。そして人々はいまもなお殺され続けている。そして何とも悲しいかな、我々日本政府はそんな状況をいまでも繰り返して、罪もない「自国民」に銃口を向け続けている国となかよくしたいと思っているのである。

ツルティム・ケサン先生の退職に

2008-02-24

この度、大谷大学で日本のチベット学を率いてきたツルティム・ケサン先生が定年退職されることとなって、その退職記念パーティに参加してきた。チベットに関わる研究者が勢ぞろいし、大谷大学で直接教えを受けた人達が心あたたまるとてもいいパーティだった。

私自身は、東京でいまはなき東洋文庫チベット研究室でケンスル・リンポチェに教えを受けた者の独りであるが、ツルティム先生はずっと京都で日本人の多くの研究者にチベット語古典文献の指導を行なってこられた。最近は和訳も精力的に発表されており、チベットの学問的伝統を日本に紹介しようというその情熱には頭が下がる。

ツルティム先生は数少ない日本に根ざしたチベット人インテリのひとりであり、このことは実はチベット人のなかではとても珍しいことである。そしてチベット研究という日本ではマイナーでなおかつ多少「インド仏教の二番煎じ」と思っている学者が多くいるなか、先生のこれまでの努力と苦労を思うと本当に大変であっただろうなと思う。結局彼を支えてきたものは、日本にチベットの学問的伝統をなんとかしてでも伝えたいというこの情熱以外の何ものでもないだろう。

チベット語の仏教文献は、伝統のなかに生きているテキストである。それは本に書いて有る内容だけではなく、人から人へ、口から口へと、身振り、手振り、などで伝えてこられたものである。外国人の研究者がそれを学ぶことは、決して簡単なことではなく、その伝統のなかに生きている人々から教えを受けなければ、そのテキストを読解することなど不可能であるといってもよい。

しかしながら、チベットの仏教研究者でチベット人のそういう伝統のなかに生きている人からきちんとテキストを学びたいという研究者は実は非常に少ない。多くの場合が自分で好き勝手に読書をして、分からないところは適当に誤魔化している場合ばかりである。さらには研究者と標榜しつつもチベット語の会話もできないので、チベット人とコミュニケーションもできない人も多いのである。更には多少チベット語ができても、この世界にはTOEFLのような基準もないので、チベット語だって誰がどれほどできるのかさっぱり分からないのが実状である。

こんな状況でいいはずがないが、こんな状況が長く続いている。これが日本のチベット学という学問世界の現状である。たとえば医学の世界では、メスも注射も握ったことがないような人が患者に注射をしたり手術をすることは禁じられているが、チベット学や仏教の世界ではそんな人間でも平気な顔をして人に仏の道を説いていいことになっている。

残念ながら仏教というのものは簡単にわかるものではない。しかし、すくなくともこれは外国の宗教なのだから、できればサンスクリット語、チベット語、漢文に堪能なことが望ましい。別にラテン語なんてできなくてもいいが、仏典の言葉が読めなければ仏教を理解することは難しいだろう。

ツルティム先生は何十年もかかって多くの学生を育てたが、それでもまだ日本のチベット学、仏教学はまだまだ人・もの・カネすべてにおいて不足している。そのなかでも致命的なのが人であろう。近年少子化が進むのと同時にチベット学をやろうと思う人物すら減りつつある。大体そんな学問をやっても食べていけないから当たり前なのだが、夢が見れない若者が多くなっているのではないかと思う。

大学院にいたころ食べていけないので、正直いってもうしんどいなと思ったことが何度かある。そんなときに、アメリカのカイプ教授がぼくに言ってくれたのは、「殆ど誰も読めない文献を楽しんで読めるってのは最高の幸せだと思うよ」といってくれた。これは確かにそうだ。

チベットやインドの文献には、普通には市場に決して出回ることのない「仏になるための具体的な方法」が細かく理論的に書いてあるのである。まだまだ世の中には知らないことだらけなのだ。我々が知らないその量を考えると、知っていることはほんの僅かに過ぎないのだ。

大学生の時にある先生から「君は悠久の時を生きているんだね」といわれたが、そんなに立派なものでもない。しかし、この世のなかには時間がかかることが山のようにあるのであり、いくら急いでみたとしても簡単にはいかないのである。

MacOS X Leopardでチベット語

2007-11-07

もう何年も前からやってきたプロジェクトである、大谷大学真宗総合研究所のTibetan Language Kitが漸くアップル社のMacOS X Leopardに搭載されましたので、お知らせします。

MacOS X Leopardでは福田洋一先生の作ったKailasaフォントと私の作ったKokonorフォントをサンフランシスコ在住のスティーブ・ハートウェル氏と一緒にバージョンアップしたものが、システムフォントとして搭載されています。メニューバーのSpotlightでshojiroと検索すると私たちが作ったフォントが表示されます。(びっくりしました)

チベット語フォントの開発ストーリーなどそのうち書きますが、
とりあえずMacの人はLeopard にバージョンアップしましょう。

Windowsの人は、Macを買えばWindowsもインストールできますので、
とりあえずMacを買うか、Windows Vistaにバージョンアップしましょう。

そういえば小野田俊蔵先生が、iPodでも使えますか?って聞かれましたが、
まだiPodでは使えません。そのうちできます。

『絶望から立ち直る方法を教えてください』

2007-09-28

昨年のダライ・ラマ法王、ツツ大主教、ベティ・ウィリアムズ女史による広島国際平和会議2006の議事録をリミックスしたバージョン、『絶望から立ち直る方法を教えてください』(アスペクト)が出版されました。たったの1,260円(牛丼大盛3杯より安い)ですので、みなさん是非買ってください。

ひさびさにブログに書きます。このところ何をしていたかというと、本4冊とDVD6本という大量な仕事をこなすため、毎日徹夜続きで、死にそうな状態でした。そのうち2/3くらいがやっと終わったところ。今年は学会発表もできないし、何もでできません。

実はこの本、かなり入れ込んで作りました。私の個人的な経験や友人たちの話、ダライ・ラマ法王やチベットに興味をもっている人、平和運動などをしている人たち、悩みを抱えている人、恋愛で失敗して落ち込んでいる人、そんな人とのやりとりの中、何がみんなに必要なのか、それを考えて作った渾身の一作です。すべての人に読んで欲しい本です。

この本は、質問+答えという形式になっています。この答えの部分は三人の巨匠が語ってくれたメッセージです。質問の部分は実はふだん誰しもが考えていたりするような内容になっていますが、それに対する答えの部分で意外な答えがでてきます。

こんなスタイルは、実はむかしはパンチェン・ラマやグンタン・リンポチェが煩悩との葛藤を対話形式で書いたものなどを参考にして作ったものです。つまり質問部分で質問しているのは、我々の「煩悩」であったり「悪魔のささやき」なわけですね。そんな声をことばにできたのも、私が「煩悩に満ち溢れた人間」だし「悪魔のささやき」にいつも惑わされている人間だからでしょう。

妻が曰く「あなたはいっつもこっちの素晴らしいメッセージの間逆の人間じゃん」といわれました。私が「いい人」だったり「仏教の教えで人間のできた人間」であったらこんな本は作れなかっただろう思います。

最近精神世界系の本やいろいろ「癒し」のメッセージと称した本が沢山ありますが、私が断言できるのは、

「これこそがスピリチュアルの巨匠が語る究極の癒しのメッセージ」

だってことです。

この本は、自殺したいと思うくらい落ち込んでいても、死んでも恨んでやる、と思っている人でも、本をゆっくり読んでその内容をきちんと理解して、毎日心のリハビリを行なえば、きっと本を読み終わるころには、あなたも「世界平和に貢献する平和の使徒」になれるでしょう。

今年もダライ・ラマ法王が来られます。そこで、去年の責任者としての私からひとこと。

「ダライ・ラマに癒されたい」「ダライ・ラマと会いたい」「ダライ・ラマと握手したい」「‥‥したい」「‥‥したい」「‥‥したい」「‥‥したい」「‥‥したい」の受動系の人! まずはこの本を読んでください。ここにあなたの求めている答えがあります。

NGO/NPO、ボランティア活動をやりながら心が逆に荒んだ人、文句ばかりいわないで、この本を読んでください。彼らは決してあきらめません。彼らを見習いましょう。彼らがここまでやってこれたのは、決してあきらめないからです。

マスコミのみなさん、〜学者、〜ジャーナリストのみなさん、自殺や日本の核武装とかいじめ問題とか、バカな質問やいつも同じ質問をしたい人たち、そんなにお墨付きの独占インタビューが聞きたいですか?ここに書いて有ることがすべてです。これ以上のことはありません。ぼくは私財を投げ出した「ボランティア」でしたし、法王も「ボランティア」です。みなさんはそれが「仕事」です。お給料ももらっているのでしょう。何か特別なことを期待するくらいなら、もっと日頃からチベットと中国の対話を推進できるような記事や文章を書いてください。何で彼らがノーベル平和賞をとっているのか、本当に考えたことがありますか?それがみなさんの「仕事」なんです。

ダライ・ラマと握手しても、サインをもらっても、ツーショットを撮っても何も意味はありません。そんなことよりもダライ・ラマたちが望んでいる「願い」を叶えること、ダライ・ラマたちが教えている「教え」を実践することの方がよっぽど大切ではないでしょうか。

ダライ・ラマ法王は「ラマ」なんです。「ラマ」というのは教えを教えてくれる人です。大事なのは「教え」です。法王が来日するからって、普段よりも煩悩をはたらかせてどうするんですか。それは法王の教えとはまるっきり逆のことをやっていることです。

昨年もそんなこんなで側にいた私としては「おいおい、日本人どうなんだい」と恥ずかしくなりました。法王が日本人に対する期待は、実はほかの国の人たちよりもはるかに重い期待をしています。日本は法王が最初に外遊した場所でもありますし、近代文明と伝統文明とが両立している素晴らしい見本だと思っているそうです。そんな風に思ってもらって日本人は光栄なんですよ。是非とも期待を裏切らないようにしたいもんですね。

チベット語の字幕翻訳・同時通訳

2007-04-13

いま毎日ダライ・ラマ法王の昨年の講義のチベット語の字幕を付けているが、この業界では殆どこれまでの通例とかノウハウというものは存在しない。通常字幕は1秒4文字と決まっているが、なかなかそこに納まらない。さらには仏教用語をふんだんに使った法王の説法は、実はとても難しく、思いのほか脱線したり、話題が抜けたりすることもある。

人名や書名が出てきたら大変だ。というのもカタカナで書くと必然的に音数が増える。だからたとえば「ナーガールジュナ」は「龍樹」とするが、さすがに「パダムパ・サンゲー」は漢字に置き換えれない。

先日の法王来日中でも某テレビ局に頼まれて、法王の同時通訳をしたが、これは昨年毎日1時間ずつ練習したからできた仕事であり、こんな練習をしたチベット関係の研究者や翻訳家はだれもいないだろう。一生懸命身に付けた技術も今後活用される予定は残念ながらない。しかしこういう技術は磨かなければいいものにはならない。

仏教の法話の字幕翻訳というジャンルをどこまで開拓できるか、これはあくまでも実験的なものに過ぎなくなるだろう。

しかし、とりあえずいままで出ている字幕よりははるかにいいものができそうだ。というのも字幕を入れる編集作業自体を自分でやっているからである。

音数、秒数、アングルなどすべてを考えながら字幕を入れる作業ができる。スタジオで作業しなくても安いパソコンでできる時代なのである。もちろん、FinalCut Proという素晴らしいソフトがなければできない仕事ではあるが‥‥。

法王が来る前に、きっと法王の話しは難しすぎて日本人にはなかなか分からないだろうと心配したが、改めていま一語一句聞き直しながら考えるに、ダライ・ラマ法王の説法会は誰に対して説かれたものなのか、誠に分かりにくい。チベット人の僧侶たちでも「この話は難しいね」というくらいの内容だし、普通のチベット人が改めて聴いても、よく理解できない難しい言葉や表現に満ちている。

しかしよく考えると日本語も難しいもんだ。ダライ・ラマ法王に質問する人たちはもっとはっきりと何が聞きたいのか簡潔に言って欲しかった。礼儀正しいことはいいことだが、前口上は抜きにして聞きたいこと、言いたいことだけをきちんと伝える、これが外国人とのコミュニケーションの基本である。

法王は日本人が質問している時に、我々に同時通訳をするように要望していた。ちょっとでも詰まるとすぐに「何だって?」とあの迫力のある声で聞かれる。そのたびにかなりびびってしまった。

しかし、実を言うと日本人の言いたいことなんて、文章全体を聞いて、前後関係を含めてまとめてないときちんと伝わらないものなのだ。そして遠慮深い日本人はそんなしゃべり方をするものなんですよって法王に言いたかったが、結局言えず仕舞いとなった。

苦難の時代をマイペースで生きる

2007-04-06

今年は厄年だそうだ。確かにいまのところ今年はいろいろと苦難が多い。

しかし、今年は再出発の年にしたい。
新しいプロジェクト、本当にやりたいことをやろう。

昨年ダライ・ラマ法王の招聘などに関わって学んだことは、
「苦難の時代をマイペースで生きる」ってことだろう。

ダライ・ラマ法王やチベット人たちは苦難の時代をマイペースで生きている。
Prof. J. Hopkinsも大変マイペースな人でびっくりした。

多くの仕事を残せる人物はやはりマイペースでなければならないのかもしれない。
小学生のころから「協調性がない」私はそれなりに他人に歩調を合わせていたつもりだ。
しかしいくらやってもだめだということが分かってきた。

一度リセットして調律をしなおした方がよさそうだ。
そして今その時だろう。

新年あけましておめでとう

2007-01-01

新年あけましておめでとう、といいたいところですが、実は喪中。こういうときはおめでとうも言わないのが本当なのだろうか。それに私の周りはチベット暦で動いているので、まだ本当はお正月ではない。

とりあえず、元旦は龍蔵院の行事があるし初護摩なのでやはりおめでとうなのだろう。

ところで昨日はじめて知ったのだが、チベット暦で動いているところではいわゆるお正月はしないらしい。でも商売をやったりする人や行政関係の人は、「クリスマス休暇」をするそうである。キリスト教徒でもないのに「クリスマス休暇」ってのはどうなんだろう。

新年になって元旦に誓うことといったら、今年はこういうことをしようと決意するのが常であるのに、今年は特にこういうことをしようという別段とりたてて面白いことは何も考えていない。

もしかして、ブログをオープンして一年になるのかな。何度もハックされて困っていたので、アップデート版をいま探しにいったところ、「サポート終了」の文字が‥‥。

やはり普通にMTとかにしておけばよかったと思えどあとの祭り。
とりあえず今年の最初の個人的な仕事はブログ用のシステムの入れ替えぐらいからはじまるのだろう。

「超常現象」について

2006-12-15

友人のブログで「超常現象というものが本当に存在するのか否か」という面白い一文を発見した。よくよくこの命題を考えてみるとおかしくないだろうか。意味をよくよく考えてみたい。

 「超常現象」とはまず常軌を逸していないといけない現象であるはずである。それは単なる常識的な現象を超越したものであるとするのか、それとも科学的に立証できないものとするのか。いろいろと考えることができる。

そしてそれが「本当に存在するのか否か」というのがこの命題である。つまり「超常現象」というかぎり、それが「本当に存在する」と論証されるとまずいのではないのではないだろうか。「本当に」というのが現実の現象として存在するものなのとしてなのか、それとも科学的に論証されるのか、という問題はあるにしても。

私の立場は明確である。「超常現象は信じないが、超常現象はある」と思う。たとえば「美」がそれにあたる。「美」は嗜好するものであって、それは信じるものではない。たとえばデュシャンの大ガラスは超常現象のひとつである。

信じるとはどういうことか。それは「期待が欺かれない」ということであり、確率論の問題ではないだろうか。確率的に高いものであれば、信じれるし、低いものであれば信じることができないだろう。

とはいえばばかばかしい問い掛けも楽しいものである。そこに人のたのしみはある。

●マルセル・デュシャンを理解する??
Making Sense of Marcel Duchamp

リハビリテーション

2006-11-30

リハビリテーションということばが好きだ。いろいろと疲れた時、またやりなおす。いまはその時期にきている。この数ヶ月仏教の関係の仕事をしながら、仏教とは程遠い生活をしていた。

忙しいある時に、仏典をほどくと、そこに禅定の境地を得るためには、「やるべきことが少ないこと」というのが条件にのっていた。なるほどと思った。とはいえその時にはやるべきことを少なくすることはできなかった。

これからはしばらくやるべきことをひとつずつやっていけば、自動的にやるべきことは減るはずだ。それにはあと数ヶ月くらいかかるだろう。多分春ころには、私のリハビリテーションがはじまる。

文化と宗教

2006-08-29

この下らない日本では「宗教」と名が付くものはあまりにも見下されている。特に文化レベルの低い私の住んでいる広島では宗教と文化は異なると思っている頭のおかしい人が沢山いる。

言葉を正確に使うのならば、宗教は人間のもつ文化のひとつである。普遍と特殊という関係に喩えるのならば、宗教は文化の特殊概念であり、文化は宗教の普遍概念である。

したがって、宗教であり、なおかつ文化であるものは有り得る。たとえば仏教がそれである。しかしいまの日本ではどうだ。文化と宗教はあたかも対立概念のように扱われている。

ダライ・ラマ法王はチベットの宗教者であるのか、チベット文化の象徴であるのか、政治家なのかという下らない問いがあたかもあたりまえかの如く、説かれるのである。

ダライ・ラマ法王はチベットの元国王である。それは宗教者であり、文化の象徴であり、政治のリーダーでもある。それがチベットという国家の特徴なのである。そんなあたりまえのことが日本人には理解できなくなっている。そんなことも分からずにただ「ノーベル平和賞」とか「有名」というだけで寄ってくる人たちに、ダライ・ラマ法王のお話が理解できるだろうか。

携帯電話は頭にくる

2006-08-22

携帯電話で長く話しをしていると頭が変な感じだ。

これはだれかが電波がつよいからだと教えてくれたが、本当だと思う。ひょっとして電話をしていると頭が悪くなるかも? そういえば最近頭脳が明晰ではないような気もするが、これも携帯電話のせいか?

最近は携帯電話で写真を撮る人も多い。私はこれをやらない。何故なら電話で写真をとっている姿程まぬけな姿はないからである。「そこのお姉さん、それで記念写真とっても記念になりませんよ」とアドバイスしたい。多分いやな顔をされるだろうが。携帯電話で集合写真をとっても画質が悪くて顔が見えない。この人たちは一体何で携帯電話で写真をとりたいのか理解に苦しむ。

それから携帯電話こそみんながもつものなので、太陽電池とか自動巻の充電をすべきだと思う。もっとエコロジカルにしてほしいものだ。電池切れでいちいち電源を探して喫茶店でこっそり充電するのは恥ずかしい。携帯の電池が切れるのは決まって出張にいくときである。出張のときこそ携帯電話の威力がはっきされるはずなのに肝心の電池が切れる。特にメールなどやっているとすぐになくなる。そしてしまいには電磁派で頭が悪くなるのであろう。

最近はHDが搭載されている携帯があるが、これは血迷ったとしか思いようがない。こんなものはいりません。電話会社の人、お願いですからもっと環境と人にやさしい設計をしてください。それからUSBのフラッシュメモリがついていると助かります。

今日はひさびさにくだらない記事を書いたもんだ。

WWDC2006

2006-07-22

AppleのWWDC2006に行くことになった。
http://developer.apple.com/jp/wwdc/
サンフランシスコが楽しみだ。ひょっとして日本より涼しいかな?

ところでこのWWDCとは何かを家内に説明するのに、「まあ世界中のオタクのエキスパートの集まる会議だよ」といったら、数日後、家内の友達から「え!こんど世界オタク会議に行くんでしょ。すごいね〜。ところでど世界中のオタクってどんな感じ?」と聞かれてしまった。

そこで「すぐ隣にいるのにお互いチャットで話たりする人たちかな‥‥。」と答えた。すると「へえ〜。すごいね〜。」と言われた。

彼女の頭のなかでは、どんな想像がされているのか。それは計り知れないものがある。ただ、オタクといっても本格的なオタクだってことだけは分かってくれたようだ。

TV番組:オーラの泉

2006-07-18

日本では、宗教についての無知がはげしい。

特にいまやっている「オーラの泉」(TV朝日系)という番組はあまりにもばかばかしい。

聞くに耐えない言葉が空虚に公共電波で流れている。

この番組に関わりこの番組が全国放送されているということは、
あまりにもばかばかしくて、嘆かわしいばかりである。

そしてこの番組をやっているのが朝日系というこのアンバランス。
宗教についてのあまりの無理解がこのような現象を生んでいる。

末法の世もここまできてしまった。

web 2.x がもたらすもの

2006-07-18

.Macサイトに「最新のブラウザをお使いですか?」という記事がのっていた。

次世代ウェブテクノロジーは動的コンテンツに向けた出発点。
Photocastという新しい.Macのサービスはまさにこのweb2.0の技術が反映されたものだ。

私のウェブサイトも最初は、誰も殆ど「ホームページ」なるものをもっていない時代に立ち上げたものだが、いまはいちおうRSSが見れるなど、次世代ウェブに向かいつつある。

web 2.xがもたらすものは、プライベートメディアの拡大であろう。
誰でもが情報発信し、誰でもがメディアになりうる時代がくる。
実はこれは昔夢見たことに近づいている。
まだリニアモーターカーはできていないが、
確実に昔映画で見た未来社会はやってきている。

プライベートメディアの拡大は、マスメディアの弱小化である。日本の巨大出版社、巨大新聞社、巨大TVネットワーク、これらは近い将来必要ではなくなる。そのうち現在のコンテンツメーカとコンテンツディストリビュータとの関係も変わるだろう。いまのような古典的な経済的確執や因習はそのうちなくなるだろう。

既に、RSSで青空文庫を縦書きで読むことができる。
これは本の終焉を示唆しているが、本はなくならないだろう。

とりあえず、ここは実験室、
すこしずつ実験的なコンテンツを増やしたいと思う。

というわけで、よく分からない人のためにまとめておきます。
「このサイトで音楽配信をそのうちします」
「このサイトでチベット語古典の翻訳をばしばしだします」
「論文にはなっていない切れ端をどんどんだします」
と宣言だけしておきます。

とりあえず『菩提道次第論』の翻訳でもだすかな?