初出
『早稲田大学大学院文学研究科紀要』
第45輯第1分冊、2000年2月

最終更新日:2002/7/1 Version 1.4

修士論文概要

『了義未了義判別論 善説心髄』訳注研究

野村正次郎

1. 研究対象

 本稿はツォンカパ・ロサンタクパ(1357-1419)が五十二歳頃にセラチューディンで著した主著『了義未了義判別論 善説心髄』(東北蔵外5396番)の前半、すなわち冒頭の序詩から「唯識派の章」と呼ばれる「A1『解深密経』に基づく立場」という科文の該当箇所までを訳注研究したものである。訳文の作成にあたり、主としてクンケン・ジャムヤンシェーパ・ガワンツォンドゥー(1648-1721)の註釈『了義未了義判別論考究・離倒錯教理白瑠璃蔵・賢劫祈願一切成就』ならびにグンタン・テンペードンメの二種類の未完の註釈を参照し注記し、ゲルク派僧院における伝統的解釈がどのようなものであったのかということを強調した訳文を作成した。本稿は二部構成であり、前半はツォンカパの記述する空思想の基本構造を解明する論文部分であり、後半は訳注研究に費やされた。以下、本稿で取り扱われた幾つかの問題の概要を記したい。

2.空性の基本的構造

 ツォンカパにとって肯定・否定とは単純に論証形式や言語表現の問題には留まらない、認識の対象としての肯定・否定である。ある基体(S)における否定(x)とは、(x)を捉える意識により(x)の否定対象を排除した後に理解されるべき対象のことを意味しており、そのような対象(x)に対して「否定である」と述定されるのである。一方、こうした過程を経ないで理解可能なものに対しては「肯定である」と述定される。たとえば壺は肯定であり、虚空やつぼの中の空間というのは否定である。こうした対象としての肯定・否定の構造上、否定である認識対象を認識する際にまず、(1)意識上に否定対象の対象普遍が顕現し、(2)その後に、その否定の否定対象が否定の基体上に有ると思う増益を排除し、(3)その後に、否定自身の対象普遍が意識に顕現する、という三層の認識過程が踏まれる。その結果否定を理解するためには、まず否定対象がどのようなものであるのかを確認することが先行することとなるのである。

 ツォンカパにとって「空性」は否定であるので、通常空性を理解する時もこのような認識の過程を通して理解されるのであり、否定対象を最初に確認しなければならない。特に空性という否定の場合においては、否定対象は全く無いもの(畢竟無)でならない。何故ならば、否定対象が有るものであるならば、それを否定することなど出来ないからである。それゆえに空性を理解するということは、元来無いものについてそれが無いということを確定する知のことを意味しており、たとえば壺を斧で打ち砕くが如く有を無化することではない。ここにツォンカパの空性思想の特徴が見受けられる。

 空性という否定自体の構造がこのようであることから、ツォンカパにとって空性を考える上で「空の基体が何か」「否定対象は何か」という問題は極めて重要な問題となるのであり、唯識派であれ、中観派であれ、「法無我」という空性を教説の中心とする大乗仏教の教理上、空性はすべて絶対否定である。このような空性を自律的な肯定であると捉えたジョナン派の思想はツォンカパによれば、唯識派・中観派のいづれの伝統上にも見られない誤った見解であるとしている。本稿で取り扱った『善説心髄』の唯識派の空性解釈についてもこのようなツォンカパの否定である空性という認識対象の基本構造上の特徴が顕著に見出され、またこの構造に則って唯識派の空性思想を分析している。

3.『解深密経』におけるの三性説・三無自性説に対する解釈

 ツォンカパは唯識派の空性思想の最も重要な教理として『解深密経』で説かれた遍計所執が相無自性であるという空性解釈を重視するばかりではなく、三無自性説についてはそのそれぞれの無自性性の否定対象が何であり、またその定義基体が三性であるという解釈を提示している。つまり、三性と三無自性との関係を主語・述語の関係として解釈している。三性そのものについては、『解深密経』や『菩薩地』『摂決択分』により、一切法すべての任意のある法(x)について、特質が三つずつあるという三性説が説かれているとする。つまりすべての任意のある法(x)について「(x)の依他起」「(x)の遍計所執」「(x)の円成実」というものを想定可能であるとし、「(x)の依他起」は「(x)」であり、「(x)の遍計所執」は「(x)を把握する分別の思い込みの基体にそれ自身の特質によって成立しているものとして増益されている部分」であり、「(x)の円成実」は「(x)が(x)を把握する分別の思い込みの基体にそれ自身の特質によって成立していない」という絶対否定であるとしている。こうした三性説と三無自性説に対する解釈は、ツォンカパ以前のチベットには殆どなされていなかった解釈であると後代では評価されることになったツォンカパの唯識思想の解釈に特徴的な側面でもある。

4.増益辺と損減辺の設定(否定対象の確認)

 ツォンカパは『菩薩地』『摂決択分』に唯識派が増益と損減をどのようなものとしているのかを求めている。すなわち「遍計所執は勝義として有るものである」とする把握が「増益」であり、「依他起と円成実は勝義として無いものである」とする把握が「損減」である、ということが『菩薩地』で述べられているとする。この場合にツォンカパは常に「勝義として」という限定語を付けた形で解釈しているのであり、それは「依他起と円成実は勝義として有るものである」という根拠による。このような限定付けを常に伴った解釈はツォンカパの否定対象に対する厳密な確認をしようとすることに由来している。更にその解釈から派生して「依他起は言説として無いものである」「依他起は無いものである」とする把握は損減ではないとし、あくまでも依他起や円成実を「勝義として無いもの」とすることが損減であるとしている。特に中観派は唯識派の思想を批判する際に、「依他起は勝義有である」という唯識派の学説を問題として批判する。何故ならば、中観派は「一切法は勝義として無いのであって、そのことが勝義である」と主張しているからである。

5.二つの勝義有・世俗有

 唯識派の記述における勝義有と世俗有には二つの設定形式があり、その形式によって「勝義有・世俗有」という名称の指示内容が異なるとする。

 まず第一設定形式では、「言説の力によって設定されていない、それ自身の特質によって有るものかどうか」ということによって勝義有・世俗有に分けられる。この設定形式上では、遍計所執は勝義無であり、依他起と円成実は勝義有であり、そのうちの依他起が勝義有であるという点について「一切法は勝義として無いのであって、そのことが勝義である」と主張する中観派と論争が起こる。唯識派も中観はも依他起が空の基体であり、「空である」という円成実の法をもつものであるからである。そしてそのような論争する際に唯識派は中観派の教義として「倒錯した意識により依他起上で生滅が有ると思い込まれているのに過ぎないのであって、事物には勝義として生滅は無いのである」という反論を想定し、そのような見解は依他起のような「言説の力によって設定されていない、それ自身の特質によって有るもの」(勝義有)に対して「真実として無い」(勝義無)とする断辺であり、損減辺であるとするのである。

 次に「清浄な所縁として有るもの」なのかどうかということによって勝義有・世俗有とされる有の第二設定形式がある。この形式は勝義諦・世俗諦の問題に還元可能であるが、この場合には依他起は世俗有であり、勝義無であるということが可能となる。このような同じ用語を使いながらも存在の形式を二種類に想定するのが、唯識派の教義であり、この両方の形式を峻別する必要性を説いている。中観派と唯識派が依他起が勝義有なのかどうかということを論争している場合には第一設定形式が問題とされているのだが、唯識派の側では第二設定形式も妥当であるので、「依他起は第一の勝義有であるが第二の世俗有である」ということが可能となり、唯識派の教義上何ら矛盾するものではないとする。その結果、唯識派の準備している反論の誤謬に陥る中観派の思想は中観派の思想とは言えず、唯識派の思想を記述することによって逆説的に中観派の真の中観思想とは何かということを限定しているのである。

6. 唯識思想における空の基体と空の形式

 ツォンカパは空の基体として捉えられるべきものは、分別起(後天性のもの)の無明によって捉えられている対象ではなく、倶生起(先天性)の無明によって把握されている思い込みの基体である必要性があるので、ジョナン派のように円成実を空の基体として捉えるのは正しくなく、依他起を基体としてそこに増益されている遍計所執が真実として有ると捉えることが増益であるとする。

7. 結 語

 本研究を通じて『善説心髄』の出来るまでの経緯とそこに常に一貫して強く意識されていた問題意識とその考察結果がこの『善説心髄』の唯識派の章でどのように反映されているのかが分かった。そこにはツォンカパ自身の誤った学説を捨てより構造的で無謬の体系を作り上げようとした強い意志が感じられる。ツォンカパはすべての教誡を残らず「空性」という絶対否定の視点から汲み上げようとしたことは周知の事実であるが、そのような体系化の作業の過程で、唯識思想もより厳密に突き詰められ強固なものとなったのである。そしてそのようなツォンカパの思い描く唯識思想は、実はより強固な中観思想の体系への布石として配置されているものである。こうしたツォンカパの試みにより、過去のチベット人学僧の思想とは全く異なった極めて独自な構造化された大乗の思想体系がチベットに生まれることになったと思われる。


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