ツォンカパの空思想における空の形式について野村正次郎 |
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仏教の目的とは、哲学者たちが構築した難解な哲学的体系により世界を認識することではないのであって、一切衆生を輪廻の苦悩の世界から解脱 させ、常楽の境地である一切相智の境界に至らしめることにほかならない。この目的を達成するために、輪廻の根本原因を断つ空性を理解する智慧 が必要となる。しかるに如何なる難解な空思想であっても、それは空性を理解して輪廻の根本原因を断つために構築されているのであって、新しい 哲学的体系を打ち立てることを目的としているわけではない。このことはチベット仏教の巨匠ツォンカパ・ロサンタクパ(Tsong kha pa Blo bzang grags pa, 1357--1419)においてもまた例外ではない。 ツォンカパが空思想を仏教思想の中心思想とした (1) ことは周 知の如くであるが、その空思想は、空の基体たる有法(stong gzhi chos can)・否定対象(dgag bya)・否定である空性(stong nyid)・否定主 体たる正理・証因('gog byed kyi rigs pa / rtags)という四つの項目 (2)とそれらに代入されるものを限定する要素とで構築されている。空性を絶対否定 (med dgag)であるとし、否定(dgag pa)を「知によって否定対象を直接排除した後に理解されるもの」 (3) と定義する以上、必然的に「否定である空性とは、どのような知によって、どのような否定基体において、どのような否定対象を直接排除し、 どのように理解されるのか」という問題が発生する。ツォンカパの空思想に関する議論のすべてが、この問題を様々な側面から記述したものに過ぎ ない。なかでも「否定対象に代入される項目をどのように限定するのか」という否定対象の確認の問題は、ツォンカパの空思想の出発点に位置し、 近年のツォンカパの空思想に対する研究の殆どがこの問題を巡ってなされてきた。 しかしながら「ツォンカパの空思想」というものを考えるとき、中観帰謬派というある一つの特殊な体系における空思想を考えるだけでは充分で はない。彼の「空思想」という普遍的命題を想定するとき、彼が唯識派や中観派に共通する空思想としてどのようなものを想定していたのか、とい うことを考える必要がある。そしてその過程において学派間の見解の差異に限定されない、彼の空思想そのものを形成している本質的要素を抽出す ることができるのである。 ツォンカパは空思想とそれ以外の思想とを峻別する際に「空の形式」(stong tshul)という用語を用いている。この用語を巡る議論を考察する ことから、彼の空思想の構造的特徴を垣間見ることができると思われる。本稿ではツォンカパが「空の形式」という用語によって意図しようとした ことを再構成し、彼の空思想の構造的特質を明らかにしたい。 1. 空の形式の問題の所在ツォンカパが空性を記述するときに使用する「空の形式」(stong tshul)ないし「空の内容」(stong lugs)という術語は、 「否定基体(x)が否定対象(y)についてどのように空であるのか」ということを表現している。それは、空性を表現する命題の形式であると同時 に対象としての空性の内容をも示すものである。 本来この「空の形式」(stong tshul)という用語は、ツォンカパ独自の術語ではなく、インド仏教文献を整理する際にチベット人たちが編み出 した用語である。その源泉は『入楞伽経』の七種空性や『中観心論註・思択炎』の四種の無 (4) などの空や無の分類にある。しかしチベット仏教における空の形式についての議論は、 これらの分類それ自体を問題とするのではない。むしろただ単に自分の唱える空思想が『入楞伽経』の七種空性のうちで、「最低のもの」(tha shal ba)と見做される「相互空性」(gcig gis gcig stong pa nyid, itaretaraśūnyatā)に当てはまらないことを論証するためにな されている。特に十三世紀のジョナン派(Jo nang pa)の他空説の出現以来、この問題は「自空」(rang stong)・「他空」(gzhan stong)とい う二つの空の形式を巡ってなされるようになり、「相互空性」は「他空」と関連し議論されることとなった。 ジョナン派の大成者ドルポパ・シェーラプゲルツェン(Dol po pa Shes rab rgyal mtshan, 1292--1361)は、「他空」を「世俗他空」(kun rdzob gzhan stong)「勝義他空」(don dam gzhan don)という二つのレヴェルに分け、前者は相互空性だが後者は「相互空性」ではないことから 「相互空性」を回避しようとする(Nges don rgya mtsho, 118b1--119a6)。この見解は同時代のプトゥン・リンチェンドゥプ(Bu ston rin chen grub, 1290--1364)などの多くの学者に批判され、その経緯については既に多くの研究がある (5)。 ツォンカパもドルポパの見解を批判した者の一人であり、その批判はgSer phrengやDrang ngesで展開されている (6)。ツォンカパによるドルポパの学説に対する批 判は様々な問題を含むが、ここでは、ツォンカパがドルポパのような勝義他空・世俗他空という分類を採用せず、両者を同一のものであるとし、 「自空」「他空」という言説それ自体は採用している点に注目したい。 ツォンカパにとって本質的に空の形式には二種類しかない。それはすなわち自空・他空である。そのうち自空のみが正しい空の形式であって、他空は不適切で相互空性に過ぎない。したがって他空を自己の学説として唱える学派は仏教思想のなかにはどこにも存在しない。ツォンカパがこのように述べるとき、それは同時に「仏教における正しい空思想はすべて自空の空の形式である」ということを意味し、唯識派であれ中観派であれ、すべての空思想を唱える学派は自空説を唱え、他空説を唱えていない、ということになる。換言すれば、ツォンカパの空思想は唯識派の空思想であれ、中観派の空思想であれ、すべて自空説であり、他空説ではなく、空の形式として自空が採用される、ということになる。以上が「空の形式」という言説の存在する場である。 2. 二つの空の形式の対比それでは、ツォンカパは二つの空の形式の対比をどのように考えていたのだろうか。それを考察してみたい。 まず「他空」であるが、これは比較的理解しやすい。すなわち「他空」とは、「否定対象と否定基体とが異なった対象(don gzhan)である」 「否定対象は否定基体とは異なった対象において有る」という前提があった上で、一方のものは他方のものではなく、一方のものは他方のものにお いて存在していない、という形式である。たとえば「牛は馬ではない」ということから、「牛は馬に関して空である」「牛は馬であることに関して 空である」「牛においては馬は無い」というようなものである。 これに対し「自空」とは、若干分かりにくい。まずはツォンカパが誤った「自空」として挙げるものから確認しておこう。
「他空」は否定基体と否定対象とが「異なった対象」(don gzhan)「他のもの」(gzhan pa)であるということを前提としていたのに対し、「自空」は「否定基体と否定対象が同一の対象(don gcig)である」「それ自身」(rang)であるということを前提としていない、と述べられている。 つまり、自空の意味は「否定基体(x)が(x)それ自身に関して空である」ということではない、ということである。 「自空」における否定基体と否定対象との関係が明確になれば、両者の空の形式の対比は、その両者が前提とする否定基体と否定対象との関係 の相違である、と言うことも可能であろう。しかしそのような相違点を見いだすことは不可能であり、ここにツォンカパの自空説の難解さはある。 そもそも「自空」の場合には、その否定基体と否定対象との間に何らの対立('gal ba)も関係('brel ba)も無い。このことが「自空」の最大の 特徴であり、難解さでもある。 「自空」の場合、否定基体と否定対象とに何らの対立も関係も見いだせないのは何故だろうか。それは空性を示す命題における否定基体は有 (yod pa)であり、否定対象(7)は無(med pa)でなければならないからである。否定対象たる我は畢竟無(gtan med pa)でなければならない(8)。何故ならば有るならば、否定できないからである。これ に対し空の基体たる有法、すなわち否定基体は必ず有でなければならない。何故ならば、ツォンカパにとって、空性という否定が有るならば、否定 基体は必ず有るはずだから(9)である。更に、ツォンカパやゲルク派の論理学によれば、対立 や関係とは有のみにおいて起こり得る言説である(10)。無なるものと関係するものなど何も無い。それゆえ有である否定基体と無である否定対象とには、対立や関係は見い だせず、「自空」における否定基体と否定対象との関係を想定することは不可能となる。この理論的前提が「自空」を簡単に表現し得ぬものにして いる。しかし少なくとも「自空」とは「否定基体が有であり、否定対象が無であり、否定対象は否定基体それ自身ではない場合である」ということ だけは言える。 では「自空」「他空」の対比は一体何の対比なのだろうか。これについては次のような記述から推測できる。
(p)は他空に相当し、(q)は自空に相当する。ここではそれらの対比が命題において排除されるものの対比に求められている。それを整理すると 次のようになる。
¬(q)の部分の空欄に何が入るか 表の空欄部分は更に次のような表現に求めることができるだろう。
ここで唯識派と中観派との両者は(p)の空の形式(他空説)を排除し、(q)の空の形式(自空説)を主張している、ということを意味している。 (q)の形式は「その否定基体(x)がその否定対象(y)であること」(dgag gzhi de dgag bya de yin pa)を否定している、と述べている。こ のことから、先の表の空欄部分¬(q)には、 ¬(q)=「その否定基体(x)がその否定対象(y)であること」((x) (y) yin pa) と代入可能である。更に、他空を採用せず自空を採用する論理的要請として、 [論拠1]有情は¬(q)と思い込んでおり、¬(p)とは思い込んでいない という二つの論拠を確認できる。それ故に二つの空の形式の対比は
ということになる。ではこうした対比と(q)を採用する理由は一体何を意味しているだろうか。これについて若干考えておこう。 まず二つの空の形式を論証形式の対比ではないのか、と想定してみよう。確かに一見すると、(p)の形式(他空)では「ある場所に有るのか無 いのか」(yod med)ということが問題とされ、(q)の形式(自空)にはある基体となる主語に対して「〜である」「〜でない」(yin min)とい うような述語が当てはまるかどうかが問題とされているように見える。しかしこのことから「二つの空の形式の対比とは、チベット論理学における 二つの論証形式(sgrub tshul)のうちの存在論証(yod sgrub)と述定論証(yin sgrub)との対比である」と言うことは可能であろうか。それは 不可能である。何故ならば、(p)を示す命題「壺の無い場所には壺が無い」の論証形式も(q)と同様に述定論証(yin sgrub)である ¥footnote{Cf. rTags rigs rang lugs, 18b6--20a2.}から、論証形式が述定論証であることには、(p)と(q)ともに一致しているから である。ただし自空の論証形式が述定論証であることは自空を論証する命題の一つの側面であるとは言える。 次に、所証法(bsgrub bya'i chos)として他空と自空に相違があるのか、ということを考えてみよう。確かにツォンカパは、ドルポパが(p)の 形式(他空)は「肯定」(sgrub pa)であると主張しているとしている¥footnote{Cf. Drang nges, 6b3--4; Drang nges mchan, tsha.}。しかしながら、ツォンカパ自身にとっては両者ともに「絶対否定」(med dgag)であり¥footnote{Drang nges, 32a6: 壺が無いというのは絶対否定であり、それと場所とが共通基体として組み合わさっていても絶対否定なのであり‥‥。}、ツォンカパの思想の内部 においては、所証法としても何らの差異は無い。そもそも、(p)と(q)の両形式ともに否定証因の所証法であるからこそ、絶対否定でなければな らず、それはゲルク派の論理学の基本事項の一つでもある¥footnote{Cf. sDe bdun rgyan, 91b4--5: それを証明する非認識証因の定義は、 それを証明する三相が充分である論証因であり、かつ、それを証明する所証法であれば必ず絶対否定であるものである。}。 このように見てゆくと、二つの空の形式が論証形式や所証の法として一致していることが分かる。このことから、両者において排除されるものや 命題の内容には相違点があるにも関わらず、表面的にはそれほど大きな相違点は見いだせない、と言える。 では両者の違いとは一体どこにあるのか。「他空」の場合、否定対象と否定基体とが異なった対象(don gzhan)・他者(gzhan pa)という関係 にある。それは換言すれば、否定対象と否定基体とが両方とも有であるということである。何故ならば、有でなければ他者という関係を措定するこ とさえできないからである。それに対して「自空」の場合、先程確認したように、否定基体は有であるが、否定対象は無である。この二つの空の形 式が表面的にはそれほど差異がないのならば、それは両空の形式が前提とする理論においてのみ差異があるというより他にはないことになる。では 両者の前提における差異とは一体何なのだろうか。 記述[4]の直後に、ツォンカパは「有情の心相続の無始時以来の思い込みに、そのような否定対象を捉える知が有るのかどうかということも、 このことに付随して合わせて理解しなさい。」(dGongs pa rab gsal, 151b1--2)と述べている。これは、先の空の形式を採用する論理 的要請と同主旨のものであり、有情が無始時以来思い込んでいるものが、¬(p)なのか¬(q)なのか、ということを考えることで空の形式の 問題が自ずと解決できる、ということを示唆している。このことから、二つの空の形式の対比の前提となる存在論の対比の本質は二つの空 の形式とは逆の命題を捉える二つの主体の対比にある、と言うことができるだろう。 では何故そのような二つの主体の差が述べられねばならないのだろうか。それは¬(q)を捉える主体が有情であるのに対して、 ¬(p)を捉える主体が何なのかを考えることによって明らかになる。しばしそれを考察してみよう。
3.二つの空の形式から増益の把握形式へ二つの空の形式を決別させる要因たる、二つの空の形式とは逆の命題を捉える二つの主体、これらは一体何なのか。このことについて次の記述を見てみたい。
冒頭で空の基体として依他起が代入されねばならない、と述べているが、これはツォンカパの基本的理論である。また最後の下線部「支分」 (yan lag)ということの意味は後から考察しよう。ここで「学説によって知が変化させられた者だけによって」と述べられるものが「分別起の増 益」(sgro 'dogs kun brtags)を指しているのはツォンカパの別の記述からも明らかである。そしてそのことと先の記述[4]の論理的要 請部分の「有情¬(q)と思い込んでいるのであり、¬(p)とは思い込んでいない」とを考え合わせれば、
と言えるであろう。それはつまり、空の形式(p)を採用してはならない最大の要因は
という極めて単純な命題に尽きていることが分かる。 それでは何故そのような命題に尽きるのだろうか。これについては「対治となる」「法我執に対して損傷を与える」ということを考えることで明らかになるだろう。 ツォンカパの思想体系において法我執の対治となるものとは、法無我を理解する智慧のみである。そしてそれが何故対治となるかと言えば、法我 執とそれは同一の所縁に対して二つの異な ったもの(形象)を把握する、という把握形式が直接対立しているからである ¥footnote{Cf. ¥textit{Sras bsdus grwa}, 140a3--b6. ただし仏智と法我執とは直接対立しているけれども、損傷するもの・されるものとしては 働かない。何故ならば、所断が無いからである。}。このような片方のものが片方のものを損傷する、対治として働くものは「共存不可能な直接対 立者」(lhan cig mi gnas 'gal gyi dngos 'gal)と呼ばれる。 法無我を理解する智慧と倶生起の法我執とが同一の所縁を二つの対立した形式で捉えている形式が共存不可能な直接対立者であることは、次のよう に表現される。
[6]では「自性を増益する無明」と「無我を理解する智慧」との両者が「把握形式が直接対立していなければならない」とされている。[7]で は両知が同一の所縁に対し二つの相反する命題を捉えているとされている。この両記述から、法我執と法無我を理解する智慧と は、空の基体となる同一の所縁たる依他起・縁起に対し、前者は「否定対象たる我である」と捉えているが、後者は「否定対象たる我に関して空で ある」と捉えているということが分かる。 通常「熱さの認識と冷さの認識」のような場合、その把握している対象である「熱さ」と「冷たさ」の側にも対立がある。しかしこの無我を理解 する智慧と我執との場合、それらが把握している「我」と「無我」とには、対象としての対立はない。したがって、これらはあくまでも二つの知の 把握形式の対立でしか考えることができない。両者は同一の基体に対する対立する把握であるからこそ、一方の知が意識に立ち上っているときには、 もう一方を捉える知が意識に立ち上ることはできない。これが共存不可能であるということであり、それが共存不可能であるからこそ、空性を理解 する智慧が意識に現前しているとき、法我執という増益を排除することができるのである。そしてそのことから「対治」となると言われている¥footnote{rTsa she Tik chen, 99a6--b1: 所断と見解とは、共存不可能対立であるが、どのように共存不可能なのか、というと熱 さと冷たさのように〔実体的な〕持続(rgyun)を維持し得ないという観点からではないのであって、明暗のように時間的観点から共存不可能なの である。それ故に対治たる無漏無間道とその所断との両者が同一相続上に同時に働くことはない。Cf. ¥textit{Thar lam gsal byed}, 49b4--b5. }。 もちろんこの共存不可能な直接の対立は、¬(p)を捉える分別起の増益とその対治たる(p)の空の形式を捉える知においても当てはまる。 (p)の空の形式を捉える知はあくまでも¬(p)を捉え る知の対治にしか過ぎず、すべての衆生に共通して存在する無始時以来の輪廻の根本原因 となる¬(q)を捉える倶生起の法我執に対する対治になり得ない。これはどういうことかと言えば、¬(q)を捉える倶生起の法我執に対する 対治を説かなければ、輪廻の根本原因を退ける智慧を獲得するという空思想の目的を満たすことができない、ということにほかならない。つまり (p)の空の形式を採用することは、空思想本来の目的から外れているのであり、それ故に(p)の空の形式、「他空」は正しい空の形式であるとは 言えないのである。 このように考えると、輪廻の根本原因を退けるという目的に適った空の形式は(q)のみであり、(p)ではないことの論拠が、倶生起の増益・分 別起の増益という二つの知の差異こそにあることが分かる。以上のことを踏まえ二つの空の形式に関する対比の表を完成させると次のようになる。 {¥footnotesize ¥begin{center} ¥begin{tabular}{|c||c|l|c|} ¥multicolumn{4}{c}{否定基体=(x)、否定対象=(y)の時}¥¥¥hline 空の形式 & ¥multicolumn{2}{c|}{排除されるもの(bkag pa)} & 主体 ¥¥¥hhline{|=#=|=|=|} (p)他空 & ¬(p) & (x)における(y) という他の対象に有るもの & 分別起の増益¥¥¥hline (q)自空 & ¬(q) & (x)が(y)であること& 倶生起の増益¥¥¥hline ¥end{tabular} ¥end{center}} 4. 空の形式の異なる体系への適用自空と他空という二つの空の形式の対比の本質が、倶生起の増益と分別起の増益との差異にあることが明らかになったが、最後にそのような理論によってツォンカパが何を意図したのかを考えてみたい。それは先の記述[5]の末尾の「支分となる」ということを考察することによって明らか になると思われる。 記述[5]の末尾の「支分となる」ということは倶生起の増益を断じるための作業の過程において、分別起の増益が断じられるということを意味 している。ツォンカパの修道論¥footnote{Cf. gSer phreng, tsa 120a3--5, 174a5--b1; Lam rim chen mo, 155b4, 499b4--6.}に従えば、その作業は実際には法我執を直接的に断じはじめる大乗見道以降であるが、大乗加行道、すなわち空性を比量によって対 象普遍(don spyi)を通じて理解する段階で、既に分別起の増益の力を抑制することができるとされるので、その段階に注目してみてみたい。比量によって 分別起の増益が抑制されることとこれまでの自空や他空といった空の形式とがどのような関係にあるのかは、次のような記述に見られる。
この難解な記述は自空・他空とに関連する議論が、ツォンカパの思想体系においてどのような位置を占めているのか、ということを明確に示すものである。下線部に示されるように、自立派や唯識派は、帰謬派と同じ空の形式を採用しながらも、帰謬派の空思想から見れば、それらは他空説を 脱却できない。その理由として、帰謬派の自空「諸法はそれ自身の特質によって成立しているものに関して空である」を理解するのならば、その理 解は倶生起の増益の対治であるので、その働きが滅さない限り、分別起の増益を退けるけれども、それ以外の空の形式を採用している自立派や唯識 派の空性を理解する智慧が成立しその働きが滅さなくても、更に他の分別起の増益が起こり得る、ということが述べられている。 これは、倶生起の増益の把握形式とは逆の確定(帰謬派の空についての確定)が心相続に起こり、その確定ないしは記憶の力が滅さない段階で、 証因に基づいて他の有法についても同一の所証法を確定する比量ないしは確定を引き起こすことが可能であり、その時点で更なる他の様々な量を媒介とし(brgyud pa)なくてもよい、ということである¥footnote{dGongs pa rab gsal, 240b6--241a1: 基体たる眼等の内法において真実 無を量によって確定した後に、色等の他の法において真実として成立しているのかどうかに知を向けたそのときに、他者によって能証が提示される ことに依存しなくとも、自己の正証因に基づいて疑念を払拭することになる。Cf. sTong thun, 112a4; ¥textit{sKabs dang po'i mtha' dpyod}, 61--62.}。こうした量による増益の排除の過程については、因の三相を確定する知から増益をどのように排除し比量を心相続に引き起 こすのか、という極めて難解な問題¥footnote{Cf. rTsa she Tik chen, 27a6--27b1; ¥textit{Thar lam gsal byed}, 49b5--50a1; ¥textit{rNam 'grel mtha' dpyod}, 186b2--207b1.}を含んでおり、ここで詳しく論じることはできないが、少なくとも、この記述からは次のよ うなことが言える。 すなわち、唯識派であれ中観派であれ、空思想を唱えるすべての学派は、各々の倶生起の法我執の規定によって、それぞれ自空説(q_1)を採用 し、他空説(p_1)を捨てており、他空説を自説の空思想として採用する学派はいない。しかし上位の学派によってそれが計量されるとき下位の学 派の空思想はすべて他空説となる¥footnote{Cf. Tshul khrims rgya mtsho, ¥textit{Tshad ma'i dka' gnad gsal bar byed pa'i dus kyi me long} (Beijing: Mi rigs dpe khrung khang, 1991), 333--335.}。上位の学派になれば、下位の学派にとっての¬(q_1)を捉える倶生起の 増益は、上位の学派の思想体系における¬(p_2)を捉える分別起の増益となる¥footnote{dGongs pa rab gsal, 76b5--6: これらの正 理の要点によって、自立派が説いている倶生起の法我執と主張するものもまた分別起とされる。}。そしてそのことによって上位の学派の自空説 (q_2)に立てば、下位の学派の自空説(q_1)は他空説(p_2)に過ぎないことになる。上位の学派の自空説(q_2)に対する確定が生じた時点で上 位の学派が想定する¬(q_2)を捉える倶生起の法我執それ自体は捨てられていないが、上位の学派の思想体系における¬(p_2)を捉える分別 起の増益、つまり下位の学派が倶生起の法我執とするもの(¬(q_1)を捉える倶生起の法我執)は、捨てられているということになる。そして その時点で下位の学派の学説をも捨てており¥footnote{Lam rim chen mo, 461a6--b1: そのようであれば、その後論者は実在論者の学説 を捨てないその期間中、それ自体で成立している‥‥何らかの事物はそれ自体で成立しているものが無いと量によって理解した後には、実在論の学 説を捨てているのである。Cf. ¥textit{sKabs dang po'i mtha' dpyod}, 64.}、上位の学説へと移行している¥footnote{¥textit{Lam rim chen mo}, 460b5--a1: そのように自性を承認していることに、損傷するもの(自性を否定する比量)が示されていることを見るときには、それ自体で成 立している自性が有ると把握する学説を捨てることになり、その後に、無自性なるものにおいて作用対象・作用主体が妥当なことも理解し、‥‥理解することになるのである。Cf. ¥textit{sKabs dang po'i mtha' dpyod}, 64.}ということになるのである。 このように、ツォンカパの自空・他空という言説は単にドルポパを批判するための議論に留まるものではない。ある学派の空(q_1)とそれ以外 のもの(p_1)とを区別していた空の形式の対比は、その同一の論理を使用し、それ以外のより上位の学派の空思想(q_2)とそれ以外の空思想 (p_2)(このなかには下位の学派の空思想(q_1)も含まれる)を峻別する枠組みとして活用される。空の形式の対比の問題がそれが前提としてい る二つの増益の対比へと適用されるとき、ツォンカパの空思想の内部に通底する論理として、すべての学派に共通する空思想を規定する機能と、そ の特殊項目における空思想とそれ以外の思想を差異化する機能との二つの機能を同時にもつことが可能になるのである。 こうした空の形式に適用されるツォンカパの仏教体系の構築方法は、彼の空思想のみに限定されるものではない。それは「すべての教説が教誡と して現れる」というカダム派の思想をツォンカパが再構築する際に採用した、ツォンカパ独自の仏教体系構築理論でもある。つまり「菩提道次第」(byang chub lam rim)とは、単に仏教における様々な学説や教説が価値的な上下関係に基づいて段階的に配列した階梯なのではなく、複 数の相容れない学説に通底する枠組みないし論理を言語化し形式化することを通じて、一つの有機的結合体として配置した階梯なのであ る。そしてその構造は、単一の線的形状を取っているのではなく、ヘテロストラクチャである点に特徴がある。ツォンカパの採用したこの手法は、 あらゆる仏教の伝承を一人の人間の解脱のためという目的意識のもとに整理する際に導入され、彼の思想の本質的側面を担っていると言えるだろう。 「空の形式」とは、ツォンカパの中心思想である空思想に関する形式的限定であり、一般に正しい空性かどうかを峻別する要素である。しかしそ の前提たる倶生起・分別起の増益の差異へ視座が移行されたとき、その論理は、各学派間の空思想とそれ以外の思想とを峻別する要素として機能 する。こうしたツォンカパの「空の形式」の論理は、本質的に倶生起・分別起の増益の論理に依存するものであり、それは、おそらくツォンカパが 文殊菩薩から受けた宗教的啓示¥footnote{Cf. ¥textit{gSang ba'i rnam thar}, 3a2--4.}に基づいたものではないかと思われる。 結 論以上ツォンカパの空の思想における「空の形式」という問題を巡り、様々な異なるレヴェルの問題を考えてきた。最後に本稿の結論をまとめてお きたい。 (1)ツォンカパの空思想における「空の形式」(stong tshul)は、倶生起の増益の把握形式を前提としている「自空」(rang stong)、すなわち「否定基体(x)は否定対象(y)ではない」という「述定論証(yin sgrub)形式」が採用される。それに対して「他空」(gzhan stong)、すなわち「否定基体(x)において否定対象(y)は他の対象として無い」という空の形式は、分別起の増益を前提とする。この場合、二つの空の形式の対比の本質は、前提となる増益が倶生起なのか分別起なのかという点にある。 (2)分別起の増益が捉えている内容に関する空の形式である「他空」は、倶生起の増益と直接対立する把握形式とならないので採用すべきではない。何故ならば、倶生起の増益と直接対立する把握形式の智慧の力によって、分別起の増益を断じることも可能であるからである。それ故に、仏教の目的である解脱を果たすためには「自空」のみで充分であり、それ以外の空の形式を採用すべきでない。 (3)「自空」と「他空」という二つの空の形式の対比の問題が、その前提である倶生起の増益と分別起の増益との対比の問題へと置換されるとき、下位の学派の倶生起の法我執は上位の学派の分別起の増益であるが故に、上位の学派から見れば、下位の学派はすべて「他空」を唱え、上位の学派の空思想のみが「自空」であるということになる。しかし、それぞれの学派はそれぞれの規定する倶生起の法我執に対する対治としての空の形式を採用しているので、すべての学派は「他空」を排除し「自空」を主張していることになり、すべての学派が「相互空性」を排除していることになる。 本稿で考察できなかった点やこのことに関連して引き起こる様々な問題については稿を改めて論じたい。 略号と文献
注(1) rTen 'brel bstod pa: bstan pa'i snying po stong pa nyid // 【↑】 (2) この項目に整理して考える考え方はツォンカパの初期の作品か ら見られる。Cf. gSer phreng, tsa 258a2-3: 依他起が否定基体であり、二我として仮設された部分が否定対象であり、依他起が遍計所 執に関して本来空である部分が円成実であると主張している。} 【↑】 (3) ツォンカパの否定に関する定義については、拙稿「ツォンカパの否定の定義とその思想的展開」『論叢 アジアの文化と思想』第10号(2001)を参照されたい。 【↑】 (4) gSer phreng(tsa 34b3)=rTog ge bar ba(sDe dge ed.), 88a7--b1.} 【↑】 (5) David Seyfort Ruegg,La theorie du Tathaagatagarbha et du gotra (Paris: Ecole Francaise d'Extreme-Orient, 1969); do. Le traite sur le Tathaagatagarbha de Bu ston (Paris: Ecole Francaise d'Extreme-Orient, 1973); 谷口富士夫『西蔵仏教宗義研究』第六巻(東洋文庫、1993)など。【↑】 (6) このことについては、Drang nges mchan, tsha; gSer phreng bgrod gleng, rtsom gzhi gsum pa; 荒井裕明「ツォンカパの他空性批判−Yum gsum gnod 'jomsを中心として¥−」『仏教学』33(1992); 佐藤道郎「ゲールクパにおける如来蔵理解」『日本西蔵学会々報』第38号(1992); 袴谷憲昭「チベットにおけるインド仏教の継承」『岩波講座 東洋思想 第11巻 チベット仏教』(岩波書店、1989); 同「チョナン派と如来蔵思想」(Ibid.)で詳しく考察されている。【↑】 (7) ここで否定対象(dgag bya)と言っているのは、より正確に言うならば「正証因の否定対象」(rtags yang dag kyi dgag bya)と呼ばれるものである。Cf. Lam rim chen mo, 420a3; sTong thun, 65a1--b6; Drang nges chen mo, 91a6--b6. 【↑】 (8) Lam rim chen mo, 420a3: この否定対象は、認識対象(shes bya)のなかに無いものでなければならない。何故ならば〔その否定対象が〕有るならば、否定できないからである。Cf. sTong thun, 65a6.} 【↑】 (9) rTsa she Tik chen, 148a6--b6: 空性である何らかのものが真実として成立している、と主張するの ならば、その所依たる有法は何らかの真実として成立しているものであると、必ず主張しなければならない。何故ならば、所依たる有法が無いのに、 能依たる法が存続することは有り得ないからであり、真実として成立している所依を虚偽によって示すことは矛盾しているからである。Cf. sTong thun, 82b1--2; Drang nges chen mo, 52a1--53a1.} 【↑】 (10) Cf. Sras bsdus grwa, 47b6: yod pa dang 'gal ba yin na yod pa dang'brel ba yin pas khyab /【↑】 (11)「don gzhan du yod pa」のla don 助辞については、近年Thurman氏、 池田道浩氏などのよう に「他の対象として有るもの」と「それ自身を表すもの」(de nyid)の意味にとる解釈と、Hopkins氏などのように「他の対象に有るもの」と「場 所を表すもの」(gnas)とする解釈との二つの解釈が存在しているが、ここでは後者を採用するのが自然であると思われる。何故ならば、ここでは 聖者の無漏三昧知に二顕現が無いことが論点とされるからである。Cf. 池田道浩「トゥルプパの三性説解釈とツォンカパの批判説」『日本西蔵学会々 報』第41--42号(1997); 片野道雄『インド唯識説の研究』(文栄堂書店、1998); Jefferey Hopkins, Emptiness in the mind-only school of Buddhism(California: University of California Press, 1999); Robert Thurman, The Central Philosophy of Tibet(Princeton: Princeton University Press, 1984).【↑】 (12) Madhyaantavibhaaga.tiikaa(Pandeya ed.), 12の取意。【↑】 サンスクリット語などの表記に関する特殊符号は省略しています。 [Papers Index][Home] ご意見、ご感想、ご批判はshojiro@kokonor.comまでお願いします。 |
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