Last Updated: 2010.08.18

当事者性(1)

問題の所在

 ツォンカパ・ロサンタクパ(Tsong kha pa Blo bzang grags pa, 1357-1419)の空思想において「‥‥にとって」(+ འི་ངོར་/ + ངོ་ན་)という言葉で表現される当事者性の問題は、極めて重要な問題である。何故ならば、文殊から空性の枢要について教示を受けた際に彼がもっていた「自己の主張(རང་ལུགས་)/承認(ཁས་་ལེན་)は何も無い」という見解は「自立派でも帰謬派でもどちらでもなく、中観の見解ではない」と文殊に否定され、その後の彼の生涯のテーマのひとつとなったからである。このテーマをひとことで言えば、それは「空性を表す普遍的命題空間から当事者性を如何に排除するのか」ということに尽きる。帰謬派の空思想において当事者性を排除し、言説を「他者への転嫁」(གཞན་ངོར་སྐྱེལ་བ་)から回避したことは、後代ツォンカパの一大功績として数えられている。

 そもそも「xはyである」という真理を記述する命題と「当事者に承認された事実」(ཁས་་ལེན་)に基づいて「Sにとってxはyである」という解釈を記述する命題とは、本質的にその意味空間に差異がある。仏教論理学の伝統上、一般的に前者は正式な論証式として使用されるが、後者は正式な論証式(སྦྱོར་བ་)ではなく、あくまでも帰謬式(ཐལ་འགྱུར་)を構成するときに使用されるものである。しかし、当事者Sに仏智などの普遍的真理を認識する知が代入される場合にのみ、両命題間で同じ変数x、yが使用される。そして、後者の命題によって対論者に普遍的事象に対する確定が起こるならば、「Sにとってxはyである」という命題から「Sにとって」という当事者性の付加部分は消去され、「xはyである」という真理へと昇華されることができる。こうした解釈の真理への転用は仏教論理学においては極めて常識的なものであるが、それは同時にさまざまな混乱の原因ともなっている。

 帰謬派の思想を中観思想のなかでも最高のものとするチベット仏教の伝統上、この問題は帰謬派における「証因」「命題」「承認」「論証式」等の問題と共に、常に議論され続けることとなったのである。ツォンカパが帰謬派の思想体系についてどのように解釈したのか、ということは、思想史的にも重要なテーマであり、近年もそれについて多くの研究がなされている。しかし、それらの多くは論理学の解釈を中心とし、チベット仏教思想史上にツォンカパを位置づけることはできても、この一連の作業そのものの本質的な着想を明らかにするものではない。本稿では、空性を示す命題の当事者性の問題に対し、ツォンカパが如何にアプローチし、彼の空思想の議論の向かう本質的方向性を明らかにしたい。

Note:
1. これまでに”ngor”という語を「‥‥の側で」と和訳する例が多く見受けられる。しかし、この表現によって表示されているのは、本稿で明かにするように、物理的にどちら側にあるのかという場の問題でないのであって、そのものを把握する知ないし言語という解釈の担い手である当事者にとってはどのように成立しているのかということが問題になっているのであるから、この解釈は採用しない。

2. D. S. Ruegg, Three Studies in the History of Indian and Tibetan Madhyamaka Philosophy, Wiener Studien zur Tibetologie und Buddhismuskunde Heft. 50. Wien: 2002; Georges Dreyfus and Sara McClntock ed. The Svātantrika and Prāsaṅgika Distinction. Boston: Snow Lion Publications, 2003. など