Last Updated: 2011.01.18

書物の海

書物の海に囲まれて過ごしていくというライフスタイルを望んでいたけれども、ある時から特定の分野の書物を収集した。特にチベット語の原書を多く集めることに莫大な金額を費やしたが、いまふと思うにこれらの書物は一体だれが読むために入手されたものなのか、分からなくなってきた。ここにある書物の海は、明らかに持ち主である私が死ぬまでに読み切れない量があり、バランスを考えると、キャパシティーをオーバーしているわけだ。そもそも、多くの書物を整理するだけで何日もかかるようでは、これはまずいんじゃないかとふと思うものである。

仏教学の研究者というものは、文献学をベースに行うことが暗黙の了解となっているが、それはあくまでも書物に書かれたことばしか手がかりがないということに過ぎない。いちおう過去(つまり今より前)に文字にされたものをすべて網羅的に調査した上で、過去になかった何らかの新しい見方なり分析というものを客観的に提示するのが研究者の役割であると思ってきたが、そこには同時代にことばにならないで消えて行った人の痕跡というものを、見えないものであるかのごとく扱う乱暴さがある。このことにふと気付いた。

人間としてはことばや文字になっていないものを想像力によって補完し、そこに生きてきた様々な思い、そして意志、そういったものへ追想を巡らせることができるということは自明のことであるが、同時にすべての情報をきりなく追い求めることができないというジレンマもある。

神はその自らの姿に似せて人間をつくったというが、同時に人間は自らの姿に似た外部の構造物を時には神として建築してきたのである。そのすべてが必ずしも文字に残されなければならなかったわけではない。誰しもが生きている痕跡を残さなければいけないという原則は全くない。

行間や文字の間の意味を読み込もうとする意志も重要であったが、書物と書物のあいだにある無言のことばたちのことを忘れるべきではなかったし、そしてその書物が書かれた紙をつくった人間、文字を書いたペンなどのことも忘れるべきではない。