原田さんの想い出

原田力男さんは、志の人であった。

私に教えてくれたのは、「無名であることの美しさ」と
「有名であるからいいわけではない」ということであった。
それは簡単にいうと、実力主義と自己愛の否定であった。

原田さんは、プライベートな、人間的なものを大切にした。
それは、すこしエロチックであるが、颯爽としたものであった。

私が最初に原田さんに会ったとき、それは上野公園の冬であった。
原田さんは瀧口修造が生きているのではないかと思うような雰囲気を醸しだしていた。
原田さんのきているトレンチコートからは、前衛の臭いがぷんぷんしていた。

残念ながら、その時には、前衛の時代はもう終わっていた。

ぼくは前衛の時代に憧れていたが、ぼくの時代は混沌そのものからはじまった。
しかし、いまはどうだろう。

情報化社会は高度に発展した。
ぼくのこうした日記的なものを原田さんは望んでいたはずだ。

時代はガリバンからブログへと変化した。
我々の言葉は、むかしよりももっと虚しいものへと変化している。
その一方で、美しいものへ追求する人々の心も薄らいでいる。

「リアリティ」という言葉は、虚しい世界で意味をもつものではない。
リアルな世界でこそ、人間のもつ力としてのリアリティを追求したい。

ぼくのなかでは、原田さんの精神はいまも生きているはずだ。
そして、人生を虚しくしないで、すこしでもこの流れに抵抗できればいいのではないかと思う。

2005-09-05

四聖諦

今日はケンスル・リンポチェによる説法会があり、『道次第広論』のなかから四聖諦の箇所が説かれた。

四聖諦はよく「四つの聖なる真実」 Four Noble Truthと訳されているが、これはチベット仏教の伝統的な解釈からすつと誤りであるということが意外にも分かった。

四聖諦とは、現代語風に訳すのならば「四つの聖者にとっての真実」とでも訳す必要があるのではないかと思われる。というのも、たとえばクンケン・ジャムヤンシェーパの『波羅蜜多研究』によれば、四聖諦は何故四聖諦とよぶかということの説明として、それらが聖者の知が見ている通りに存在しているのであり、凡夫の知にとってはそうではないから、と述べられている。

そもそもツォンカパなどの思想に基づくのならば、見えている世界と実際に存在しているものとが一致している場合には、「真実」であり、見えている世界と実際に存在しているものとが一致していない場合には、「虚偽」であると言われる。つまり知に現れている対象の様相とその対象の実質的な様相との一致・不一致により真実なのか虚偽なのかということが分類されているのである。

もしも「聖なる真実」と訳すのならば、どのような間違いになるのか。それは「聖なる」という限定語によって引き起こされるふたつの概念、つまり「聖なる真実」と「聖なる」ものではない、「俗なる真実」とのふたつになってしまうのである。このようなものは知そのものの担い手が聖者か世俗のものかによって分類される「勝義諦」「世俗諦」の二つの真実、いわゆる「二諦説」となってしまうのである。そこでさらには、四聖諦のうち滅諦以外は世俗諦に属するものであるからこそ、苦諦・集諦・道諦の三つは「聖なる真実」ではなくなってしまうのであり、その場合には、四聖諦のうちの三つは聖諦ではなくなってしまい、「これは集である、それが聖諦である」という経典の文章と矛盾してしまうことになるのである。

仏教はもともとインドを経て日本には漢字文化圏を通じて伝わった。漢字文化圏には漢文の仏教用語がある程度整備されている。近代になって日本では西洋流の仏教用語、つまりヨーロッパ語の仏教用語を日本語に直訳したものがでまわるようになってきた。しかし我々本来のことばを捨てて、仏教の理解について何ら伝統もないヨーロッパの伝統を無批判に受入れてしまった弊害がこの「四つの聖なる真実」という訳語に反映されていると思われる。

2005-06-10

ひきこもり

ひきこもり、というのはあまりいい印象はない。
ただ、いまの時代、ひきこもることも必要かも知れない。

ぼくの二十代前半の時は、本当にひきこもりの毎日だった。
ときどき「声がでたっけ?」とアホなことも普通に思っていた。

人間は孤独では生きていけない性があるけれども、
孤独は時には、人についたさまざまな足枷を落としてくれるものだ。

〆切まであとちょうど一週間。

そこで今日から引きこもることにした。
といってもぼくがいるところは、日本唯一のチベット仏教寺院。
だからいろんな人が沢山やってくる。

日本人だから、愛想よく「こんにちわ」などと言わなくてはならない。
自分では愛想よくいっている積もりなのだが、人から見ると愛想が悪いそうだ。
これは何とも悲しい努力ではないか!

とりあえずこの週末はなるべくコミュニケーションを少なくして、
明日、明後日は「愛語」の精神でいこう。
そして論文には、ことばの力をふりしぼらなくてはならない。

明日は、ターラー菩薩に曼荼羅を捧げる法要がある。
現在、カーラチャクラのため人員がいないので、ぼくもいちおう読経する。

ターラー菩薩はすべての仏の活動の象徴である。
今日テレビでやっていたアフリカにいる、イチジクと歩む小さなハチにも、
平安をもたらしてくれるはずだ。

論文がターラー菩薩のご加護で何とかできて、
他の人にも意味のある論文となりますように、
せめてそのことだけはお願いしておこう。

今晩は、もうすこしだけ論文を書いて、
ツォンカパも日常的に読経していたと言われる、
『文殊師利吉祥名義経』を唱えてから寝ることとしよう。

2004-08-22