Last Updated: 2009.05.30

こうやったらどうなるのかー沈黙のカルテット

佐藤慶次郎さんのところに行くようになって、私の人生は大きく変わった。作曲というものには和声法や音楽理論やオーケストレーションといったものは、何も要らないということを教えてもらったからだ。佐藤慶次郎さんは私に作曲を教えるとか、技術を教えるというつもりは全くなかったし、そんなものは音楽の本質ではないということを強調されていた。

田舎から出てきて作曲家を目指していた私は、シェーンベルクの『作曲の基礎技法』とか柴田南雄の『音楽の骸骨のはなし』や伊福部昭の『管絃楽法』やXenakisのFormalized MusicやJohn CageのSilenceなどを読みあさっていたが、それが間違いであることに気づかされ、自分の愚かさに気づかされた。

佐藤慶次郎さんがよくおっしゃっていたことで、私が学んだことは「こうやったらどうなるか」というそれだけだった。まずは自分で「こうやったらどうなるか」ということを考えてやってみて、おもしろいかどうか、それが音楽のすべてであった。音楽は人のまねではなかったし、そんなものは芸術とは言えないものであった。

更には、芸術なんていうものは、実はどうでもいいものであった。どこまで遊べるのか、そしてその遊びが「あるところを突き抜けて、どこまで普遍的におもしろくなるか」。そして「そのおもしろさがどれだけリアリティをもっているか」それが音楽であり芸術であることを教えてもらった。

佐藤さんは実験工房の代表的な作曲家であったし、瀧口修造さんを巡る芸術家のひとりであり、早坂文雄さんの最後の御弟子さんでもあったが、実はそんな偉い人からも影響を受けたとか、何かを継承したとかそんな陳腐なことは全く嫌いなお方であった。

ぼくの作品は、こうやったらどうなるかっていうのをやってみて、まず自分で面白いかどうか、そしてもっと面白くならないかどうか、また徹底的にやってみる。そしてあるところで、何らかの世界ができるんだ。それだけだよ。

そういつもおっしゃっていた。

梵鐘をゴーンとならして、その余韻が消えるまで消えるまで音を聴いていたり、葉っぱが風でたなびくのをじっと見ていたり、水が流れるのをじっと見つめている、それだよ、君。それが何事かなんだ。

音楽を作っていたらある日いつのまにか音がなくなってたんだよ、君、わかるかい?それでできたのを『沈黙のカルテット』って名前にしたんだよ。

この「沈黙のカルテット」と題された作品は、佐藤さんの音楽であり、ことばであった。

そんな佐藤さんが衝撃を受けたのは、John Cageであった。佐藤さんは、「沈黙」ということに本当に衝撃を受けたと語ってくれた。

佐藤慶次郎さんにとっては作り手はまず最初の受け手であった。そして同時に厳しい聴衆であり、観衆であった。佐藤さんがご自分の作品に厳しかったのは、芸術としての完成度とか純粋さを求めたとか、完璧主義者であるとかいろんなコメントを見てきたが、実はそれはあまりあたっていなかった。

佐藤さんにとっては陳腐な芸術作品は「何事か」と言えるようなものではない、ということであり、「何事か」であるものは、見ても見ても飽きない、聴いて聴いても飽きない、何事かであった。