沈黙で語るということ

macOS mojaveではダークモードになったので、このブログもダークモードにしてみた。そもそもスクリーンを我々は見過ぎなのでもう少し視覚にやさしいことを考えようということである。音を聴取しようとするときには、暗闇の方が視覚に力を入れないことで、聴き取りやすくなるのと同じように眼でことばを読むときもまた、穏やかな眼差しで読むことができるようになるのだろう。この駄文の集積であるブログも眼にやさしく語りかけてみたいなと思うのでダークモードにしてみた。

ブッダの沈黙というものがあるが、これはことばを発さないで語るということでもある。戯論寂滅・言語道断ということばで連想されるのは、すべてはことばでは表現しきれないということ印象でとらえられることも多いが、沈黙は何かのことを語っていることは確かであろう。ことばを語らない余韻によってどのように語るのか、ということは、下らない暴力的なことばを多く語ることよりもはるかに難しい。ことばは体系を作り、制度となり、それは段々と暴力的になっていく。暴力的になることばは抽象表現を多く使うようになり、抽象表現は暴力的にこのリアリティのある純粋な生命を蝕んでいくのである。

子規の貫之に対する愛憎の吐露は、ことばと沈黙、そして余韻について考えるのにとてもよいものであると思われる。もちろん万葉のことばと貫之のことばには本質的な差異がある。

 人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の香に にほひける

子規はこんな歌は、「下らない歌」であり、「浅はかなる言ひざま」といっているが、これは貫之に対する屈折した愛の告白であるとしか思われない。子規の文章は、現代でいえばブログか、あるいはツイートかというレベルの話題も多いが、彼のものいいも彼の病をもってしては、幾許か容赦してやるべきことなのだろう。

子規が実に下らないと評するこうした歌は、確かになかなか外国人には説明しずらい叙情であろう。日本人はバカじゃないのかと思われても仕方ないのが、私たちのこの日本語のもつ美しい余情なのである。子規ほどの人がこのことを知らぬわけでもないが、縄文的、そして原始的なものへの憧憬は、子規のような発言に共感を覚えることも確かであろう。

子規と漱石というこの偉大なる文学者の対比は、私たちに多くのことを教えてくれる。漱石は評家たちが、暴力的に文学を採点していることに対して融通のきかないやつらだと言っているが、さすがの漱石先生も子規に対して「お前は心が狭いやつだな」とまでは言わなかったのではないだろうか、といったたわいもないことを考えてしまうのは、私だけではないと思う。

2018-12-10

生命のリアリティを取り戻す

気がついたら長い間学会に出かけていき、自分の研究発表をしないで怠惰な生き方をしていた。自分の研究を発表するのではなく、長く多くの人がよりよい研究をこの地上に残してくれるための仕組みをつくることが自分の仕事であって、自分のつまらない研究を発表する必要はそれほど意味のあることではないと思ってきたからである。

しかしながらしばらくの間、何も研究発表をしないでいるうちに、若い人たちがそれなりに工夫をしたり、また諸先輩方がまじめに研究発表を続けているのを見ていると、やはり自分も何かたまには発表してみた方がいいのではないか、と思うようになり、友人たちに相談したら、たまには何かやってみてはどうかという意見が多かったのでとりあえず応募してみることにした。

近年人類学系の学問をやってきた若手研究者が意欲的な成果を発表している。しかし、私の場合には、もっと深くコアな人たちと関わってきた。そして他の人があまり聞いたことのないような素晴らしい話とものがたりを耳にしてきた。その物語をすべて文字として記録することに、それほど意味があるとも思えない。しかしながら、彼らが私に伝えようとしてくれた大切なこと、それを私も少しは文字に記した方がいいのかもしれないと思う。

10年くらいのんびり暮らしているうちに、過去の偉人たちの言葉が失われていることにも危惧がある。そこでまた自虐的な行為であるとは思いつつ、自分のもっとも苦手なことに取り組むことにしてみたい。

2018-09-01

POST-SOCIAL NETWORK

ある時期からネット上にソーシャルネットワークが急激に発展した。PC向けのサイトではなくモバイル向けのサイトの方が主流となり、人々は自分のことを恥ずかしげもなく投稿していくようになった。

今日は何を食べた、誰と何をした。自分はこんな人と繋がっている、これらのほとんどの言動が「考えなしの言動」である。マスメディアたちが衰退していくのは、仕方のない時代の流れであったとは思うが、人々は情報を吐き出すことで、自らの存在理由を確認しようとしている。

ただそもそもプライベートな時をつなぐはずであったソーシャルネットワークは、現在は多くの企業や団体に毒されている。それはこれらのサービスが有料ではなく、無料で使用できることに由来していると思われる。企業活動などを行う上で、ブランドの認知度を高めることは非常に重要なことであり、自らをブランディングすることに成功した企業が生き残っていることは近年の趨勢であろう。

しかし私たちはそんなに社会的に活動したい生き物なのか。電車に乗って携帯電話をいじる群衆たちは、もはや車窓の景色を楽しまない。毎日見ている景色のなかに何か新しい発見をしようとしなくなった人々は、愚かな群衆になっていく。携帯やタブレットなどのデバイスは悪いわけではない。しかしながら、世の中にはもっと面白い現象がたくさんあることに注目しなくなった人々は、精神を病むしかないのかもしれない。

哲学的、創造的な営みをする人々が、近年精神を病んだ発言をしているのをこの頃見かける。かつての詩人や芸術家はどこにいったのか、その足跡すらもたどれないような状況になっているのだろうか。軽薄な思想や虚構は、最終的には人々を傷つけるものである。人間の顔を失った人々がいくらネットを通じて繋がろうとも、大したことではないのではないだろうか。

2018-08-21

変わり映えのない時の不思議

さまざまな出来事が通り抜けている。雑事に追われながら時はいつの間にか過ぎ、そのはじまりから十年、二十年と経ったことも多くある。表面的には多くの変化があったことも確かである。しかしよくよく考えてみると大した変化もないことも確かである。

ある着想が深化して、そこに様々な要素が付託されることは多くあるだろう。しかしながら表現されたもの、世に出されていくものにそこまで大きな変化がないことも確かである。

のんびり過ごしているうちに、いろんなものがこの世に出現している。テクノロジーの世界がひとつはそれを実感させるものでろう。

しかしながら、それらの本質はあまり変わっていない。美しい芸術たちはいまも美しく、偉大なる詩人たちのことばはいまも素晴らしいことばである。それに対して陳腐な仕掛けは、相変わらず陳腐な仕掛けである。

私たちは変わり映えのない時の不思議を行き来している。

2018-04-14

劉暁波氏の死(公開処刑)について

08憲章をはじめとする言論の活動を行い、ノーベル平和賞を受賞した劉暁波が獄中から釈放されたが、残念ながら亡くなった。日本では有志の方たちがキャンドルナイトを行なった。

2008年、チベットをはじめとして多くの問題が起こった。正直あの時、ひょっとするとこのままチベット問題が解決したらいいのに、そんな微かな期待もあった。しかし残念ながらチベット問題はそのままになり、現状ではさらに悪くなっている。

日本でも2008年にはそれまでに比べて多くの人たちがチベット問題に関心をもってくれた。しかしながら、肝心のチベット人たちはそのままであることには変わらない。

当時は胡錦濤政権であったが、いまは習近平政権となった。日本も経済的にも中国に追い越され、時代も少しずつ変わった。2008年には世界中の多くの人々がチベット問題の早期解決を訴え立ち上がってくれたが、日本でのその運動はその後すぐに下火となり、そのなかから原発反対運動などへと移行していった人も多かった。

チベット問題は複雑であり、中国民主化の動きなどと絡み合っている。当時はダライ・ラマ法王はまだ「半分引退した状態」であったが、いまは完全に政権を主席大臣へと政権を移譲し、それを支える形で日本でも自民党のなかからチベット問題について真剣に考える議員が現れてきて、昨年には無事に「日本チベット国会議員連盟」も正式に発足した。中国国内の少数民族に対する理解も深まり、同時に中国が抱える大きな国内問題についての矛盾もひろく知られるようになった。

しかし今回の劉暁波の死が表しているように、これらのすべての運動がどれも劉暁波の生命を救うことはできなかったことも確かである。ノーベル平和賞の受賞により劉暁波は国際社会の知る人となったが、それに対して中国政府は公然と、そして着実に彼を死に追いやった。彼がもはや治療不能な状態になって一応釈放されたことは事実であり、海外での治療を許可するように求める運動も時已に遅しであった。

日本で人権問題で騒いでいる左翼たちも、またこのダイバーシティの尊重があたりまえとなった国際社会の動向のなかで、民族自決という旗印をいまだに掲げている右翼たちも、誰ひとりとし劉暁波を公然と着実に公開処刑する中国政府に対して何もできなかった。

私たちは無力であると同時に、社会の変化は決してはやいものではない。確かに少しずつは世の中は良くなっているのだろう。しかし現代の社会のなかでこうした公開処刑が行われているこの世はやはり魔物だらけであるとしか言いようがない。

劉暁波が中国政府によって公開処刑されたことは明らかである。しかしながら誰もそれを「公開処刑」と表現しないし、中国政府がやっていることをテロリストたちがやっていることとあまり変わらないことを声高に語るものはいないのは大変残念なことである。

この数ヶ月マスコミは相変わらず森友学園や加計学園をスキャンダルとして扱おうとしている。もしかして彼らはもう一度いまは瀕死状態の民主党に政権をとらせたいのだろうか。そういったドメスティックな問題が重要ではないとは思えないが、隣国中国で起こっている深刻な問題について何らの取り組みも見せることなく、ドメスティックすぎる問題に終始している日本のことが最近心配になってくる。

この不条理な世間の歴史はいまにはじまったことではない。しかし私たちは21世紀のこの現代に国際社会のなかで公然と処刑を行なっている国家が、私たちの住んでいるこの島国のすぐ近くにいまもあることを忘れないでおきたい。

2017-07-21