Last Updated: 2020.03.11

通過点、到達点、そして無限性

東洋の宗教の特徴は、聖人・仙人・仏などといった現在の自己の進化によってある理想の到達点である境地に達することが最初の目的となっている。儒教であれば聖人君主となることが理想であり、道教であれば不老不死の仙人となる。仏教であればブッダとなる。

そのこと自体が可能かどうか、その物語は科学的な見地からみてどうなのか、ということについては多くの人がきっと考えているとは思うが、一体その到達点とはどんな地点なのか、それについてあまり考えられてないような気がする。儒教や道教についてはよくそれほど教養がないので、ここでは仏教のことに限って考えてみたい。

私は最近この到達点というのは、最終目的地のようなものではないのではないかと思うようになった。ブッダの境地や一切相智の境位を最終目的地であったり、最終の到達点である、と考えることは、仏教そのものを理解していないことになってしまう。それだけでなく制度や暴力を生み出す原因となり、その考え方の危険性が危惧されなければならない、ということである。