Last Updated: 2019.10.27

書いていないことを読みこむ力

日本では空気を読むということが重要である。これは日本文化の嫌なところでもあるが、同時に良いところでもある。実際に漂っている物質的な空気を読んでいる人たちはあまりいないとは思うが、人を眼の前にしているとき、以心伝心を行おうとして、すべての小さなことにも集中力が要求されている。

しかしながら、最近はどうだろう。学者先生たちでも本に書いてあることを、日本語にしたり、それを権威とすることで、ああだの、こうだの言う。漱石先生がおっしゃっている「中身と形式」とはまるで逆である。正直もっと空気や余白を読み込んではどうだろうか、ひとつひとつの余白と行間の沈黙に耳を傾けるべきではないのだろうか。

書物を読む、ということはその文字情報を舐め回し、切り出して単なる文字列や情報として扱って、ああだの、こうだの言っても何もはじまらない気がする。何故、彼らはそう書いたのか、そのことによって何を表そうとしているのか、何故彼らはそう書かなかったのか、そのことによって何を表そうとしていたのか、そこに表現を読むことの面白さがある。

誰でも三角形の内辺の和が180度であることは知っているが、そのことはいったいどのようなことなのか、もうすこし深く考えてみた方がいいだろう。

光陰矢の如しとか、仏法聞き難し、というではないか。

空気を読めない人間は、流行や潮流の空気を読んで右往左往している人よりは余白や沈黙を読んでいる。これは意識的にしないと死にそうになるからであり、そもそも漠然とした違和感によって本能的な生への探究がはじまるからである。