Last Updated: 2018.12.10

沈黙で語るということ

ブッダの沈黙というものがあるが、これはことばを発さないで語るということでもある。戯論寂滅・言語道断ということばで連想されるのは、すべてはことばでは表現しきれないということ印象でとらえられることも多いが、沈黙は何かのことを語っていることは確かであろう。ことばを語らない余韻によってどのように語るのか、ということは、下らない暴力的なことばを多く語ることよりもはるかに難しい。ことばは体系を作り、制度となり、それは段々と暴力的になっていく。暴力的になることばは抽象表現を多く使うようになり、抽象表現は暴力的にこのリアリティのある純粋な生命を蝕んでいくのである。

子規の貫之に対する愛憎の吐露は、ことばと沈黙、そして余韻について考えるのにとてもよいものであると思われる。もちろん万葉のことばと貫之のことばには本質的な差異がある。

 人はいさ 心も知らず ふるさとは 花ぞ昔の香に にほひける

子規はこんな歌は、「下らない歌」であり、「浅はかなる言ひざま」といっているが、これは貫之に対する屈折した愛の告白であるとしか思われない。子規の文章は、現代でいえばブログか、あるいはツイートかというレベルの話題も多いが、彼のものいいも彼の病をもってしては、幾許か容赦してやるべきことなのだろう。

子規が実に下らないと評するこうした歌は、確かになかなか外国人には説明しずらい叙情であろう。日本人はバカじゃないのかと思われても仕方ないのが、私たちのこの日本語のもつ美しい余情なのである。子規ほどの人がこのことを知らぬわけでもないが、縄文的、そして原始的なものへの憧憬は、子規のような発言に共感を覚えることも確かであろう。

子規と漱石というこの偉大なる文学者の対比は、私たちに多くのことを教えてくれる。漱石は評家たちが、暴力的に文学を採点していることに対して融通のきかないやつらだと言っているが、さすがの漱石先生も子規に対して「お前は心が狭いやつだな」とまでは言わなかったのではないだろうか、といったたわいもないことを考えてしまうのは、私だけではないと思う。