Last Updated: 2009.06.12

実験工房、そして科学的実験と思考

佐藤さんたちはいわゆる「実験工房」の一員であり、日本の実験芸術の開拓者のひとりであった。日本の戦後の歴史のなかで、前衛芸術やら実験芸術というものが非常に盛んである時期の芸術家のひとりである。

しかしながら、「実験」ということばの意味については様々な解釈があって、それをどのように使うのかによって、その人の人となりのようなものがでるのであると思う。

おそらく瀧口修造はシュルレアリスム的な実験の延長線上に「実験」のもつある種エロティックで原初的なものをその言葉に託したのであろう。瀧口修造の描いていた世界は、武満徹や加納光於などによって別のメディアでリアリゼーションされたと考えてもいいだろう。

彼らの描いている世界は、もちろん日本で生まれたシュルレアリスムや新しい芸術のひとつの分野であることは確かであるが、実験工房のメンバーは必ずしもその影響化にあるわけでもないし、<武満徹とその周辺現象>だけが注目されてきたことには彼らの作品をよく知る人にとってはあまりにもおかしな現象であると思う。

佐藤さんにはいろいろな面白い世界を見せてもらったが、北代省三さんのお宅に連れて行ってもらったのが、とても鮮明に覚いだされる。佐藤さんと北代さんの会話や視点は、他の世の汚れにまみれた人間のそれとは全く異なるものであった。二人はこうやったらどうなるか、ということを楽しむことが非常に上手であり、また非常に科学的であった。

佐藤さんは北代さんの使っている特に道具類に興味をもっていたし、北代さんもまた自分の工房(アトリエ?)に仕入れた新しい工具類がいかに面白いことができるのか、ということを語りあっていた。若い私はこの仙人たちの会話があまりにもすごいので圧倒されるばかりであった。

北代さんはそもそものはじまりが抽象画であるといっていたし、それに真剣に取り組んで、人生をそれにかけ、そしてそこからとてつもなく優雅な動きをするモビールを沢山作り出した。これはいまの若い芸術家たちがまずは芸術系の大学やらスケッチの勉強やらをしなくては抽象画もかけないと思っているのとは大違いであった。

要するに彼ら仙人と他の数多の芸術家との違いは、面白そうなことにどれだけ人生をかけれるか、ということが分かれ道なのであり、そしてどのようなものを面白いと思うのか、面白いと思うものが何故自分は面白いと感じるのかをどのように分析するのか、そのあたりが芸術家の作品のクオリティを決定するのであろう。

少なくとも二人は、非常に科学的に丁寧にそして細かく分析することに人一倍長けているし、陳腐な仕掛けでは絶対に納得できないくらい、人生や芸術を楽しめる人であったと思う。お二人が見ていた世界というのは普通の人がたどり着くところから一線を画しており、そして充分な努力と真剣さによって他の人ができない境地に達しているのだろう。

偶然性や実験というものもただやればいいというものではない。それは科学の世界においてもまず問題点を発見し、現状どこまでできるのか、そしてそれに対してどのような実験をすればどのような結果が得られるのか、それらをある程度予測して緻密に計算された装置を組み立てて、はじめて有意義な実験と、その考察結果が得られるわけである。そしてこのプロセスをきちんと真剣に考えながら組み立てられる人が「才能がある人」と普通の人に言われるのである。しかし当人たちにとってはそれらの行為は当然の帰結と、そして予想外の面白い結果を伴う行為に過ぎない。

「天からインスピレーションが降ってくる」とか「いままで誰もやっていないこと」というのは実は殆ど無意味である。そんな現象は子供騙しすぎない。何でもやればいいというものではないことは誰しもが分かっているが、真実に正直に向き合えない人は、ある程度のところで妥協してしまうのである。

私は佐藤慶次郎という偉大な人にであうまではこのことが分からなかったが、佐藤さんや北代さんというこの巨人のやりとりをいまも思い出すと魂が震えるような思いである。彼らは瀧口修造の描いた世界をはるかに超越した、実験によって得られる極めて広大で普遍的な世界観へとたどり着いたのであると思われる。

実験をするというのは、まずその前にどう実験をするのか、という問いかけがあってはじめてその行為が意味がある。そしてそのような行為をするためには、それには生きていること、私とは何か、そんな問いかけがあってはじめて行為の意味がある。そういった問題をさけて通る芸術塚が多いのはいまも昔も変わらないが、こうした基本的な命題からまず取り組むことができる芸術家は稀有である。

近年は芸術そのものがマスメディアやマスプロダクションの波に押されて消えつつある時代に、彼らがこの世に居たということはその存在自体が貴重であったといえる。しかし残念ながら、そういった価値を理解して、それを同時代的に享受できる人間は少ない。これもまた歴史の必然かも知れないが、人間とは何とも愚かな存在ではないかとも思われてならない。