Last Updated: 2020.03.11

新しい語法・高貴で胸をうつ簡潔さ

マルセル・ブリヨン(Marcel Brion, 1895-1984)は、ピエール・スーラージュ(Pierre Soulages; 1919- )のタブローにみられる関与(アンガージュマン)の価値について次のように語っている。

この若い芸術家が、もっとも重大で複雑な諸問題に面するときに見せる、あの高貴で胸をうつ簡潔さには、どこか毅然たる面持がある。ある人びとにとっては、抽象というものは、無味乾燥なものではなくて、じつに豊穣な流れに灌漑され、魂をゆり動かす感情の領域を含むものである

マルセル・ブリヨン『抽象芸術』(瀧口修造訳)249, みすず書房 1968年

スーラージュは昨年末の100歳の誕生日を迎え、ルーブルで新作を発表していることは、歓迎すべき少子高齢化現象であろうが、第二次世界大戦後の芸術家のたちが、いまもなお独自なその世界を渉猟し続けていることは、現代芸術が決して死なないものである、という芸術を愛する我々にとっての希望であろう。

Pierre Soulages, Peinture, 222 x 314 cm, 24 février 2008, Paris, Pierre Soulages.
© Archives Soulages © ADAGP, Paris 2019

第二次世界大戦後の芸術、いや20世紀後半の芸術–––それらは「現代芸術」と呼ばれてきたものは、近代ロマン主義の終焉とともに、この世に新しい世界観を若い芸術家たちは切り開き見せた巨匠たちの多くは、自らその新しい世界を見せるための、新しい語法を開発してきたといってよい。たとえばダダの灰のから生まれたシュルリレリスムはそのひとつであるし、音楽の世界でいえばシェーンベルクからクセナキスにいたるまで、ジョン・ケージやモートン・フェルドマンにいたるまで、新しい作品の創造行為と新しい語法の創造行為というのは、ある程度一体のものであったと言っても良いのだろう。

最近「怪物」と呼ばれる高橋悠治は、「美しい音楽」とか「いい音楽」など存在しない、面白い音楽というのは存在しており、その面白さというのは可能性があると繰り返し言っているが、これはある語法を孤立系で構築すれば、もはやその孤立形の内部で自己複製していくしか作品が創造されることがなくなってしまう、という弊害を指摘したものであろう。

孤立系が行き着く先は「物体の死」であり、その「死」をどのように超越するのか、というところから荒川修作たちの試みははじまっていた。私たちは彼のつくったアインシュタイン像を目撃し、その後は、養老天命反転地にいたるまでのひとつの物語を追いかけてきた。

荒川修作「抗生物質と子音にはさまれたアインシュタイン」1958-59
国立国際美術館(url

しかし、新しい語法によって記述されてきた作品は、その後イズムとなり、すべてのものごとを細分化するか、死を隠蔽し、制度を構築しようとしてきたことも事実であろう。

荒川修作の試みが意味のメカニズムの解明装置であったところから、建築的身体へと志向しはじめてから、我々はそれがある作品の創造とは別の何かになりつつあり、同時に非常に寂寥とした人間味を失いつつあることをも感じざるを得なくなっていた。

孤立化されたオリジナリティの大多数は、真の自由や独創、そして生命のダイナミズムとは縁遠いものとなってしまっている。

存在そのものから生成してきた現象ではなく、すでにある現象の一部を切り取ったに過ぎないものであるからである。しかしながら、我々人類は物質ではないのであって、人類の生み出す思想や芸術を物質へと還元しようという試みは、暴力と陳腐な叙情しか生み出さない。

水沢なお『美しいからだよ』は、いま日本人が読むべき現代文学の最高傑作のひとつである。普段はまったく異なるジャンルの仕事をしているので、この分野についてそれほど関心を払わない生活をしているが、この彗星のように地上に舞い降りた若い芸術家が創造したものは、かつては黒い紙に黒い文字で記されていた地球創造説の新しいバージョンであると同時に明らかに新しい語法であり、私はこの新しい芸術家の営為に無限の新しい可能性を感じている。

すでに同業の詩人たちがいくつかの詩評を行っているが、私はそれらの波及現象を含めてこの新しい芸術家の営みを「発光する硬水による浸潤型の視差記述法」と呼ぶことにしたが、まずは『現代詩手帖』に掲載されている「名前のない山」という作品から読んでみたい。それは次のような文ではじまっている。

自分の生まれた川の名前を覚えていますでしょうか

「名前のない山」

何とも面白い。挑発的であり、やさしさもある。哲学的でもあり、歴史的でもある。さらに彼女は次のように書く。

わるいけど もう 前みたいなことはできないからね

「名前のない山」

かつて前衛の人たちが初めの頃に語っていた台詞である。「前みたいなこと」とは何かは謎だが、こんなことを言うのはそんなに簡単なことではない。そしてこの詩は次のように終わる。

うんいやだ、全部いやだ、プラスティックの背骨、山脈、地図上に横たわるわたしの名前、名前のないわたし

「名前のない山」

この詩については本人がブログで次のように書いていることも実にすばらしい。

現代詩手帖2月号に詩を寄稿しました。

「名前のない山」という詩です。

 ひさしぶりに載せていただきました。

とても嬉しいです!やったー!そしてとても緊張している。こころなしか詩も緊張しているような気もします。

水沢なお より

このような戦略でこのような発言ができること自体、実に見事、天晴としかいいようがない。もういちどマルセル・ブリヨンの言葉を引用しておこう。

この若い芸術家が、もっとも重大で複雑な諸問題に面するときに見せる、あの高貴で胸をうつ簡潔さには、どこか毅然たる面持がある。

ブログによれば「名前のない山」は『美しいからだよ』所収の詩より随分と時間が経ってから書かれたものである。ひょっとして、これははるかに進化したなのか、いったいこれは何なのか、新しい語法の誕生を世界を目撃しはじめた者の問いはここからはじまる。