Last Updated: 2009.11.16

長生きをすべきか、自殺をすべきか

先日、ダライ・ラマ法王の講演会に行ってきた。

日本別院の僧侶たちの引率をしなくてはならないので早朝家を出て、高速道路をすっ飛ばして行く。ひとりで運転して行くときは大音量で好きな音楽をかけて、車中煙だらけになるくらいの自堕落な生活なのであるが、そうはいかないのでまじめに運転する。夜中のしまなみ街道は全くもって面白くも何ともない。しまなみ街道をおりて道後温泉まで行くのはカーブもきつくてしんどい。すこし急いで行き過ぎたか、5時半に到着してしまい、誰もいないし店も無い。

法王の講演会は9時からなので、時間があるからとりあえず近所のメルパルクで朝食をとる。メルパルクはとても親切で朝食をとれば温泉に入ってもいいし車も泊めてもいいと行ってくれる。郵政民営化も捨てたもんじゃない。

講演会開場は8時からなので8時ころに行き、講演会場に入るとまだ殆どお客さんもいないのに、大聖院の吉田座主がビラ配りをしている。大聖院の吉田座主はその世界では大物なのにこういう細かい下っ端の人がやるような仕事も率先してされるところがいつも頭が下がる。そこでビラ配りのお手伝いを同行したスタッフにお願いをする。ゴマン学堂のゲシェー3人を含めた日本別院のお坊さまたちは、何故か一番後ろの席に案内された。それでも入場料を払っていないので仕方ない。

日本別院の僧侶たちは人間ができているので、別に後ろの席でも文句はいわない。何故ならば大切なのは教えの内容であることを知っているからである。以前ケンスル・リンポチェが居られたときに法王の講演会に参加した時にも、前の席がとれなかったと文句を言う人がいたのでケンスル・リンポチェが私は後ろでもいいのでかわりましょうとおっしゃったこともあるくらいである。

私はすこし厄介な用事があったので、法王に取り次ぐために奔走する。まったくもって、いやな役回りだ。そもそもなんでこんなことをしないと分からないが、また代表事務所にいやがられることをしなくてはならない。法王とは何回も会わせていただいたこともあるが、その殆どは仕事である。それも殆どは誰かのいろいろな頼みとか打ち合わせとかを話を通さないといけない。法王と合っている数分とか数秒で重要なミッションを伝えるためには、自分のことなど一度も話たことはない。まあそれは仕方ないのだが、ここでは書けないが法王に直接話したい重要なことがある人たちの取り次ぎをした。法王は「ところでゴマンのお坊さんたちは来てますか」と聞かれる。「参っておりますので、後でこちらに一緒に参ります」と答えた。

講演会はいきなり法王が『中論』の最終偈を唱えられてお話をしはじめようとすると司会者が挨拶などをしなければいけないので「法王さま、ちょっとまってください」とさえぎる。もちろんこの司会者はチベット語が分からないので仕方がないが、すこし残念だった。法王はまず法話の前に釈尊に対する礼賛の偈を自ら唱えられるが、そんなことも司会者は分かっていないし、スタッフも分かっていない。法王はもちろんそんなことを気にされないので、「ああ、そうでしたね」と軽く流される。

いつもと同じように法王が仏教の概論をお話されて、質疑応答を長くとる。相変わらず日本人は要領の悪い質問ばかりで、また同じ質問ばかりだが、さすが観音菩薩、何でも的確に答えられる。輪廻転生というものはどう思うか、大乗非仏説に対する大乗仏教としての見解はどうか、日本は自殺者が多いけどどう思われるか、変成男子の問題などなど。いつも同じ質問だった。法王の講演会にくる前に法王の本でも読んできたらいいのにとは思うがまあ仕方がないかもしれない。

私が印象に残ったのは、「そもそも忍耐が足りないんじゃないかな。この世に60億の人がすんでおり、問題を抱えていない人なんて誰もいない。つらいことがあったくらいでいちいち死んでしまうほど視野が狭いのならば、私はもう何度も自殺しなくちゃいけなかったよ。」とおっしゃったことである。小さい時にダライ・ラマに認定され、常にその「ダライ・ラマ法王」という宗教的な指導者であり政治的な指導者でもあるという重責を担ってきて、いまも法王のために命を投げ出す多くの若者がいることを考えるとえも言われぬ思いがした。法王のご苦労を考えると想像を絶するものとしかいいようがない。

講演会が終わると日本別院のお坊様たちをつれて、法王のホテルまでおっかけ状態。法王はやさしくも厳しいお言葉を僧侶のみんなに告げて「ゲシェラーがはじめたことですから、みなさん頑張ってよい方向に行くようにしなさいね」「仏教の教説に仕えるということは意味のあることですよ」と彼らを励ます。私はみんなの写真をとったりしないといけないので、ばたばたしていると法王は「そんなに汗かいてどうするんだ」とおっしゃる。そこですかさず何を思ったのか、アボが法王に「この人は全然健康に気をつけないんで困ってるんです」と告げ口をすると「長生きをすることを考えなきゃだめだよ」とおっしゃってくれた。

それから僧侶のみんなはとてもうれしそうに、帰りの車のなかでも法王が引用した経典の文句を繰り返したり復習をしていたりしていた。もちろんダライ・ラマ法王のファンはたくさんいるけれども、やはりチベット人たちにとっては一生に一度でもお会いできればいい、観音菩薩であり、ラマである。この感情は日本人の我々にはなかなか分からないが、それを分かることからチベットへの理解ははじまる。

最近家族が入院したりいろいろあって、あれからしばらく経っていろいろと思うことがあった。いままで長生きをすることはあまり考えたことがなかった。

人はさまざまな場面で行き詰まる。しかしながらああもうだめだと思った時には、彼らの不屈の精神をみならってみて欲しい。そして「長生きをすることを考える」ということは大切なことだと感じるようになってきた。長生きをするのは何のためか、それはすこしでも他者のために役にたつことをするためである。チベット仏教で長寿灌頂というのがあるが、いま恵まれたこの人身を受けた環境において、より長生きをすることによってより多くの衆生を利益することができるようになるために受けるものである。

日本に自殺の文化が長いが、長生きをして他者を利するという精神をチベット仏教を通じて、人々に伝えられれば私のやっていることも多少は意味があるのではないかと思うようになってきた。