「仏教の教えは難しいので何とか分かりやすくしてくれないだろうか」そんな要望が多い。
しかしながら、よく考えてみると、そもそもそんなに簡単にできることなのか。仏教の教えは、簡単にいえば、縁起と非暴力である。そしてそれによってこの輪廻に終止符を打ち、死を超越し究極の快楽の境地にいたることにある。どのようにして死を超越するのか、それがそんなに簡単なことであれば、誰も修行をする必要がないのではないだろうか。
我々仏教に関わるものがまず学ぶべきことは、殺生をしないということである。しかしながら刺身や活け造りをみて「美味しそう」とテレビでは放送されている。「新鮮なお魚」つまり殺したての血の滴る死骸をみて喜ぶことをまずやめることからはじめるべきなのである。まずは殺生をしないようにすることから仏教ははじまる。難しいことではないが、そこには因果応報、縁起という極めて難解な理論が背景にある。
ブッダが悟りをひらいた後に最初に発したことばは、
私は極めて難解で計りがたい、光り輝く作られたものではない無為なる法を理解した。これは誰に説いても理解されることがないので、ひっそりとジャングルで暮らす方がいい。
というものであった。しかしその教えだけが唯一の救いであることを直感的に理解した梵天たちが教えを請ったからこそ法輪は転じられたのである。
現代の資本主義市場経済においては、価値やブランドというものは作り出されたものである。しかしながら、仏教というものはそのようなものではない。もちろんこの世の現世的な生活に役立つ教えもあることはあるが、それはあくまでも「ついで」なのである。仏教の本質はまず死に直面してから意味があるものなのである。しかしながら、そんな簡単なことすらも避けて通ろう、死を隠蔽しようとしている人々にはなかなか伝わらない。
価値を見いだすために重要なことはまずは落ち着いて物事を分析する必要がある。まずは落ち着いて自らの死を想うことが重要である。