Last Updated: 2011.05.13

ものつくりとものがたり

いろいろなものがある。

それらには作り手の生きる意志が宿されたものもあるが、そうでないものも沢山ある。作り手の意志がそこに宿っている場合には、もはやその作り手がいなくなっても大丈夫である。それらはものとして永遠に何かを語りかけている。

言語に頼ることなく、その語りかけるものをつくりたいと思ってきたが、日々の雑事に追われてものをつくるということ、あるものを生み出すということが容易ではないことを時々忘れている。ただものをつくり出すことと排泄することとは違う。ものを受け取るということとそれを消費することとは異なっている。

むかしある武士がいた。

彼と私はひょんなことで出会ったが、彼は生涯武士であった。彼はさまざまなものに名前をつけたし、さまざまなものを愛でることを知っていた。しかし彼はものをつくることはできなかった。そこで若く生意気な私は彼に落武者の雅を感じ、見限ることとなった。

いま思えば彼はものをつくりたいというその欲望を実現できる立場ではなかった。それが武士であることの限界なのではなかったろうか。家というものに住み、彼には責任があった。ものをつくるためにすべてを投げ出してしまうことだけは彼にはできなかったのだろう。

彼に私は自分の行く末をみるような気がして、そのうち彼とは別の、ほんとうにものをつくり出す人のもとへと去ってしまうこととなった。そしてその行為そのものが私が何らかの変化を遂げたいという意志そのものであったような気がする。

それから大分年月が経ってしまった。逃げるようにして去っていった私は彼の死に立ち会うことなく、そして彼との別れをすることなく、彼は去って行った。彼に再び会いたいと思ったことは何度かあるが、少なくとも自分自身が作り手のひとりになるまでは、彼には会えないのではないかという気がしていたことも確かである。

彼に再び会うことができる日はついに来ないまま、終わってしまった。それはまだ自分が充分に彼が愛でるような対象を生み出せなかったことの証拠であろう。

ものがたりをつくることは容易ではない。それを彼がいまも静かに私に教えてくれている。彼があの冬の寒い日に私にくれたあの大地が震えた一瞬を私は忘れない。彼を弔うためには、再びそれを生み出すために真剣に取組む必要がある。