Last Updated: 2011.05.18

仏教の研究をするために

仏教の研究をするということは、読み下すのならばブッダの教えを研ぎすました感性で究明しようとすることである。それは決して「仏教」というジャンル分けをされたものを対象として、そのものを客観的に社会に提示するためにその芳醇な要素を篩にかけて、捨ててしまうことではない。

しかしながら、最初に「研究」をしようと思ったころや、それに対する研究に必要最低限なスキルを身につけるための努力をしているうちにそういうことを忘れてしまう人が多い。

仏教の研究者になろうと思ったころには、サンスクリット語、チベット語、漢文、パーリ語などなど学ばなければいけないものが多い。それらの語学を学ぶうえでは、語学能力の向上のためにそれらの言葉を使っている人たちのことをもっと知らなければならない。何故ならば、その言葉がどのような意味であるのか、ということは、あくまでもその言葉を発する人に対する思いやりというか、想像力から理解されるものであるからである。

たとえば現代の仏教学では仏教論理学というものが非常に注目されてきた。これは仏教にまつわる文化の担い手たちが宗教やブッダの教えというこの巨大な象をどのようにあつかっていいのか分からないという不安を代償としたものである場合が多かったと思う。モダニズムではなくて古典主義になった人々は、たとえば新しい写本の発見といった、古い実在的な価値観から解放されることなく、むしろ崩壊したモダニズムのなかで少ない実在的な価値に命をかけてきたといってよいだろう。しかし、この世を見てみよう、骨抜きになった魚のように、教えの輝きを失った仏教学は、人々の心を揺さぶることができないまま、社会はもっと悪くなっているのである。

我々はほんの少しの周りの人と同時代の人たちのために生きている。それらの人たちのなかで一体自分というものがどのような位置に立つべきなのであり、どのようにこの「私」という記号を人々のなかで面白い存在にするべきなのか、ということは誰しもが考えなければいけないことである。しかし、そのような事実を直視することの恐怖に脅えている。

ある人がお前は論文を沢山書いてないなといったことがある。つまらない論文を沢山書くくらいならば『中論』のようなものを書きたいとこれらの人は思ったことはないのだろうか。決して多くを語ることが重要ではないはずである。適材適所に言葉をちりばめて、その仕掛けを人々がどのように楽しんでくれるのかとういことを考えるのは、小さな楽しみであるはずである。それらのことを日常の雑事に追われて忘れてしまっていることが多い。

我々は毎日問いかけなければならない。ブッダはいまもここにいて何を我々に教えているのか。彼らの言葉をまず性格に理解することをはじめ、そしてその教えを感受することから仏教の研究ははじまる。