Last Updated: 2012.01.05

肉の塊に翻弄されるひとびと

五蘊成苦もしくは行苦というのは人間の基本的欲求そのものが苦の原因であるという仏教独自の苦しみに関する洞察を表している。我々人間は肉体に対する欲求がその本能的な衝動であり、それが無常で無我であるにも関わらず、その価値を過剰評価している。

たとえば衣服住といった我々の基本的な文化領域もそのペルソナ的な存在の延長線上にあり、そのことがすべての欲望や憎悪の基盤となる主語である。殆どの認識がこのペルソナ的な存在を対象としているのであり、社会学や医学の対象もこれらのペルソナ的な存在の価値を如何に詐称して、過剰に評価したらいいのかというその方法論を説いている。

自由に対する欲求はこの本能的衝動に対する反動である。何故ならばその本能的衝動は堪え難いほどの苦しみの連鎖を生み出しており、どのような人間であってもこの肉の塊を維持すること以外にさほどやることがないからなのである。

多くのロマンチシズムは肉の塊に対する醜い執着を覆い隠すのに充分な美辞麗句をならべたてるが、最終的に肉の塊を得られたとしても、その肉の塊を消費しても何も得ることができないという悲劇に達成するしかないのである。

人間たちがこの地上で互いに肉の塊を共喰いしないために、人類の歴史が続いてきた。まだそれも発展途上であるが、肉の塊から解放される日を目指すことこそが、最終的に孤独な砂漠にたどり着かないための安全策ではないだろうか。