Last Updated: 2008.10.30

「チベット僧」「日本僧」「アメリカ僧」

最近チベットに関する関心が高まるに連れて変なことばが氾濫している。

「チベット僧」

これがそれである。そもそも「チベット」(Tibet)は英語であるが、場所や国家の名前を表すのであって人間や言語を表すのではない。それにも関わらず「チベット僧」という表現を新聞までもが使用している。でもこの言い方は違和感を感じざるを得ない。日本人が「日本僧」「広島僧」「横浜僧」といわれたらどんな気分であろうか。そしてそんな日本語はあり得るのであろうか。

日本人の知性の低さもここまできたかと思いながらGoogleで検索してみると「チベット僧」は187,000ヒットするのに対して、「チベット人僧侶」では、291,000ヒットしたので、ちょっと安心した。

しかし「チベット語」「チベット仏教」はまだいいしこれは言葉使いとしても正しいものであるが、「チベット僧」はいただけない。「チベット人の僧侶」という意味での特定の民族もしくは集団を表現したいのか、「チベット仏教の僧侶」というようにその宗教的伝統を表現したいのかさっぱりわからないからである。「モンゴルの首都ウランバートルにはモンゴル人のチベット僧があふれている」という文章があるとすれば、それは「チベット仏教の僧侶」のことであることは簡単に予測できるが、「内モンゴル自治区にはチベット僧がたくさんいる」ではその人がモンゴル人なのかチベット人なのかさっぱりわからない。

ましてや「カナダにいるチベット僧テンジン・ドルマさん」という人がいるとすれば、その人は、僧侶(ふつうは男子)なのか尼僧(ドルマは女性に多い名前)なのかわからないし、その人がチベット人なのか、モンゴル人なのか、もしくはアメリカ人なのか、さっぱりわからないのである。

私は復古主義者ではないが、日本語は正しく使うべきである。もちろんある程度のあいまいさは日本語に基づく独自の文化であることは認めたいが、こんな知性のない言葉を特に情報を提供する側の人間が使うべきではないだろう。

もちろん意図的にやっているのならば別であるが、現代社会のように個人が多数である他者に簡単に情報発信できる時代だからこそ、ことばの表現というものに個人個人が気を配る必要があると思われてならない。