Last Updated: 2008.11.18

50年間の亡命生活がもたらしたもの

チベット亡命社会では、今年の3月のチベット危機を受けて、今後どのような方針でこのチベット問題を解決するのかということについて議論が行われている。その様子はダラムサラの中原さんのブログに詳しい。

そこでは非常に積極的な議論が行われており、チベット人は独立するのか、そのまま中国のなかにとどまるのかの選択肢だけではなく、それらをどのように実現するのか、そしてその政策の正当性がどこにあるのか、ということにまで議論が及んでいる。この会議で発表されるプレゼンテーションのいくつはphayul.comやJamyag Norbu氏のブログなどで公開されている。

それらを読んでみると非常に感銘をうける。というのも、みながこの問題について本当に真剣に考えており、また近年の50年間にもわたる亡命生活は、チベット問題について国際社会を納得させるに十分なロジックをもちつつあるからである。

そもそもダライ・ラマのインド亡命はチベットの復興のためであったし、彼を慕ってやまないチベット人を守るためであったことは誰でも知っているだろう。そしてチベット人のメンタリティを知っている人ならわかるが、ほとんどのチベット人は、やはり新しい「チベット」という国家を建立するか、もしくはそれに準ずるローカル・ガバナンス(いわゆる高度な自治)がなければ、「チベット人」としてのアイデンティティが保持できないことを知っている。ただ現実的にそれが可能なのかどうかということが問題なのである。

第三者の我々日本人のチベットサポーターとして重要なことは、彼らがどのような選択肢を最終的に22日にどのような結論を選択するとしても、それが彼らの総意であることは間違いないということである。もし今回の会議が独立復興を目指すものとなったのならば、それは「分裂主義」であり「反政府活動」となるであろう。しかしそれはあくまでも侵略者の視点にたつものに過ぎない。

我々第三者の人間がチベット人がもともと自分たちのものを取り戻そうとすることを目指すからといって、チベット支援から一切手を引くようなことがあるのならば、それはいままで偽物であったということにほかならないのである。

我々が決して忘れてはならないのは、チベット問題の根底にある問題、それは

「歴史的にチベットは中国の一部ではない。」

というこの単純な命題なのである。