Last Updated: 2009.12.16

空/実体/真実

ことばの定義をしない議論は不毛である。

世界中のさまざまな哲学的議論のなかで、議論を尽くすために巧妙に構成された定義集よりなるチベット仏教の世界は、叙情的なことばづかいの世界からは全く離れたものである。

空とは「実体がない」ことであるとか、「実体的な存在がない」ことであると書かれているものを見るとこれはどうかなと思う。何故ならば、空であるということは、まず最初に「あるもの(X)が何らかのもの(Y)を欠いている」時には、XはYについて空である、といわれるのであり、まずそこに留まって何らかの意味付けをする前にこのことを考えるべきであるからである。

空と実体と真実についてはツォンカパの『善説心髄』に詳しく議論されているが、あまりにも難解な議論がつづくためには、それを整理して理解している人が少ない。

簡単にメモっておけば要するにこういうことである。

  • 実体有/仮説有:時間軸に継続して連続するのかどうかを論じる場合
  • 真実/虚偽:ある知に対する表象者とその知が向かっている場にある実在者とが一致するかどうかを論じる場合
  • 空:ある場所にあるものが有るのか無いのかを論じる場合

空は仏教で最も重要な教義である。その割には通り過ぎる人が多い。それは何故かというとことばの定義なしに議論が多くなされているからであろう。

ツォンカパの空思想について長年考えてきてわかったことは、これは究極的には煩悩論であり、思想の均質化・自動化ということを彼はやっているのではないかということだ。これは私は本を読んで考えたのではなく、その本を伝える人の雰囲気から感じてきたことである。一応それを様々な角度から論文に書いてきたつもりだ。私の印象では、ツォンカパというこの巨人はそれまでのいろいろな解釈の問題に終止符をうつという作業をしただと思う。ケードゥプジェはその終止符をさらに強烈な刻印として残す作業を行ったのではないだろうか。彼らの述べていることは、哲学的なものであるが、実はそんなダイナミックな魅力がある。

そんな魅力を教えてくれたのは、チベット人の先生たちである。彼らはその生きたことばを自らの生きたことばとして伝えている。そこが魅力である。彼らの講義には無常の風が吹いたり、空の風が吹いたりする。

そんな魅力を何とか表現したいと思って、いままで少ないけれども論文で書いてみたのだが、しかしほとんどの人が私の書いた論文を読んでくれないようである。私の知り合いや友人で私の論文の感想を言ってくれる人もいない。何とも寂しいものである。自分なりにすこし冒険した部分などは、「あなたのこれはちょっとだめですよね」とか言ってくれる人がいるといいのにと思う。

研究者としての私は科学の進歩というこのモダニズムの夢を見続け、論文の数を増やすために論文を書こうと思ったことは一度もなかった。しかしそれはこの吐き捨てられたメモの集積のように無責任な単なる自己満足にすぎないのかも知れない。

いままでいつも常に新しい発見と新しい視点だけを提示してこようと努力してきたつもりである。しかし最近分かったことは、言葉少なくいくよりも、くどくどと同じことを繰り返し述べる方が人には通じるということだ。

とはいえ、これからそれを反省してくどい人間になるかどうかといえば、それもどうかなと思う。それはすこし雅ではないではないか。いまだに私は短い言葉が好きである。やはり日本人だとつくづく思う。