Last Updated: 2008.05.04

チベット問題の深い闇

1959年まで続いた中国人民解放軍によるチベット侵攻は、最終的にダライ・ラマ14世をインドへ亡命させた。当初十四世の亡命も一時的なものであると誰しもが思っていた。しかし現実はその逆となり、チベットはそれ以来、深くそして重い闇の淵に沈んでいった。それは過去には一度も経験したことのない、暴力による文明の破壊行為だった。恐怖の「文化大革命」は1970年代前半まで続き、六千五百以上あった僧院は破壊された。僧侶は還俗させられ、仏壇の仏像はゴミとして捨てられ、その代わりに毛沢東の写真が鎮座した。

「文化大革命」が終ると、鄧小平による改革開放政策がはじまった。鄧小平はチベット「独立以外の選択肢であれば、すべて対話に応じる」とダライ・ラマに告げた。1980年には胡耀邦がチベット政策の誤りを認め、徐々に信教の自由が認められはじめた。ダライ・ラマは独立要求を取りやめ、数回の使節団を送り、双方にとって有益な解決策を模索した。1987年には米国議会で「五項目の和平プラン」を発表し、翌年ストラスブールでも和平案を提示した。1988年9月には、翌年1月に両者の実質的な対話が行われる予定が組まれた。誰しもがこの対話に希望の光を見出した。

しかし1989年は全く異なるものとなった。1月にはパンチェン・ラマが急死し、対談の約束は反故にされた。3月にはラサで抗議デモが発ったが、胡錦濤はそれを理由に徹底的な弾圧を行った。6月には天安門事件が勃発し、戦車で人間が潰されるのを世界は目撃した。同年ベルリンの壁は崩壊し、ダライ・ラマはノーベル平和賞を受賞した。しかしチベット人にとっては希望が絶望に変わった一年であった。

言論の自由は体制崩壊をもたらす、この危惧がチベット問題の解決を拒む結果をもたらした。文革時代に抑圧されていた民衆の声が結果として政策変更を引き起こし、天安門事件がそれを確証させた。結局鄧小平はチベット人に大いなる希望を与えたが、同時にその希望を絶望へと変える選択肢を選んだのである。九一年のソ連崩壊は彼らの軌道修正の正しさを立証し、チベット人たちは再び大国のエゴの犠牲になった。

鄧小平の後を継いだ江沢民、胡錦濤はこの時はじまった分離主義への弾圧と経済発展という二本柱を継承した。特に経済発展に重点をおき、国際社会への市場解放により、民主化への声を沈黙させた。この時代から徐々に偽物の「中国という国家と不可分な経済発展に裏付けられた新しいチベット文化」が作り出されはじめた。ダライ・ラマの海外での人気は、チベットを観光資源化する発想をもたらして、毛沢東の時代でさえも不可触であった、化身ラマ制度等のチベット仏教文化の奥深くまで北京政府は侵食し、昨年には次のダライ・ラマを都合よく選べる制度を法律化し、大量な移民流入を可能にする青蔵鉄道を整備し、観光産業への莫大な投資によって、チベットを巨大な見世物小屋にした。

もはやチベット問題について中国政府はダライ・ラマと対話する必要性は全くなくなった。ダライ・ラマも永遠ではないし、いつかはこの世から去るだろう。国際社会でさえチベットのために中国の巨大市場を手放しはしない。誰しもが望まない中国の体制の急激な変化、それは巨大市場の混沌化にほかならないからである。

今年の3月以来、再び多くのチベット人が自由や人権を求めて悲鳴をあげた。中国政府は北京五輪前に「独立チベットを叫ぶ暴力的テロリスト、ダライ集団」が「オリンピック・ボイコット」を叫んでいると争点をすり替えた。チベット人への抑圧は、世界公認の「テロとの戦い」として正当化しつつある。二十代前半の未来あるべき若者たちの屍の山が積まれ、家畜のように人間が連行されている。女子供も眠れない日々がいまも続いている。もはや信仰心しか残っていない人々の心をナイフでえぐり出す「愛国教育」の集会が各地で行われ、彼らの信じる観音菩薩は実は鬼であるし、彼らを救わないという発言が強制させられている。

この深い闇は一体いつになったら明けるのだろうか。チベットの人たちは反日教育で知っている。東には日本という大乗仏教の伝統をもった先進国があることを。そしてその国はかつて中国を震撼させ、ダライ・ラマ13世のインドからの帰国を実現してくれた巨大な仏教国である。チベットの人たちの小さな押し殺された断末魔の声は、日本の仏教徒の心に届いているのだろうか。私たち日本人とよく似た顔をした、私たち日本人と同じ釈尊の弟子たちがいま死んでいる。