チベット語は会話は比較的簡単であるが、文献を読もうと思ったら結構大変である。
というのもチベット語は文語と口語がはっきりと分かれており、
チベット語の文献は一般図書というものはあまりなく、
高度に専門的な文献が多いことが原因となっている。
だからそんなチベット文献を読もうと思うのならば、積み重ねて得られた知識が必ず必要となり
それが読めるようになるためには、何年も訓練する必要があるだろう。
膨大な古典に囲まれたチベット社会の文化を語るためには
まず古典を知る必要があるのである。
しかしいまごろの社会は物騒な社会である。
少子高齢化のなかで大学は古典研究は人気がなく排除されつつある
私が卒業した「東洋哲学専攻」もいまは存続の危機に瀕しているそうである。
最近大学で英語を教えている先生と話す機会があった。
一時期は人気を誇った英文学科でさえ最近では、
シェイクスピアやミルトンを学んでも何にもならないそうである。
ましてやウィリアム・ブレイクなどもう読む人はいないのかも知れない。
このままいけば古典研究をする人がいなくなるだろう。
そうすると日本の古典研究の質は確実に低くなるだろう。
同時に外国の古典を日本語で語れる人間は減ってしまう。
世界の古典は英語圏で生き続けるだろうが、
日本語で表現できることも大切なはずである。
今回チベット問題は急激に脚光を浴びたが
新しくでた本の殆どが付け焼き刃のようなものばかりである。
“ダライ・ラマの子育て法”とか“ビジネス論”とかいろいろ恥ずかしげもない出版文化が
高尚な古典の薫り漂うダライ・ラマ法王の法衣の薫りを打ち消している。
チベットの古典と呼ばれるものはいまだに充分に出版されていない。
それらを翻訳する人材を育成する場所もあまりないし、将来もそんなものはできないだろう。
古典研究はこのまま沈没するのかと言われれば、多分沈没すると答えざるを得ない。
沈没船から脱出する人の方が多いと思うが、しかしひとつだけ希望がある。
それは我々古典学に関わる人間が強情で頑固者だってことだ。
我々が死なない限りこの世界は絶滅しないだろう。
そしてこんな将来性のない世界に踏み込んでくる馬鹿な若者も後をたたない。
それが古典のもつ最大の魅力であり、罠である。
そんな罠にはまっている人がいるのが学会である。
だから学会にはいついっても楽しいものである。